『羽音』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『羽音』について

小説女性1969年7月
出版 … 『病めるときも』朝日新聞社1969年10月
現行 … 『病めるときも』角川文庫・小学館電子全集
わがままな妻に悩まされる堀川慎二は思いやり深い石井律子に出会い惹かれるが、律子は慎二の前から姿を消す。いのちを育てる巣である家庭の礎としての結婚と、その尊厳の前に自己中心な愛を葬る心のドラマを描く佳篇。

『羽音』

   一

 堀川慎二の運転する車が、札幌さっぽろ市の郊外、高級住宅の建ち並ぶ真駒内まこまないに入った。その一劃いっかくにゴルフ場がある。もうくらみかかったゴルフ場の芝生は、暗緑の海のように静まりかえっている。
 やがて車は、大きなポプラの下を曲って、慎二の家の前に来た。ふと、慎二は胸さわぎがした。あたりの家々は既に灯りがついているというのに、慎二の家だけがひっそりと暗かった。
 クラクションを鳴らしたが、家の灯りはつかない。
(遂に!)
 慎二は、妻の紗貴子さきこが東京に去ったのかと思った。ガレージに車を入れ、急いで玄関の前に立った。取手に手をかけると、ドアはあっけなく開いた。家の中はしんとして、物音一つしない。慎二は門灯をつけ、スリッパをつっかけると、右手のリビングキッチンに入って行った。来たるべきものが来たという思いで、部屋のスイッチをつけた時、思いがけなく紗貴子が、ぼんやりとソファに腰かけている姿を慎二は見た。
「なんだ、いたのか」
 安心した瞬間、ふいに慎二は怒りがこみあげて来た。
「いるわよ」
 紗貴子は、腕を組んだまま慎二を見上げた。細面ほそおもてのあごが尖って見えた。
「電気もつけないで、どうしたんだ」
 流しもとには、汚れた食器がそのままボールの水につけられていた。
「文夫はどうしたんだ?」
「井口さんのお宅に、遊びにいきましたわ」
「飯にしてくれ」
 腹の立つのをこらえながら、慎二は椅子に腰をおろした。紗貴子は依然として腕を組んだまま、慎二の顔を見ずに答えた。
「わたし、もうごはんを作る元気などありません。カツどんでも取りましょうか」
 こらえていた慎二の怒りが爆発した。
「何がどうだっていうんだ! 亭主に飯も食わせられないほど、いったい何が不満なんだ」
 紗貴子の細い眉が、ぴりりと動き、唇がかすかにふるえた。
「わたし、こんな田舎いなかで暮らすなんて、まっぴらよ。東京はまだ暑いのよ。なんなの、この寒さ。まだ九月じゃないの。ああ、いやんなっちゃう」
 東京に生れ、東京に育った紗貴子は、札幌に来て以来、毎日のように東京に帰りたいと訴えつづけて来たのだった。
 堀川慎二は、昨年の秋、東京本社から札幌支店に転任して来た会社員だった。僅か三十五歳の慎二が、大手のK商事の札幌支店経理課長として抜てきされたことは、破格の昇進であった。しかし、裕福に育った紗貴子は、東京を離れて暮らすのはいやだと頑強に言い張り、慎二に転任を辞退するようにと、しきりに迫った。
「札幌なんて田舎はいやよ。わたし娘時代から、週に一度は銀座を歩かなければ、気がすまないのよ」
 紗貴子の父は、K商事と同系会社のF商事の専務だった。男一人女一人のきょうだいで、何不自由なく育った紗貴子は、万事が派手で、わがままだった。
「田舎だって? 冗談じゃない。札幌はリットル東京といってね。人口九十万の大きな町だよ」
 慎二は幾度も紗貴子を説得しようとしたが、紗貴子はがんとしてかなかった。寒い所はいやだとか、札幌には銀座がないとか、将来文夫の進学に影響するとか、父母も友人もいないとか、次から次へと自分勝手な理くつを並べて、遂に慎二を単身赴任させたのだった。
 情けない思いで赴任してみると、札幌には単身赴任者が余りにも多かった。妻が病弱だとか、子供の教育のためとか、東京に家を持っているとか、紗貴子と同じような理くつをつけて、夫に従わない妻の多くいることを知って、慎二はやや安心もしたのだった。その単身赴任した連中を、人々は札チョン族と呼んだ。再び独身の気分を味わって楽しいとか、女房の目を逃れて自由にふるまえるとか言いながらも、彼らはやはり東京に帰る日を、心ひそかに待っているようであった。
 慎二は、日本人離れのした彫りの深い容貌だった。赴任した日から、たちまち女子職員たちの注視のまとになった。それは、頭の禿げかかった前任課長とちがって、あまりにもきわだった容姿であったし、単身赴任であることが、いっそう大きな魅力になったのだった。
 だが慎二は、ストイックな男であった。バーなどを遊び歩くこともなければ、女性関係をうわさされることも一度もなかった。ひと月に一度は会議や打ち合せで東京に帰るためもあったが、やはりそれは、紗貴子に対する慎二の愛情といえた。しかし紗貴子は、そうした慎二の心を思いやることもなく、とうとう五月までの丸七か月間を、慎二に不自由させたまま、東京に残っていた。
「慎二さんだって、男なのよ」
 何度か母にいわれて、紗貴子はやっと五月に札幌に移って来た。すぐには慎二が東京に帰れないと知ったからでもある。
 会社で用意してあった慎二たちの住宅は、元アメリカ軍の家族たちが住んでいた真駒内まこまない一劃いっかくにあった。札幌の他の街とは全くかけはなれた、エキゾチックなしょうしゃな街だった。いたる所に芝生があり、モダンな家が建ち並んでいた。
 だが紗貴子は、この外国のような街にも目をつぶって、札幌は田舎だと不平を言い、いっこう楽しい顔を見せなかった。慎二はふと、紗貴子には東京に男がいるのではないかと、疑ったことさえあった。そう思わせるほど、紗貴子のホームシックは異常だった。夕方になると目に涙を浮かべたり、毎日のように東京の実家に電話をかけたりした。電話代のかさむことなど、紗貴子は全く念頭にないようであた。
 夏も過ぎ、九月に入ると、紗貴子のホームシックはこうずるばかりだった。支笏湖しこつこに誘っても、定山渓じょうざんけいに誘っても、紗貴子のホームシックはなおらなかった。この一週間ほどは、慎二が会社から帰って玄関に入っても、出迎えに立つこともなくなった。そして、
「東京に帰りたい」
 と、顔を見るなり涙ぐむのである。
「ぼく、札幌のほうがいいや」
 と、五歳の文夫は、すっかり札幌の生活にじんでしまったが、紗貴子は日毎に東京恋しさが募るようであった。
 東京に帰りたいという言葉を聞く度に、慎二は、紗貴子が自分よりも誰かを愛しているような、冷えびえとしたものを感じないではいられなかった。初めのうちこそ、涙ぐんでいる紗貴子を見ていると、わがままとは思いながらもあわれでもあった。ノイローゼかと不安になったこともあった。だが今では、日毎に自分と妻との距離が離れていくのを感じないわけにはいかなかった。
 今日のように、疲れて帰る夫に夕食も用意せず、暗くなった家の中に、身動きもせずにいる妻をみると、慎二は七か月にわたる不自由な生活を強いられたことへの怒りが、何倍にもふくれ上って、胸の中が煮えたぎるのだった。
「わかったよ、紗貴子。お前はおれという男よりも、東京の誰かが恋しいんだ。おれはね紗貴子、おれと一緒なら、たった二人の山の中でも楽しいと言ってくれる女が欲しいんだ。別れよう」
 冷静に言ったつもりだったが、声がうわずった。組んでいた紗貴子の腕がだらりと下がり、紗貴子は目を見ひらいて慎二を見た。
「あなた……」
「東京に帰りなさい」
 いつの間にか慎二は、部屋の中を行ったり来たりしていた。手を突っこんだズボンのポケットに、車のキイが冷たくふれた。
「あなた、いやよ。わたし、別れるなんていやよ。別れるなんて言ってやしないわ。ただ東京に帰りたいだけなのよ」
 紗貴子も立ち上っていた。
「だから東京に帰ったらいいだろう。おれは地の果までも、おれと二人でいくという女と暮らすほうがいい」
「まあ! あなた、そんなひとがいたんですか」
 慎二は立ちどまった。慎二にはどんな女もいなかった。
「いないわけじゃない」
 そう言った時、ふと慎二は、石井律子のつつましい横顔が目に浮かんだ。慎二にも思いがけないことだった。
 紗貴子は、自分中心の幼い女だった。慎二に別れると言われて、初めて慎二を遠くに追いやっていたことに気づく女だった。紗貴子は紗貴子なりに慎二を愛しているつもりだった。自分が東京に帰りたいことと、慎二への愛とは、紗貴子にとって別問題だった。慎二は、何でも自分のいうことを受けいれてくれる優しい夫であった。その優しさに紗貴子はれ、甘えていたのだった。別れるといわれてから、紗貴子はにわかにあわてた。そして「女がいないわけじゃない」と言った慎二の言葉をうのみにして、紗貴子はその夜一晩泣きあかした。
「もう東京に帰りたいっていわないから、わたしを捨てないで」
 こんなに紗貴子が下手したてに出たことは、結婚以来初めてのことであった。だが皮肉なことに、慎二の心に、わずかな隙間すきまからするりと入りこんだ石井律子の面影は、急激に慎二の胸の中を大きく占めて行った。

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