『続氷点』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『続氷点』について

連載 … 朝日新聞1970年5月〜1971年5月
出版 … 朝日新聞社1971年5月
現行 … (上下2巻)角川文庫・小学館電子全集
『氷点』の続編。「私の心は凍えてしまった」と述懐した陽子に突きつけられたのは、またしても自分自身では解決しようのない問題だった。舞台を札幌や小樽に広げ、陽子が自分の人生を確立しようと必死にもがいて歩んだ、愛と青春の日々を描く。

「吹雪のあと」

 窓の外を、雪が斜めに流れるように過ぎたかと思うと、あおられて舞上がり、すぐにまた、真横に吹きちらされていく。昨夜からの吹雪の名残りだった。
 辻口病院の院長啓造けいぞうは、自宅の二階の書斎に坐って、風に揺れる見本林の木立をぼんやりと眺めていた。二十メートルもある丈高いストローブ松の、どの幹も片側に雪が吹きつけられ、黒い幹肌がくっきりと鮮かだった。
(生き返ってくれたな、陽子ようこ
 夕ぐれに近い林を眺めながら、啓造はしみじみと思った。
 睡眠薬自殺をはかった陽子が、もしあのまま死んでいたら、と思っただけで、啓造は耐え難かった。僅か満十七歳の陽子を死に追いやったのは、結局はこの自分だったと、啓造は自分自身が責められてならなかった。
(もう十八年前になる)
 辻口家の裏にある、この見本林を突きぬけた美瑛びえい川の川原で、通りがかった土工の佐石さいし土雄つちおに殺されたわが子ルリ子は、まだ三歳だった。
 あれは、忘れもしない昭和二十一年七月二十一日、上川かみかわ神社祭のひる下りだった。
(おれが出張から帰って来た時……)
 啓造の細い目が、いっそう暗くかげった。
 その日、妻の夏枝なつえは常になく酔ったようにピアノを弾いていた。夏枝のうしろのテーブルには、うず高く吸殻のたまった灰皿があった。誰か来客があったのか、夏枝は一言も啓造に告げなかった。
 夏枝は、啓造の留守中、お手伝いの次子つぎこと、五歳のとおるを映画にやり、ルリ子を遊びに出して、村井むらい靖夫やすおと密会していたのだった。
(その間に、ルリ子は殺されたのだ)
 川原で死んでいたルリ子の首の、扼殺やくさつの跡がありありと目に浮かんでくる。と、同時に、昨日のことのように、当時の悲しみも憎しみもよみがえってくるのを、啓造は感じた。
(夏枝と村井を、おれは断じて許すことはできなかった)
 ルリ子の死後、夏枝は女の子をもらいたいといいだした。ルリ子の身代りに育てたいというのだ。夏枝は既に不妊手術を受けていた。
(どうして、あんな恐ろしいことを、おれは……)
 啓造は机の上に頭を抱えた。
 見本林の上に、にわかにカラスの声が騒がしくなった。見あげると、雪空の下にカラスの大群がむれていた。空が暗くなるほどの大群であった。
 啓造の友人高木たかぎ雄二郎ゆうじろうは、札幌さっぽろの産婦人科医だった。その高木が嘱託しょくたくをしている乳児院に、留置場で自殺した佐石の子が預けられていると聞き、啓造はその女の子を、夏枝に育てさせようと決意したのだった。
なんじの敵を愛せよ……か)
 啓造は自嘲じちょうした。

「あなた、お食事ですわ」
 部屋の外で、おずおずとした夏枝の声がした。
 階段をおりる夏枝のひそやかな足音を聞きながら、啓造はゆっくりと椅子いすを立った。
「汝の敵を愛せよ」の言葉を、一生の課題にするのだといい、自分にもいって聞かせた十八年前の自分が思い出された。だがそれは、村井に心動かされた妻への復讐だったのだ。
 啓造は立ったまま、再び窓越しに見本林を見た。カラスがまだ林の上に騒がしい。
(陽子、許してくれ)
 ルリ子を殺した佐石の娘だと、夏枝からののしられた陽子は、ついに自殺をはかってしまったのだ。だが陽子は佐石の娘ではなかった。高木の知人三井みつい恵子けいこが、夫の出征中、中川なかがわ光夫みつおとの間に生んだ子であった。
 啓造と高木雄二郎とは、学生時代からの親友だった。その高木が、佐石の娘だといって渡してくれた陽子が、まさか全く別人の子だったとは、いままで夢にも思わぬことであった。
 しかし啓造は、高木を恨む気にはなれなかった。自分も、高木の立場であったなら、恐らく同じようにしただろう。誰が被害者に、加害者の子を育てさせることができるだろう。
(とにかく、犯人の娘でなくてよかった)
 もし陽子が、佐石の子なら、陽子はどのようにして生きていくことだろう。いま、啓造はつくづく高木に感謝していた。
「ダンナ。ごはんよ」
 ドアをあけて顔を出したのは、夏枝の友人で、日本舞踊の師匠藤尾ふじお辰子たつこだった。いつもは元気な辰子の丸顔も、三日間の陽子の看護に、さすがにほおの肉が落ちていた。が、表情は明るい。
「あまり考えこまないことよ、ダンナ」
 辰子は窓のそばに立って、
「カラスまで、喜んで騒ぎまわっているわ」
 と啓造を見て笑った。白い歯だった。啓造は目をしばたたいた。
「陽子にすまなくてねえ」
 啓造の声がしめった。
「なによ、ダンナのその声。そしてその顔。ねえ、陽子くんは生き返ったのよ。助かったのよ。そんなしん気くさい顔はしないの。おめでたい時には、おめでたい時の顔というものがあるじゃない?」
 突き放すようにいいながら、辰子の目は優しく笑っていた。
「いや、どうも……」
 啓造は、窓越しに陽子の部屋を眺めながら、再び目をしばたたいた。辰子の前に出ると、ふしぎに啓造は、自分が年下になったような気がする。心の痛みが、いやされるような気がするのだ。
「高木さんね、三晩も病院をあけてるでしょ。一汽車でも早く、札幌へ帰してあげなけりゃいけないわ。急いで下に行きましょうよ」
 辰子が先に立って部屋を出た。啓造はなおも陽子の部屋の窓をじっと眺めていた。
 茶の間には、丹前姿の高木を始め、大学生の徹、徹の友人北原きたはらが、夏枝や辰子と共に、食卓を囲んで啓造を待っていた。シャンデリア風の電灯が、明るくともされた下に、食卓の肉鍋が湯気を上げていた。
「どこへ雲がくれしていたんだ」
 いましがたまで眠っていたらしい高木が、無精ぶしょうひげを伸ばした顔を啓造に向けた。徹があくびをかみころした。誰の目もくぼんでいる。今朝までの四日三晩の看護に、誰もが疲れていた。陽子の容体に見通しがつき、看護婦二人に後をまかせて、みんな午後まで眠ったものの、まだまだ睡眠不足だった。
「ああ、すまなかった。書斎にいたのでね」
 啓造は、うなだれている夏枝のそばにすわった。辰子がビールの栓をぬいた。
「この度は……ご迷惑をかけてしまって……。おかげさまで、陽子も一命を取りとめることができました」
 啓造は正座して、深く頭を垂れた。
「まあ、とにかくよかったな。辻口」
 高木は真っ先にグラスを上げた。
「よかった。ほんとうによかった」
 辰子は、ふいにその形のよい指で、目頭をおさえた。しばらくは口を開く者もなかった。
 徹は、自分の胸のポケットに入っている陽子の遺書を思った。その遺書を、徹はすっかりそらんじていた。
 〈徹兄さん、いま陽子がお会いしたい人は、おにいさんです。陽子が、一番誰をお慕いしているか、いまやっとわかりました。おにいさん死んでごめんなさいね。
                 陽子  
 徹様                〉
 陽子は北原を愛していたはずだった。陽子は、辻口の娘でないことを、小学生の時から既に知っていた。そして徹を実の兄のように、愛してはいた。だがそれ以上ではなかった。死にのぞんで書いた「お慕いしている」という言葉は、自分を異性として、慕っているということか。
(それとも……)
 徹はかたわらの北原を見た。北原は何か考えているようだったが、ふいに高木に顔を向けた。
「高木先生、陽子さんのおかあさんには、他に子供さんがいるのですか」
「ああ、いるよ。男の子が二人ね」
「あら、じゃ陽子くんには、きょうだいがいるということになるのね。弟? 兄貴?」
 箸をとめて、辰子は高木をみた。
「ああ、兄と弟だ」
「ほう、二人の兄弟がねえ」
 父はちがっても、陽子にもきょうだいがいたという事実に、啓造は感慨をこめて、相づちを打った。
(陽子にもきょうだいがいる!)
 徹は、ふいに足をすくわれた感じがした。陽子の兄として育った徹には、陽子に二人のきょうだいがいたという事実を、なぜかすぐには喜べなかった。
(兄はおれだけではないのか)
 徹の感情は微妙だった。徹は陽子の兄であり、恋人でありたかったのだ。そのいずれの位置をも、他の人間には侵されたくなかった。
「おじさん、その陽子のおかあさんの家は、小樽おたるでしたね。小樽のどこに住んでいるんですか」
 寝不足の徹の声が、風邪声のようにかすれた。
「住所? 住所を聞いてどうするんだい。まさか、母子涙のご対面なんて、やらかすつもりじゃないだろうな」
 冗談めいた口調だが、高木の大きな目が、ちかりと光った。
「それは、わかりませんよ。陽子が会いたいといえばね。陽子にだって、自分の親に会う権利はあるはずですから」
「理屈からいえば、まあ、そうなるがね。しかし、徹くん。あちらさんにはあちらさんの家庭の事情というものがあるからな。何しろ亭主や息子たちは、何も知らずに平和に暮してるんだ。訪ねて行くことだけは、かんべんしてもらいたいねえ」
 行きがかり上、高木は陽子の実の親を告げはした。だがそれは、あくまで辻口家の中にとどめておいてもらわねばならない。
「平和に暮している?」
 徹がとがめるように高木を見た。陽子は自殺にまで追いこまれたのだ。しかも、陽子を生んだ母親は、陽子を施設にあずけて、夫や息子たちと平和に暮している。徹はいきどおりを感じた。
 その平和を守るために、陽子は生みの母親にも、兄弟たちにも会ってはならないのか。それが、陽子への独占的な感情とは矛盾することに、徹は気づかなかった。徹はこわばった顔で、むっつりとビールに口をつけた。ビールは苦かった。
「高木さん、あんた、うしろに手がまわるわよ」
 徹の気持をすばやく察した辰子が、とりなすようにいった。
「どうしてですか」
 北原も徹の不機嫌な顔をちらりと眺めながら、辰子に調子を合わせた。
「だってね、北原さん。医者が患者の秘密をらしたんだもの。医師法違反とやらになるわけよ。ねえ辻口のダンナ」
 啓造は苦笑した。
「まあ、いいさ。おれの手がうしろに廻ろうが、前に廻ろうが、陽子くんは生き返ったんだ。めでたい話じゃないか。なあ、夏枝夫人」
 さっきから罪人のようにうなだれている夏枝が、顔を上げてかすかにうなずいた。
 徹はその二人をじろりと見た。自殺をはかった陽子が助かったのは、重病人が助かったこととはちがうのだ。体はえても、心の傷はそう簡単に癒えはしない。それが他の者には、よくわかっていないのだと、徹はいらだつ思いだった。

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