『この土の器をも』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『この土の器をも』について

連載 … 主婦の友1969年9月〜1970年12月
出版 … 主婦の友社1970年12月
現行 … 新潮文庫・小学館電子全集
新婚期を描いた自伝小説。九畳一間で始まった二人の生活は、体の弱い者同士が支え合う、ささやかな暮らしでもあった。何よりも感謝することと許すことを大切にする夫の傍で、綾子は幸せをかみしめていた。そんな二人に大きな転機が訪れる。

「一」

 青春とは自己鍛錬による、自己発見の時だと、臼井うすい吉見よしみ氏は言っておられる。
 わたしの青春の記「道ありき」は、確かに自己発見の記録であった。その自己は、愛と信仰の告白をなす自己であった。
 これから書きつづけるこの記録も、わたしたち夫婦の、愛と信仰の告白と言ってもいいだろう。わたしはこの中で、結婚生活とは何か、家庭を築くとはどういうことか、夫婦のあり方はどうあらねばならぬかを、自己に問いつづけながら書き綴ってみたいと思う。

 手を伸ばせば天井に届きたりきひとなりき
 吾等われらが初めて住みし家なりき
 吾が部屋の屋根裏は隣家の物置にて
 下駄響かせて歩く音する

 こう三浦の歌ったわたしたちの新居は、旭川あさひかわし市の九条十四丁目左九号にあった。わたしの実家から僅か二丁半ばかりの所である。この家は、わたしたちが結婚するまでは、五男坊の弟の家だった。弟は、隣家の棟つづきになっている物置を借りて改造したのである。それはたったひと間の家だった。
 だが、ちゃんと格子戸のついた玄関もあるし、独立した台所も便所もあった。しかも玄関は、通りから七、八メートル引っこんでいて、向って左手に、石炭三トンは入る大きめの物置があり、右手は板塀を廻した美しい隣家の庭になっていた。そしてこの庭は、わたしの家の玄関からみても、ひと間っきりの部屋の窓からみても、あたかも自分の庭のようにみえた。その庭の植込の向うに通りがあるので、いかにもひっそりとした、静かな家だった。
 台所は四畳ほどで、わたしはそこを、弟から借りた食器棚で区切り、玄関の取次と、台所に分けて使った。
 この小さな私たちの家をかばうように、家の裏手に大きな胡桃くるみの木が立っていて、吾が家を覆っていた。高さ十メートルはあったと思う。そしてまた台所の窓からは、他の一方の隣家の庭が見えて、スモモの木があった。
 結婚第一夜があけた朝、わたしは台所に立って、ふと窓の外をみた。隣家のスモモの木が花盛りで、真っ白に咲き匂っているのが印象的だった。その時の感動をどう伝えたらいいだろう。三浦とわたしは、スモモの花の咲き匂う美しい季節に結婚したのだ。そう思っただけで、わたしは涙ぐんだ。
 これからの結婚生活もまた、このスモモの花のように、地味ではあっても、どうか香りある清純なものでありたいと、わたしは切実に祈らずにはいられなかった。
 結婚する前に、わたしたちは旭川六条教会の中嶋正昭牧師から、こう教えられていた。
「結婚したからといって、翌日からすぐに夫婦になったといえるものではない。わたしたちが真の夫婦になるためには、一生の努力が必要である」
 この言葉が、結婚第一日目の朝、鮮やかにわたしの胸に浮かんだのだった。しかし、何をどう努力してよいのやら、まだ皆目見当のつかないわたしである。わたしは昨夜の祈りを思った。昨夜、三浦とわたしは、洋タンスと和タンスと三浦の机が並んだ狭い九畳間に、二人で床を敷いた。そして、正座して、心からなる感謝の祈りを神に捧げたのであった。
 足掛五年、三浦はわたしの病気のなおるのを、ひたすらに待っていてくれた。それはまことにひたすらなるものであった。上司や知人の勧める、美しく若い花嫁候補をも、あるいは直接愛を打ちあけてくれた人をも、三浦は退けて、ただギプスベッドにているだけの、年上のわたしをじっと待っていてくれたのだ。
 三浦は、どこに出張するにも、常にわたしの写真を携えて、いつの日かこの地に共に来れるようにと、祈りながら出張してくれたのである。その長い年月の彼の愛が、いまあらためて、わたしの胸に迫って来る。わたしは両手をついて、
「ふつつかな者ですけれど、どうぞよろしくおねがい致します」
 と、厳粛げんしゅくな思いで挨拶した。そして二人は正座して祈った。
「神様、きょうの喜びの日をお与えくださいましたことを、心から感謝申しあげます。きょうより一体となって、神と人とに仕える家庭を築き得ますように、わたしたちをお導きください」
 祈り終った二人の目に、涙があふれていた。やがて三浦は、
「疲れているだろうから、きょうは静かにお休みなさい」
 と、やさしくいたわってくれた。そして、わたしに指一本ふれることなく、口づけもかわさずに、三浦は自分の床に入った。それはいかにも静かで、いかにも敬虔けいけんな夜であった。わたしは深い安らぎを覚えた。だが一方、この結婚第一夜に、せめて記念の口づけだけは欲しいと思った。それは肉的な思いとはちがっていた。
 誰かは言った。
「夫婦生活の根本は、性生活である」
 と。その言葉がふと頭に浮かんだ時、わたしはたちまち、この握手も接吻せっぷんもない夜が、極めて好ましいものに思われた。これでいいのだと思った。わたしたちの結婚生活を象徴しているような夜だと思った。
 わたしは、夫婦の結合が肉体のみにあるとは考えたくなかった。やはり祈りによる人格と人格の結合が、根本であらねばならぬと思っていたからである。
 そんな昨夜のことを考えながら、わたしは白っぽく乾いた朝の流し台に、ポンプの水を一面に流したのだった。
 わたしたちは新婚旅行に出なかった。体の弱いわたしにとって、結婚式に引きつづき、旅行することが無理だったからだけではない。多分健康だったとしても、わたしは新婚旅行を拒んだであろう。わたしは、小さくても自分の新居で、安らかに眠り、安らかに目覚めたかった。
 まな板もないままに、わたしは鍋の木のふたの上で、大根やいもを刻みながら、楽しかった。三浦は、本棚の本を片付けたり、押入を整頓せいとんしたり、小まめに動いてくれている。三日間の休暇を取った三浦と、ただ二人同じ屋根の下にいるだけで、わたしはじゅうぶんにしあわせだった。
 小さな家はありがたい。トイレにいても、玄関にいても、声が聞えるのだ。
「小さい家はいいな、小さい家はいいな」
 トイレの中の三浦と話しながら、わたしは幾度かそうつぶやいた。いま思い起しても、なんと初々ういういしい、楽しい感情であったことだろう。
「初めの愛から離れてはいけない」
 という言葉を、いまわたしは思いながら、これを書いている。
 結婚三日目ぐらいだったろうか、東京に住む文通の友、小川泰代さんから小包が送られて来た。包みの中には二つ折りの、葉書大程の画用紙がたくさん入っていた。いぶかりながらそれをひらくと、グレーと赤で編んだレースの十字架のしおりが貼りつけてある。そして、
「この画用紙に、あなたがたの好きな聖書の言葉を書いて、結婚式におせわになった方々に、さしあげたらいかがでしょう。わたしのささやかなお祝です」
 と書いた紙片も入っていた。
 小川泰代さんは、戦前麹町こうじまちに大きな家を持つ資産家のお嬢さんだったが、戦争によって運命が一転した。弱い体でありながら勤めに出、お母さんを扶養ふようしていられたのである。確かわたしと同じ年頃である。
「疲れてくると、わたしはこの十字架を、祈りながら編むのです」
 ある時の手紙に、彼女がこう書いていたのを覚えている。療養中だったわたしは、この言葉に、どれほど励まされたことだろう。人間誰しも、疲れると不機嫌になり、怠惰になりやすい。にもかかわらず、彼女は疲れてくると、一人一人のために祈りながら、十字架の栞を編むのだ。
 こうして彼女は、疲れたその指先から、幾百幾千の栞を生み出して行った。一定の数になると、彼女は祈りの言葉と共に、全国各地の結核療養所に、癩園らいえんに、刑務所にと、次々にこれを贈っていたことを、わたしも知っていた。
 この十字架は確か、クリスマス用品の販売元から、一個八十円で卸して欲しいとの話があったはずである。確かに彼女の栞は、一流デパートから売り出しても、恥ずかしくないほどの品だった。だが彼女はこの話を断った。これは彼女の贈り物であって、売り物ではないというのである。決して豊かとはいえない彼女が、これを断った話を聞いた時、わたしは深く感動したものである。この十字架の栞を受け取る一人一人には、小さな贈り物かも知れないが、彼女の働らきは真似のできない、大きなものだといまもわたしは感じ入っている。
「人にはできないことも、神にはできる」(ルカでん一八の二七)
 わたしたちは、この聖句を書き添えて小川さんからの栞を多くの人に贈った。

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