『新約聖書入門 心の糧を求める人へ』( 三浦綾子作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

エッセイ『新約聖書入門 心の糧かてを求める人へ』について

連載 … 宝石1977年1月〜1978年1月
出版 … 光文社1977年12月
現行 … 光文社文庫・小学館電子全集
1977年~1978年「宝石」に連載。四つの福音書に書かれた有名な「親切なサマリヤ人(ルカ10章)」「放蕩息子(ルカ15章)」「姦淫の女(ヨハネ8章)」などの部分を中心に、日本人に分かりやすく解説されている。

「まえがき」

 人は一体、いつ、いかなる動機をもって聖書にふれるのであろうか。日本の家庭の八割は、聖書を持っていると聞いたが、その聖書を、人はどのようにして持つに至ったのであろうか。
 人に贈られたという人もあろうが、ある日書店の店先で、ふと目にとめて買ったという人もあるであろう。いつか私は、一冊の聖書を求めるために、離島からわざわざ船に乗って、本州の町の書店まで買いに行った人の話を聞いて、感動したことがある。
 とにかく、いろいろな形で聖書が私たちの家の中にあるのである。だが、いかに自分自ら求めて買ってきても、その聖書をすぐにはじめから終わりまで読みとおした人は、そう幾人もあるとは思えない。たいていの場合、開いてはみたが、すぐに投げ出してしまったとか、ずいぶん昔から家に聖書はあるが、手にとってみたこともないとか、というのが日本の場合の聖書との関わり方ではないだろうか。
 世には、聖書には全く無関心で一生を終える人も少なくない。だがどんな人であっても、一生に一度や二度、必ず、
「ああ神よ」
 と叫び、
「一体どうしたらいいのだろう」
 と、うめくような悲しみや苦しみにあうことがあるのではないか。
 もし、そうしたときに、その人が聖書を知っていたならば、その苦しみや悲しみは、その人にとって、単なる苦しみに終わらず、もっと別の意味を持つかもしれないのである。
 私自身、聖書を知らなかったときの自分と、知ってからの自分とを比較して、そう思うのである。私は十三年もの長い病気もした。肉親や恋人の死にもあった。人間関係の悩みにもあった。だが、聖書を知ってからのそうした悲しみや苦しみは、以前の悲しみや苦しみとは全く別の意味を持つようになった。
 私は、聖書を一度も手にしたことのない人、読んではみたいが、むずかしそうで読めないと思っている人、そうした人たちと一緒に、新約聖書の世界について、つとめて平易に語り合いたいと思って、稿を起こした。私にとっても、聖書はむずかしい本であっただけに、そうした人たちの気持ちがわかるからである。
 ところで、今はあまり見かけないが、私の少女時代、昭和しょうわの初期のころには、路傍伝道ろぼうでんどうをしている救世軍きゅうせいぐん(キリスト教の一派)の姿をよく見かけたものである。太鼓たいこたたきながら、

  ただ信ぜよ
  信ずる者は誰も
  みな救われん

 と、讃美歌さんびかを大きな声でうたい、聖書を読み、道行く人々に語りかけていたものだ。
 ほとんどの人々は、関心を示さずにさっさと過ぎ去っていく。なかには、
「ヤソの糞坊主くそぼうずが」
 と聞えよがしに、悪態あくたいをつく者もいた。ときに、二人か三人、立ちどまってじっとその話に耳を傾ける人もいた。私はといえば、その関心を示さず立ち去る仲間であった。
 しかし、この路傍伝道から導かれて、信徒や牧師になった人も、意外にいたのである。
 私は、この『新約聖書入門』を、光文社発行の「宝石」という月刊誌に、昭和五十二年一月号から十三回にわたって連載した。政治、経済、社会事件を中心に編集されるこの雑誌に、「新約聖書入門」を連載するにあたって、私は何となく、路傍伝道をはじめるような感慨を持った。この雑誌は宗教誌ではなかったからである。多分、多くの人は、「新約聖書入門」と題する私のページには、何の関心も示さずに、飛ばして読むのではないか。私はそんなことを思ったのだ。
 この一冊となった本もまた、いろいろな種類の本の並べられる店頭の片隅かたすみに並べられることであろうが、やはり路傍伝道のようなものであろうと思う。
 ほとんどの人は、この本を手に取ることはないのではないか。が、何人かの人は、熱心に読んでくれるかもしれない。そんな人が、たとえ一人か二人でもいい。私はその人たちのために、この本を世に贈りたいと思う。
 くり返すが、私はこの『新約聖書入門』を、終始つとめて平易に書いたつもりである。私はもとより、牧師でもなければ教師でもない。毎週教会に通って、礼拝れいはいを守り、牧師の説教を聞いているひら信徒に過ぎない。だから、専門的なことは何も知らない。キリストを信じて二十五年間に牧師や、信仰の先輩たちに聞いたり、さまざまのキリスト教誌や参考書の中で読んだり、自分で感じたり思ったりしたことを、書いただけである。先人たちが研究し考えたことが、私なりの形でこの書に現われただけで、いわば、受け売りや、孫引きが多いのである。
 とはいえ、私なりの微力を尽くして、この書が新約聖書への入門にいくらかでも役立つように、祈りつつ書いたつもりである。この貧しい書を通して、聖書に親しんでいただければ、まことに幸いである。
 本書は、先に光文社より出版した小著『旧約聖書入門』の姉妹版である。聖書は、新約と旧約とを合わせて完全な一冊となるので、この入門書もまた、二冊合わせて一本と思ってお読みいただけたらと願うものである。
 なお、各章が平均せず、特にマタイによる福音書に紙数を多く費やし、書簡がその性質上もあって、きわめて簡単に終わったことをおびしたい。
 終わりに、連載にあたって多大のお力添えをいただいた方や、カットをお描きくださった荻太郎先生、装丁の小西啓介先生に深く感謝申し上げる。
  一九七七年十二月一日(カッパ・ブックス刊行時)   三浦綾子

一 マタイによる福音書

愛する人から贈られた聖書

 私がはじめて聖書を手に取ったのは、日曜学校に通った小学校三年生の時である。が、この時、私が日曜学校に通ったのは、神を求めたからではない。私の家は、当時十二人もの大家族で、しかも男の子が多かったから、日曜日というと、家の中はどったんばったんと騒ぎまわる子供たちでうるさかった。なにしろ、八畳二間はちじょうふたま六畳一間ろくじょうひとまの、たった三部屋しかない家だった。雨の日や冬の寒い日は、どうしても家の中で遊ぶことになる。どちらかというと、本を読むのがすきだった私は、そんな喧噪けんそうの世界はうとましかった。それで、友だちに誘われるままに教会に通ったまでである。いわば静かな日曜が欲しかったのである。
 だから、この時聖書をひらいたということも、私にそれほど大きな影響を与えなかった。長じて、聖書を読んだのは、もう年齢も二十七歳になった療養中のことである。その時も私は、聖書を心から読みたいとは思っていなかった。
 他の本にも書いたが、私は戦時中、他の教師たちと同様に、ただひたすらに熱心な教師だった。その七年目に敗戦にった。日本はアメリカ軍の占領下に入った。アメリカ軍の指令で、教科書はかなりのページをすみでぬりつぶさなければならなかった。そうした作業を、生徒に指示しながら、まだ若かった私の胸は、耐えがたい屈辱感にさいなまれた。昨日まで胸を張って教えていた教科書に、墨をぬらせるという、この異様な体験の中で、私は坂をまっさかさまに転がり落ちるような速さで、虚無きょむふちに落ちこんだのである。
 詳しくは自伝『道ありき』に書いてあるが、それからの私はもはや熱心な教師ではなかった。それまで熱心であっただけに、教科書に墨をぬらせた教師の私は、子供たちの前に顔を上げ得ない思いで教壇に立った。もはや私は、きびしく叱る教師ではなかった。授業中生徒たちが私語しようと、宿題を忘れてこようと、そんなことはどうでもよかった。どこもかしこも墨だらけの教科書、そのどこをひらいて、一体何を教えようというのか。昨日まで正しかったことが、なぜ正しくないか。果たして今日正しくないとするものが、本当に正しくないのか。私は教えるということの重たさに、その時ようやく気づき、かつおびえた。そして私は、教室で洗濯をしながら生徒に自習を命ずるような教師になってしまった。こんな中で私は、二人の男性とほとんど同時に婚約し、退職し、その直後発病し、結核療養所に入った。
 そして三年の月日が流れ、私は相変わらず虚無的な投げやりな日々をくり返しながら、療養していた。そんな私の前に現われたのが、幼馴おさななじみの前川正まえかわただしという医学生であった。彼も療養中であったが、彼は私とちがってクリスチャンホームに育ったキリスト信者であった。その彼に新約聖書を贈られたのは、その一年後であった。彼が読み古したその新約聖書の扉には、
なんじら互いに重きを負え」
 というサインがしてあった。その聖書を私に手渡す時、彼は言った。
「ぼくと一緒に、毎日最初から、聖書を読んでみませんか」
 私はうなずいた。このうなずくまでの一年のことは長くなるので省略するが、私は彼を愛しはじめていたのである。

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