『残像』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『残像』について

連載 … 週刊女性セブン1972年1月〜12月
出版 … 集英社1973年3月
現行 … 集英社文庫(電子書籍)・小学館電子全集
ある日、見慣れぬ女を玄関先で見かけた真木弘子は、それが兄の捨てた女であることを知った。怒鳴って追い返す兄。それを諌めようともしない父と母。兄は行動をエスカレートさせ、家族を危機に陥れる。弘子は、自分に何ができるかを考え……。

「女の影」

 真木弘子が、その女性西井紀美子を見たのは、その日が最初で最後であった。
 日暮には少し間があったが、弘子は二階の自分の部屋のカーテンを閉めようとして、降る雪に目をとめた。羽毛のように軽い雪が、漂うようにゆっくりと、しかし次々と地に降ってくる。長いまつ毛を上げて、弘子は空を見あげた。灰色の、低く垂れこめた空の、どこから雪は降ってくるのだろう。雪は、すぐ軒先のあたりで、湧き出るように現われて見えるのだ。
 昨日までは青かった向いの草原や笹薮も、今日はすっかり白い雪に覆われている。笹薮の右隣の広い空地にまばらに立っているヤチタモやクルミの木、そしてナラの木立も、枝々に雪をのせて日本画のように美しい。
 真木弘子の家は、札幌さっぽろ手稲ていね宮ノ沢にあった。この弘子の家のあたりから、遠く石狩いしかりの野に向ってなだらかな斜面が北にひらけ、限りなく家並がつづいていた。いつもは遠くまで見えるその家並が、今日は降る雪の中にかすんで、二百メートル先もおぼろである。
 まだ十一月、この雪は二、三日でけるだろうと思いながら、弘子はふと家の前の道に目をやった。茶と白のチェックの半オーバーを着た、グレイのパンタロンスタイルの若い女性が、妙におずおずと真木家に近よって来るのが、窓下のナナカマドのこずえ越しに見えた。手には小さなバッグを持っただけのその女の姿が、なぜか弘子の心をひいた。女は門に近づくと、雪がかかっているのか、その門標を黒い手袋をはめた手でなでた。通りから八メートル程引っこんだ真木家の玄関を、女はのぞきこむようにしてから、やはりおずおずと、庭の間の道を入ってくるのが見えた。が、ふと女は立ちどまった。立ちどまって上を見た女の顔が、二階から見おろしている弘子の顔と合った。そのとたん、なぜか女は顔をそむけた。と思うと、くるりと背を向け、さっさと門を出て隣家のほうへ曲って行った。
(変な人だわ)
 確かに女は、この真木家を訪ねてきたにちがいない。それなのに、なぜ自分の顔を見て、逃げるように帰って行ったのだろう。もしかしたら、新米の生命保険か化粧品のセールスかも知れない。いや、あれはセールスではない。門標を確かめてから、門の中に入ってきたではないか。一体わが家の、誰に用事があってきたのだろう。弘子は首をかしげながら、水玉模様のエプロンをつけて階下に降りて行った。
「今日はおでんですから、何もすることはないのよ」
 リビングキッチンに降りて行った弘子に、母親の勝江は背筋を大きく伸ばして、自分の肩を叩きながらいった。
「ああ、そうだったわね」
 今日は日曜日で、朝のうちに母に手伝って、おでんの煮込みの用意をしたのだった。十二畳の居間には、茶色のソファが、敷きつめられたグリーンのカーペットの上に重々しく置かれてある。父親の洋吉は、カラーテレビの相撲に目をやったまま、
「ほう、今夜はおでんか」
 と、いつものように機嫌のよい声でいった。少し背は丸くなったが、髪は黒々としていて、顔の色つやもいい洋吉は、五十五歳という年齢より、五つ六つは若く見えた。三つ年下の勝江のほうが、びんに白髪が見え、夫より少し大柄なせいか、時折年上に見られていた。
「ね、お母さん」
 いいかけて弘子は口を閉じた。妙な若い女性が、家に入りかけて途中から帰っていったと告げたとしても、母の勝江は何の関心も示さないにちがいない。勝江は、テレビや新聞で残虐な殺人事件や、大きな飛行機事故を見たり読んだりしてさえ、少しも驚かず、道場も示さない女だった。家事には熱心で、料理も上手だった。花なども、いつも見事にけこんではいるが、何か一つ欠けたものが母にはあると、常々弘子は思っていた。
 やがて、夕食の時間になり、弘子に呼ばれて、弘子の兄たち、栄介と不二夫が二階から降りてきた。栄介は食卓にすわると、和服の袖からウイスキーの角ビンを出して、自分の目の前においた。ちらりとその角ビンに目をやった洋吉は、鼻の頭をちょっとこすって、手酌で銚子を盃に傾けた。
「おいしいね、この大根」
 不二夫が素直に声をあげた。再び洋吉が鼻をこすった。これが洋吉のいらいらした時か、不満な時の癖であることに気づいているのは、繊細な次男の不二夫一人であった。他の人間はみな、洋吉という人間はいつも機嫌がいいと、決めこんでいるようであった。
「そうお。不二夫は一番味がわかるわね」
 料理をほめられた時だけは、さすがに勝江の無表情な顔が、僅かにほころぶのだ。
「なあに、おでんなんか、馬鹿でも作れるさ」
 グラスに氷を入れながら、栄介は鼻先で笑った。もう、そんな栄介の言葉に驚くものは、誰もいなかった。
「ダシさえよければ、あとはとろ火で、一日でも二日でも、時間をかけて煮ればいいだけの話だろう」
「ほう、栄介は男のくせに、料理のことに詳しいんだね。しかしねえ、栄介。お母さんの作るおでんには、心がこもっているからねえ」
 洋吉の語調に、弘子はいらいらした。
(お父さんがいけないんだわ。何も栄介兄さんの機嫌をとることなんか、ないのに)
 四十になるかならぬうちに、中学校長になった洋吉は、いつも事なかれ主義であった。わが家に口論さえなければ、それが無事であり、平和であると思いこんでいる父を、弘子は安手な教育者だと、内心不満に思っていた。この家では、真剣な対話も、心暖まる対話も、ほとんどないのだ。
「不二夫兄さん。ガンモもおいしいわよ」
 結局は、自分もこんなことしかいっていないのだと自嘲しながら、弘子は不二夫の皿にガンモを取ってやった。その意味では、人の心に刺さるような栄介の言葉が、一番本当のもののようにも弘子には思われた。
(でも、栄介兄さんには、いくら本当のことをいっても、決して何のプラスにもならないのだわ)
「栄介、そのウイスキーはうまいかい」
 本当は、そのウイスキーを飲ませてくれと、洋吉はいいたかったのだ。
「ああ、うまいですよ」
 大学を出て、商事会社につとめてから、もう六年にもなろうというのに、栄介は金輪際人に物をやるということを知らない男なのだ。但し人から物をもらうことだけは知っている。
 不二夫は、その兄の姿を、少年の頃からよく知っていた。例えばこんなことがあった。近所の友だち五、六人と、手稲の山に遊びに行った夏のことだった。不二夫が中学一年、栄介が中学三年の夏休みだった。登山口にかかる前に、栄介はふもとの小さな店で、アンパンを数個買った。山の途中まで登った頃、みんなはひどく腹がすいた。沢水のちょろちょろ流れ落ちる傍で、
「ひと休みしよう」
 と栄介がいって、持っていた紙袋の口をガサガサと音を立ててあけた時、誰もが栄介からパンをもらえるにちがいないと期待した。だが栄介は、誰にもパンをやらずに、一人でうまそうに食べはじめた。誰も弁当を持ってはいない。もともと、手稲の山に登るつもりで家を出たわけではない。遊んでいるうちに、誰いうとなく、近くのこの山に登ってみようということになったのだ。
「栄ちゃん、ぼくにもパンをくれないか」
 こらえかねたように、小学五年の子が汗ばんだ手を出した。
「パンをくれって? どうして?」
「だって、ぼく、おなかペコペコだもん」
 暑い日に照らされて、その子は半ベソをかいていた。
「なんで、ぼくのパンをお前にやらなきゃならないんだ。ぼくはね、このパンを自分の金で買ったんだぜ。金を出すんなら、売ってやってもいいよ」
「じゃ買うよ」
「ぼくも買う」
 みんなは口々にいったが、誰も金を持ってはいなかった。
「なあんだ。誰も金を持っていないのか。じゃ、みんな家に帰ったら、二十五円必ず持ってくるんだぞ」
「二十五円!? 栄ちゃん、そのパン十五円で買ったんじゃない?」
 先程の五年生の子が、口をとがらせた。
「二十五円出すのがいやなら、やめたらいいよ。十五円で買ったものを、十五円で売ったって、何の得にもならないからね」
 紙袋の口を閉じようとする栄介に、少年たちは不承不承、二十五円払う約束をした。
 帰りに、栄介は不二夫にいった。
「金はな、こうやってもうけるもんだぞ。需要と供給の原理というのを、学校で習っただろ」
 栄介は得意だった。だが不二夫は、兄が哀れだった。僅か五、六十円の金と引換に、兄は友情を失ってしまったのだ。以来不二夫は、手稲の山を見上げる度に、その時のことを思い出さずにはいられなくなった。
「栄介、お前は……」
 いいよどんで、洋吉は盃を飲み干し、そしていった。
「お前もそろそろ、嫁をもらわなきゃならないんじゃないかね。もう二十八だろう」
「そうですよ、あなた」
 栄介の答える前に、勝江が眉をひそめるようにして、うなずいた。
「ぼくは、結婚なんかしませんよ」
「なぜだね」
 黙ってコンニャクを食べている不二夫のほうに、ちらりと視線を投げかけてから、洋吉は栄介を見すえるように見た。
「お前が結婚しなきゃ、後がつかえるよ」
「不二夫たちが結婚したきゃ、勝手にすればいいんですよ。女なんて、ぼくにいわせると不経済なしろものですよ。一人分の食費で間に合うところが、二人分になる。人の出入りも多くなるし、女の親だの兄弟だの、親戚がぞろぞろ出入りされちゃ、無駄金も使いますからね」
「そりゃお前、人間はこの世に一人で生きていけるものじゃないからね」
「だからといって、つきあいたくもない人間と、つきあわされるのはごめんですよ」
「呆れたわ、栄介兄さんったら。じゃ、天涯孤独の女の人と結婚したらいいじゃないの」
 栄介は人より少し赤い唇を、ぺろりとなめて皮肉に笑った。
「弘子、女という奴はね、子供を生むしろものなんだよ」
「あたり前じゃないの。いやねえお兄さん」
「いやなのは女だよ。子供なんか生まれてしまえば、いやでも着せなきゃならない。食べさせなきゃならない。おまけに学校にやらなきゃならない」
 洋吉と弘子の視線がす早くかち合い、そして離れた。
「だけど兄さん。ぼくらだって、生んでもらって生きているんですからね」
 不二夫は、茶色のカーディガンのボタンを外しながら、いつものようにとげのない口調でいった。
「それは別問題さ。とにかくぼくにとっては、子供を生んだり、買物好きだったりする女どもは、不経済な存在の一語に尽きるんだ」
「なあるほど。じゃ、お前は何よりも金が大事だというわけか」
 小さい時から、妻の勝江に輪をかけて、どこか欠落している栄介に、今更何をいっても無駄なことを洋吉は知っていた。
「もちろんですよ、お父さん。金以外に、何が一体信用できるんです? 金さえ出せば、まちがいなくほしい物が手に入りますよ」
「そうかね、金でほしい物が手に入るかね。わたしはまた、金で買えないものがほしい人間なのでね」
「だけどさお父さん。金で買えないものが、本当に手に入りましたか。思ったようには入らないでしょう。お父さんのように、いくら愛想をふりまいて生きてきたって、本当の話、三人と心をゆるす友だちがいるか、どうか。仲のいいつもりの友人だって、陰でどんなことをいってるか、わかったものじゃないでしょう」
「何をくだらないことを、ぐずぐずいってるんですよ。それより、早くお酒を切り上げて、ごはんにしてくださいよ」
 からになった自分の皿を片づけながら、勝江は立ち上った。栄介は無視して、
「ね、お父さん。お父さんは、おじいさん譲りの大きなリンゴ園のおかげで、思わぬ大金がころがりこんだわけですよね。でもその金の使い方を何も知っちゃいない。この百坪の土地に、ちょっとした家を建てただけで、あとは後生大事に不二夫の銀行に預けている。ま、不二夫は勤め先にいい顔ができるだろうが、全く情けない話ですよ。ぼくなら、せめてマンションでも作って、高値で分譲するところですがね」
 洋吉は鼻先をしきりにこすっている。片手をふところに、栄介はウイスキーを一口飲んで、
「ね、おやじさん。宅地ブームで握った金は、五千万はくだらないでしょう。黙って遊ばせておけば、金の価は下るばかりですよ。おやじさんが金をうまく働かせてくれたら、その三倍や五倍の金は、ぼくたちに残せるはずなんですがねえ」
 金の話をする時の栄介の目には、どこか残忍な光さえあると、弘子は思った。
「お父さん、お金なんかわたしたちに残すことはないわよ。ね、不二夫兄さん」
「じゃ、ぼくだけが頂くよ、ありがたい」
 栄介は、いかにも人を小馬鹿にした顔をした。
「本当に栄介、お前には好きな女のひとがいないのかねえ」
 話題を変えようとした洋吉に、
「女というものは、遊ぶ対象であっても、好きになる対象じゃありませんよ。ぼくの好きなのは金だけだ」
 と、栄介は笑った。
「かわいそうに、栄介兄さんはハートを忘れて生まれてきたのね」
 軽蔑をこめた弘子の一言を、栄介は顔色も変えずに受けとめていった。
「ああ、ハートを忘れて生まれてきて、全くしあわせだったよ。くだらぬ女に迷わされるということはないからね」
 その時、玄関のブザーが鳴った。立ち上って弘子が玄関に出た。ドアをあけると、門灯の下にいた青ざめた女が、おびえたように目を見ひらいて弘子を見た。
「あら……先程の」
 二階の窓から見た女だと気づいて、弘子はとっさに言葉が出なかった。
「あの……わたし、西井紀美子と申しますけど、真木栄介さんのお宅でしょうか」
「ええ、栄介はわたしの兄ですけど」
 ドアを大きくあけて、玄関の中にしょうじ入れながら、この女は先程から、もう二時間以上もこの雪の中をうろうろしていたにちがいないと、弘子はその寒そうな女の顔を見やった。
「あの、お目にかかれるでしょうか」
「少々、お待ちくださいませ。すぐ兄をよんでまいります」
 その、少々お待ちくださいませ、といった自分の言葉の中に、日頃HKS放送局で受付をしている時の職業的な響きはなかったかと、弘子は相手を思いやるまなざしで、もう一度西井紀美子と名乗る女性を見た。自分と同じく、二十二、三の年頃と思われた。
「栄介兄さん、西井紀美子さんって、若い女のお客さまよ」
 栄介の前に立った弘子は、若い女という所に力をこめて取り次いだ。栄介の一文字の眉がぴくりと動いた。
「西井紀美子? いないといってほしいな」
「そんな、お兄さん、いるといったのよ」
「いると思ったが、いなかったということだってあるだろう。そんなことぐらいうまく応対ができないで、よく放送局の受付が勤まるなあ」
 依然として片手を懐手にしたまま、栄介はグラスに口をつけた。
「だってお兄さん。あの方は三時間以上も、入ろうか入るまいかと、この辺をうろうろしていたらしいのよ」
 一時間多くいって、弘子は西井紀美子のために、栄介の同情を買おうとした。
「おれは、あの女に会いたくないんだ。しつこくってね。とにかく女というのは、おれは嫌いなんだ」
「嫌いでもなんでもいいわよ。男らしくないわね。お兄さん断わっていらして」
 弘子はとても玄関に出て行く気がしなかった。だが栄介は、一向に立とうとはしない。勝江は何も聞かなかったように、片づけた食器から洗いはじめた。
「まあいい。お前が会いたくないんなら、お父さんが会おう」
 洋吉が盃をおいて静かに立ち上った。
 栄介はウイスキーのグラスを持ったまま、立ち上った父の洋吉をじろり見上げてから、にやりと笑った。片頬に深いたてじわが彫ったようにくっきりと現われ、それが栄介を妙に凄味のある顔に見せた。
「お父さん、あんたが西井紀美子に会ってどうするんです」
「どうするって栄介、話を聞いてあげるよ」
「ま、おすわんなさい。どうせあの子のいうことはわかってるんです」
「わかっているって、お前……。とにかく話ぐらいは聞いてあげるほうがいいだろう」
 おだやかにいって洋吉は、ドアのほうに歩きかけた。
「お父さん、紀美子は妊娠三か月なんだ。いや、もう四か月かな。それで彼女、結婚してくれと、わけのわからぬことをいうにきまってるんですよ」
「何だって!? 妊娠三か月? 本当か、栄介!」
 ぎょっとしたようにふり向いた洋吉の顔に狼狽ろうばいの色があった。
「何をそんなに驚いているんです。ぼくにだって、女に子供を生ますことぐらいはできますよ」
 食卓の上をいていた弘子の手がとまった。弘子は兄の栄介を見つめた。不二夫は、青ざめた顔で、ソファにすわったまま、兄を見ようともしなかった。
「とにかく、入っていただこう。な、栄介」
 洋吉は栄介の気持をそこねないように、優しくいった。その父の顔を、眉をひそめた弘子がいらいらと見た。
「何も家の中に入れることはありませんよ。ま、仕方がない。ぼくが話をつけますよ」
 栄介はグラスに残っていたウイスキーをあおると、相変らず片手をふところに入れたまま立ち上った。
 威嚇いかくするように、乱暴にドアをあけて、栄介は玄関に出て行った。と、たちまち栄介の大きな声が、閉め残したドアのわずかな隙間から聞えてきた。
「何しに来た!」
 ハッと弘子は、洋吉を見た。不二夫の傍に腰をおろした洋吉は、しきりに鼻をこすっている。
 息をひそめるようにして、弘子は玄関のほうに耳を傾けた。女が何かいう声が、とぎれとぎれに聞えた。
「ふん、……しかしね、誰の子かわかりゃしない話だろう。それとも、たしかにぼくの子供だという証拠でもあるのかい」
 人を小馬鹿にしたような栄介の言葉に、弘子がたまりかねていった。
「ひどいわ、栄介兄さんったら! お父さん、お父さんはなぜどなりつけてあげないのよ」
 洋吉は聞えないかのように、目を宙にすえたまま返事をしない。
 女がまた何かいい、栄介の低くおさえた声がしている。灯の下に誰もがじっと耳をすましているその時、背を向けて食器を拭いていた母親の勝江が、
「よく降る雪だねえ。根雪ねゆきになるのかしら」
 と、窓ガラスに舞う雪を見て、何事もないかのようにのんびりといった。何となく弘子はぞっとして、食卓の前に立ちすくんだ。
 ソファの隅に、まるで誰かにおしつけられたようにすわっている不二夫が、悲しそうに、澄んだ目を母に向けた。
 女の声が泣いているように、時々途切れた。ふいに栄介の笑う声がした。栄介が二言三言、何かいった。玄関のドアが開き、そしてしまる気配がした。
 栄介がニヤニヤしながら、部屋に戻ってきた。
「帰ったのか」
 洋吉はほっとしたように、栄介を見上げた。
「ああ、帰りましたよ」
 栄介は突っ立ったまま、父親を見おろした。
「何といって帰したのかね」
 タバコを口にくわえた洋吉に、不二夫がすぐ、テーブルの上のライターを取って近づけた。
「結婚してくれなければ死ぬというから、死にたければ、死んだらいいだろうと、いってやっただけですよ」
 つまらなさそうに栄介はあごをなでた。
「何!? 死ぬって? 栄介、そんな……お前大変じゃないか」
「なあに、死ぬ死ぬといって、死んだ女はいませんよ。去年も一人、あんな女がいましてね。死ぬというから勝手にしろといったら、やはり死にゃしませんでしたよ。ほかの男とさっさと結婚しましたよ。ま、女なんて、そんなものです」
 ゆっくりと洋吉の向いに腰をおろして、栄介は足をくんだ。和服のすそが乱れて、くろぐろとした毛ずねがむき出しになった。
「そうですよ、あなた。人間なんて、そんなものですわ」
 お茶を運んできた勝江は、ず洋吉の前に茶碗をおきながらいった。
「しかしね、栄介。わたしは教育者だからね。息子のお前が、そんなに女をもてあそんだとあっては、世間に顔向けがならない。わたしは、お前も不二夫も品行方正だと思って、安心していたんだがねえ……」
 不二夫のそばにきて、柿の皮をむいていた弘子が、ふと顔をあげた。父の言葉に、ひっかかるものを感じたのだ。あの女性に同情を示していたとばかり思っていたのに、実は父は何の痛みもあの女性に感じていなかったのではないか。そんなふうに弘子には思われた。父は、世間に顔向けがならないとはいったが、相手の女性に申し訳ないとはいわなかった。自分の立場と、世間体せけんていだけが父親は大事なのではないか。むいた柿を、父の前の皿に置いて、弘子は父の顔を再び見た。
 柔和ないつも微笑しているような細い目、整った鼻筋、男にしては少し小さいが上品な口もと。それは確かに見るからに立派な人品を思わせる顔立ちではある。世間の人がよく父を人格者だという。しかし、その言葉がきょうほど弘子にとって白じらしく思われたことはなかった。
「大丈夫ですよ、お父さん。世間にしっぽをつかまれるようなへまは、ぼくはしませんよ。こっちからは電話もかけなければ、手紙もむろん書かない。それに、めったに街の中だって歩きませんよ。女なんかとは」
「そうかね。しかし、もう女には手を出さんことだな」
「それは無理だな、お父さん」
「あら、お兄さん。さっき、お兄さんは女なんか好きにならないって、いったじゃない? それなのに、妊娠させたりして……」
「ばかだな弘子。妊娠させるということは、すなわち女が好きだということじゃないぜ。ぼくは生理的欲求で女を抱くだけだ。好きになどならんよ、一度もね」
 平然といって、栄介はウイスキーの瓶を持ち、二階に上って行った。
「不潔!」
 そういった弘子を栄介はふり返らなかった。
「弘子、栄介は正直なんですよ。男って、ほとんど栄介みたいじゃないのかしら。男って、好きじゃない女でも、きずりの女でも、少々年まの女でも、女でさえあれば、かまわないところがあるのよ。ねえ、あなた」
 勝江は無表情にいって、柿を食べてぬれた唇をなめた。不二夫が、悲しそうに自分を見つめていることにも、勝江は一向に気づかぬふうである。洋吉が、たばこの火をもみ消し、また不安そうに鼻の先をこすった。漂っているたばこの煙を追い払うように、弘子はちょっと手をふると、テラスのほうに寄って行って金色の重いカーテンを細くあけた。庭の水銀灯の光の及ぶところだけ、降る雪が白い羽虫のように漂っていた。

 二、三日降りつづいて、根雪になるかと思われた雪も、昨日からの思わぬ暖気に、今日はほとんど融けてしまった。弘子はHKSテレビ局の、よく拭きこまれた受付の窓から、向いの北海道庁の庭を眺めていた。
 雪の下から、絵具を塗ったような、青々とした芝生が再び現われ、白い粉をまいたように、僅かに雪が残っている。その芝生や、アララギの植込の向うに、道庁の赤レンガの建物が半分だけ見えた。
 短大を出、テレビ局につとめて三年になる。受付という仕事は、意外に複雑で、頭も心もつかわねばならぬ仕事だった。この仕事に、弘子はやり甲斐を感じていた。自分の応対ひとつで、訪ねてくる人々に、ささやかな喜びでも与えることができるのだ。疲れた顔で訪ねてきた人が、弘子のやさしい応対に、たちまち晴れやかな笑顔を見せてくれることさえあって、受付とはいっても、それは決して小さな仕事とは、思われなかった。ある訪問客にとっては、受付の弘子の印象がすなわち、HKSテレビ局の印象ともなるのだ。
 自動ドアがあいて、いま、三、四歳の子供を連れた母親たちが三人、きょろきょろとあたりを見廻しながら入ってきた。今日午後から放送される種痘しゅとうの後遺症問題に出場する親子たちだと、弘子は一目でわかった。
「いらっしゃいませ。種痘の……番組にご出演下さる方々でいらっしゃいますね。きょうはご苦労さまでございます」
 物馴れぬ様子の母親たちに、にこやかに頭を下げた弘子は、ディレクターの今野から言われていた控室を、ていねいに告げた。
「あの、控室のすぐ左隣がトイレになって居りますので……」
 子供を連れた母親たちに、トイレの場所を教える心づかいも忘れなかった。子供たちが、弘子に手をふって、母親に手を引かれて右手に曲って行った。
 あと、十分ほどで十二時になる。ひる休みは、守衛の松木が代ってくれることになっている。窓の外を行く若い女性たちのグリーンや赤など色とりどりのオーバー姿に目をやり乍ら、弘子は思うともなく、雪の日の西井紀美子の蒼ざめた顔を思っていた。
 あのおどおどした様子には、人ずれのしない、小心な性格が感じられた。
(死にたければ死ぬがいいなんて……)
 兄の栄介の冷酷な言葉を、弘子は思い浮かべた。時折、栄介が若い女性と歩いているのを、見かけたこともないではなかった。女文字の部厚い封書が栄介宛に来ていたこともある。
 だが、栄介を訪ねてきた女性は、西井紀美子がはじめてであった。
 兄は、それらの女性にも、もしかしたら紀美子に対するような冷酷さで、傷つけてきたのではないだろうか。またしても、やりきれない気持になって、弘子は紀美子のおずおずと訪ねてきた時の姿を思った。
「真木くん」
 突然呼ばれて顔を上げると、窓口にディレクターの今野が、ちょっと背を屈めるように立っていた。
「あら」
「ひるだよ、食事に行かないか」
「でも、種痘の番組があるんでしょう?」
「いや、あれは森さんがやる。ぼくは、ちょうど今日はあいているよ」
「じゃ、行くわ。ちょっと待って下さる?」
 今野がひきしまった横顔を見せてうなずいた。時々、今野は昼食に弘子を誘ってくれた。一見、ぶっきら棒だが、今野には何か誠実な感じがあって、局の中の男性では、一番親しくしていた。
 守衛室の松木に交替を頼み、うすいブルーのオーバーを着て、弘子は外に出た。
「あら、今野さん、オーバーは?」
 白いタートルネックに茶の背広を着た今野は、
「いい天気だよ、きょうは」
 と、目を細めて、空を見上げた。札幌には珍しく風もなく、明日からは十二月とは思えないあたたかい日ざしであった。
 サラリーマンで賑わう、ひる休みの街を、二百メートルほど行ったホテルの地下食堂に二人は入った。この地下は、中華食堂と和食堂に分れていた。
「どっちへ行く」
 階段をおり乍ら、今野は弘子をふり返った。
「和食堂の方がいいわ。今野さんは?」
「ぼくは、どっちでもいい」
 今野は両手をズボンのポケットに入れたまま、和食堂に入って行った。
 店内はサラリーマンたちで、混んでいた。二人はテレビのえてある、すぐ近くの席に向い合ってすわった。
 磯部きしめんを二つ注文してから、今野はそれが癖の、少し目を細めるようにして、弘子の顔をじっと見ていた。
「なあに? 今野さん」
「いや、べつに……。十一月も今日で終りですね。ぼくのクラスに十一月三十日生まれの、凄く頭のいい男がいたな」
 そういったが、今野はやはり弘子から視線を外らさなかった。
「いやよ。そんなに、ごらんになっては」
 弘子は頬を両手にはさんだ。今野は、やっと視線をテーブルの上に落したが、すぐにまた真正面から弘子をみつめたままいった。
「実はね、ぼくと君とは、一体何なのだろうと思ってね」
「何って……お友だちじゃない?」
「友だちか。なるほどね」
 今野は灰皿の上のマッチを手にとって眺めた。
「だって、お友だちでしょ? わたしたち。ちがうかしら」
 自分自身に確かめるように弘子はいった。さほどハンサムではないが、浅黒い男らしい顔が魅力的で、その誠実さと共に、弘子には好感の持てる男性であった。
「実はね。昨日帰ったら、おふくろが見合の写真をぼくに見せてね」
「あら、どんな方?」
「興味があるの? 真木君」
「あるわよ。もしかしたら、あなたと結婚なさるかも知れない方ですもの」
「…………」
 再び、弘子の顔をじっとみつめてから、今野はいった。
「丸顔の目の大きい、ちょっと君に似たかわいい子だよ。だがね、ぼくには、そんなことはどうでもいいんだ。ぼくは、昨日、その子の写真を見ながら、ふっと真木君のことを思ったんだ。俺と真木君は一体何なのだろうとね」
 思わず弘子は目をふせた。今まで、弘子は今野を単なる親しい男の友だち以上には、考えたことがなかったような気がする。その今野が、いま何かをいおうとしているのだ。
「真木くん、君には、ぼくより親しいボーイフレンド……いやだな、このボーイフレンドという言葉は……。とにかく、ぼくより親しい男の友だちがいるの?」
「いないわ」
 はっきりと答えて、弘子は目を上げた。黒いまつ毛が、つけまつ毛のように長い。弘子は今野の頭ごしに、テレビに目をやった。ラーメンのコマーシャルをしている男の子の、両手を大きくひらいて、驚いている顔がうつっていた。
「じゃ、ぼくが一番親しいというわけだね」
 コマーシャルの男の子をみつめたまま、弘子はうなずいた。小豆色の無地の和服を着た少女が、きしめんを運んできた。
「とにかく、それじゃ、安心した。もし、君に恋人がいたらなんて考えて、へんに寝つかれなくなってしまってね」
「きしめんが、冷えるわよ、今野さん」
「きしめんが冷えるか、なるほど」
 つぶやくようにいって、今野はきしめんに箸をつけた。その今野のちょっとかなし気な様子を眺めながら、弘子は今野と一生こうして、差し向いで食事をして行く自分を思ってみた。
「君、ぼくをきらいじゃないことは、確かだと自惚うぬぼれてもいいんだろうね」
「ええ、きらいじゃないわ。好きよ」
「そうか。好きとあっさり言える質のものらしいな」
 今野はちょっと苦笑して、きしめんを食べた。そして、すぐに緊張した表情で今野は、
「真木くん」
 と顔を上げた。今野の頭ごしにテレビの画面を見ていた弘子の顔に、驚きの色が、さっと走った。思わず、今野はうしろを振向いてテレビを見た。
 民放のニュースの時間だった。HKSのアナウンサーの、歯切れのよい声がひびいている。
 その顔がすぐ消え、
真駒内まこまない泉町いずみまちの西井紀美子さん(二十三歳)」
 という字が写った。
「紀美子さんの自殺の原因は、その遺書から、失恋であることがわかりました」
 アナウンサーの顔が再び写った。
「知ってる人?」
 蒼白になった弘子は、何もいわずに呆然と画面をみつめていた。既にテレビには冬の登別温泉のぼりべつおんせん旅館の広告が、うつっていた。

 おびやかすように風がうなっている。家を揺り動かす程に風がつき当り、バラバラとガラス戸を叩くあられまじりの雪の音が激しかった。まだ七時半だというのに、家のまばらなこのあたりは、深夜のように車も通らない。
「風が出て来たな」
 洋吉は誰にともなくつぶやいた。
「いやですね。もう一時間も前から吹いていますよ」
 じゅうたんの上にべったりとすわって、自分のショールを編んでいた妻の勝江は、横目で洋吉の顔を見た。
「弘子はおそいな」
 栄介と不二夫は既に二階に上っている。
「おそくなっても、迷子になる年じゃありませんからね」
 勝江は、編む手を休めずにいう。勝江の生活には一分一秒の無駄もない。いつも何かをしている。電話をかけながらも、首を曲げたり、指を動かしたり、体操をしている。結婚してからかれこれ三十年、勝江はお産の時以外、とこについたこともない。
(丈夫な奴だ!)
 時々、洋吉は、心の中で、吐き出すようにつぶやくことがある。この妻の弱々しい姿を見たことがない。健康な妻でありがたいと思いながらも、心のどこかにいまいましさが残っている。
 そう思う洋吉自身も、健康なのだ。それでも三年に一度ぐらいは、下痢をしたり、風邪を引いたりすることはある。
「しかし、吹雪になると、車が動かなくなるからね」
「大丈夫ですよ。国道はいつもブルドーザーが、除雪してますからね」
 国道から三百メートルほど入った所に真木家はある。
「交通事故ということもあるよ。お前という奴は、誰が遅くなっても、心配をしたことのない奴だな」
「わたしは、心配なんてしませんよ。心配したって、しなくたって、物事はなるようにしかなりませんからね」
「どうも、お前という人間は、わしにはわからん」
 わからんといいながら、面白そうに、洋吉は妻の顔をみた。
 洋吉と勝江は見合結婚だった。勝江は洋吉より体格がよかった。洋吉が師範学校しはんがっこうを出て小学校の教師をしていた二十六歳の秋だった。勝江は二十三歳だった。髪を内巻にカールした、少し面長おもながな色の白い娘だった。その頃のほとんどの人たちが、一度の見合で結婚するか否かを決めたように、洋吉たちも一度で決めた。
 見合をして二か月経って結婚した。見合の時も、勝江はしおらしく、うつむいたりはしなかった。そんな勝江を明朗だと思って結婚したが、勝江は明朗という性格ともちがっていた。
 そんなことを思いながら、洋吉は、ベージュ色のショールを編んでいる勝江の顔を見た。
「おい、今日は何日だ?」
「十二月十日ですよ」
 素っ気なくいって、勝江はカレンダーを見た。
「何だ、勝江、今日は結婚記念日じゃないか」
「あら、そうでしたかね」
 勝江は感激のない顔でいった。
「お前という奴は……心配もしなければ、喜びもしない。感動のない女だねえ」
「だって、今日は何十年前に結婚した日だとか、初めて会った日だとか思ってみても、一銭にもなりませんからね。わたしは、記念日ぐらいつまらないものはないと思いますよ。いくら思い出したって、若い日に帰れるわけじゃなし、記念日だけ喜んでみたって、仲よくなるわけじゃなし……」
「そうかねえ」
「そうですよ」
 洋吉は持っていた新聞をたたんだ。新聞がガサガサと音を立てた。
「栄介も困った奴だ」
 自殺した西井紀美子のことが、ふと心に浮かんで、洋吉はいった。勝江は返事をしなかった。その勝江をちょっと見て苦笑した洋吉は、
「テレビでも見るか」
 と、ひとりごとをいった。勝江は小さなあくびをした。その時、玄関のブザーが鳴った。
「弘子かな」
「弘子がブザーを押すわけはありませんよ」
 勝江はもう一度あくびをし、髪の中に指を突っこみ、二、三度ポリポリと頭をかいて玄関に出て行った。
 玄関に男の声がした。すぐに勝江が戻ってきた。
「あなた、こういう方たちですよ」
 勝江は三枚の名刺をさし出した。
〈啓北大学文学部教授 西井市次郎〉
 はじめの一枚を見て、さっと洋吉の顔色が動いた。いつもは微笑しているような細い目が、ちかりと光った。
〈西井治〉
 これは、肩書がなく、勤務先の生命保険会社が記されている。最後の一枚をみた洋吉の目が更に光った。そこには、
〈北海新聞学芸部 志村芳之〉
 という文字があった。
「どうします? あなたと栄介にお会いしたいんですって」
「これはまずいな」
 名刺を見つめたまま、洋吉は不安そうに時計を見た。既に八時を廻っていた。人を訪問する時刻にしてはずれている。それだけに、この訪問の重大さが暗示されているようであった。
「とにかく、会わなければならないだろう。すぐ客間に案内しなさい。それから栄介を呼んできて……」
「あなた、栄介はあなたが呼んでくださいよ」
 いい捨てて、勝江は再び玄関に出て行った。
 洋吉は落ちつきなく、二、三度部屋の中を行ったり来たりしてから、大きく溜息をつくと二階に上って行った。上って右側が弘子、左側が不二夫、そしてつき当りが栄介の部屋だった。弘子の部屋だけが暗い。二階に上ると風の音が一段と激しかった。廊下の天井にはめこまれた小さな四角い電灯の下で、洋吉は再び溜息をついた。
「何だ、おやじさんか」
 ノックをして戸をあけた洋吉に、栄介は椅子に腰をかけたまま、ふりむいてつまらなそうにいった。
 八畳の和室に黄色のカーペットを敷き、洋机と黒いステレオが並べられてある。本らしい本はなく、机の上の本立に何冊か雑誌が並んでいるだけだった。その代り大小の瓶がぎっしりと並んだ洋酒棚が、壁の一劃いっかくを占めていた。
「何だじゃないよ、栄介。お前に客がきているんだ」
「客? どこの誰ですか、今頃」
「西井紀美子の父親たちらしい」
「西井紀美子の?」
 さすがに栄介は、一瞬おしだまった。
「ああ、どんな関係か、新聞記者なども一緒にきているんでね」
「ふーん」
 栄介は、長く伸ばした小指の爪で、耳の穴をほじった。
「とにかく、客間に顔を出さなければならないだろう」
「何しにきたんだろうなあ、一体」
「さあ、何しに見えたかわからんが、三人もそろって、こんな時間に突然やってきたのだからね。かなり重要な話できたんじゃないのかな」
「重要な話か」
 椅子の上に片ひざを立てて、栄介はいやな顔をした。
 幼い時から、栄介はわがままな、傲岸ごうがんな性格だった。客がきても、めったにおじぎをすることがなく、いつも客のほうに足を投げ出していた。そのために、幾度か洋吉に殴られたこともあった。
 だが、栄介のわがままは、なおるどころかますますひどくなっていった。高校に入った頃から、洋吉は栄介を殴ることも、口うるさくいうこともできなくなった。何かいわれるとすぐ、栄介は大声で反抗するようになったからである。教育者の家庭が、大声でわめき合う場所になってはならない。洋吉は、少々のことは目をつむっても、家の中はおだやかにしたかった。その洋吉の弱味につけこんで、栄介はいいたいことをいい、したいことをした。
 不二夫とは対照的な性格だと、洋吉はいつも思う。不二夫がたしか六歳の頃、こんなことがあった。不二夫が玩具のトラックに石ころをつんで、庭で遊んでいた。そこに二歳年上の栄介がきて、
「何だ、こんなもの」
 と、いきなり、トラックを蹴とばした。不二夫はびっくりして兄を見ていたが、何もいわずに砂場のほうに行って、おとなしく砂を掘りはじめた。するとたちまち、栄介はその砂場に入りこんで、不二夫のつくった山を蹴ちらした。そんな栄介に不二夫は一切逆らわず、りんごの木の下に立って、砂を蹴ちらす兄の姿を眺めていた。
 たまたま廊下から、この二人の様子を見ていた洋吉は、栄介を殴りつけ、かなりきびしく叱ったが、その後もこれに似たことは幾度もくり返された。同じ親から生まれ、同じ家に育ちながら、こんなにもちがった性格の二人を見ていると、洋吉は教育というものに、深い疑問を抱かずにはいられなかった。
「赤い花は赤く咲く」
 時々洋吉はそんなことを思った。教育も環境も、結局は素因素質というものを変えることができないような気がした。
「重要な話にちがいないね」
「面倒だな。おれは会いたくないですよ、おとうさん」
「それは困るよ。今日のところは、おとなしく会ったほうがいいんじゃないか」
「ごめんだなあ。第一、こっちの都合もたしかめずにやってきて、すぐに会いたいなんて、勝手じゃないですか」
 都合をたしかめる電話がきたら、きっと栄介は逃げ出していたにちがいない。なるほど、紀美子の親たちが前もって電話をかけてこなかったのは、一つの方法だと洋吉は思った。
「どんなつもりで会いにきたか、わからないんだからね。おかあさんが、いると答えたのに、急にいないともいえないだろう」
「全くうちの奴らときたら、気がきかないんで困る。おれがあの女に会いたくなかったことを、この間の夜でよくわかった筈なのになあ。まして紀美子の父親なんかに会いたいわけはないじゃないですか」
「そうか、お前にも苦手があったのかね」
「なに、苦手なんかありませんよ」
 栄介は心外そうにいい、
「じゃ、仕方がない。会いますか」
 といった。だが、一向に椅子から立とうとしない。
「あまり待たしても何だから、すぐに用意をしなさい」
 うながす洋吉に、栄介は笑って、
「どうです、お父さん。代りに不二夫に出てもらったら」
「不二夫に?」
「どうせ、誰も不二夫を知りゃしませんからね。あいつをこのぼくだと思ってくれても、かまわんでしょう」
「馬鹿なことをいってる時ではない」
「きょうだいだもの、いいでしょう。不二夫なら、人にさからわずに、うまくやりますよ」
 洋吉はまたかと思った。栄介は傲岸でありながら、卑劣なのだ。自分は何ひとつ責任を負おうとはしない。それは、したいことを勝手にしている人間特有の感覚なのだ。
「とにかく、冗談はさておいて、降りて行こうじゃないか」
 相手にせずに、洋吉はドアをあけた。
「ちえっ、仕様がないな」
 仕方なさそうに栄介も椅子を離れた。
「いいかね。栄介。どんな魂胆こんたんできているか、わからないからね。おとなしく、礼儀正しく会うんだよ」
 階段を降りかけて、洋吉はうしろの栄介に小声でいった。
「わかりませんよ、それは。ぼくは気の長い性分じゃないですからね」
 階下におりると、勝江がお茶をいれていたが、栄介を見ても、何ともいわなかった。
「どんな奴らです、お母さん」
「栄介みたいな人たちですよ」
 にこりともせずに、勝江は答えた。

 型通りの挨拶のあと、紀美子の悔みをのべ、お互いの紹介が終ると、しばし、ぎこちない沈黙が流れた。ひとしきりガラス戸に吹きつける風の音がした。紀美子の父も兄も、そして従兄もテーブルに目をやったままだった。
「今夜は、ちょっとふぶきますなあ」
 何かいわねばならぬと思いながら、さすがに洋吉も、ふだんのように如才のない口のきき方はできなかった。
「はあ、でも、さっきより大分おだやかになったようです」
 紀美子の従兄だという新聞記者の志村芳之が、油気のない髪をかきあげながらいった。謹厳そうな父親、やや陰気に見える兄とくらべると、志村が一番好感の持てる男のように洋吉には思えた。
「実は……今日は紀美子の、三七日みなのかでして……」
 どんな用かともいい出しかねていた時、紀美子の父親の西井市次郎が顔をあげ、おもむろに口をひらいた。
「はあ、もう早……そんなに……」
 栄介は紀美子の逝去の報を、西井の家から受け、弘子からも聞き、死亡広告も見て、万々承知していた。が、いくら洋吉や弘子がすすめても、遂に通夜にも葬式にも行かなかった。洋吉は、せめて自分が代って行っておけばと、今更のように悔やまれた。
「ご存じのように、娘はあんな死に方をしまして、世間様にもとんだご迷惑をかけてしまいました。親としても、申し訳のないことをしたと思っております。お宅さまにも、何かとご厄介になり、どうも何とも相すみません……」
「いやいや、全くお察しいたします」
 洋吉は再び口ごもるように低く答えた。
「親馬鹿と申すのでしょうか、あんな娘でも、親のわたしには、かけがえのないいい娘でして、どうもまだ死んだという現実感がいたしません。ところで……」
 西井市次郎はそこでようやく訪問の理由に話を進めていった。それによると、知人の中から、紀美子の書簡や日記を取りまとめ、それに家族や友人知人の、紀美子についての思い出などを附け加えて、ありし日をしのぶよすがとしたらどうかという話が出た。親の口からいうのもおかしいが、娘は多くの方から文章をほめられてもいたし、自分としてもその案を感謝して受けることにした。それで、おせわになった方々にお頼みしているわけだが、お宅の栄介さんにも一文を願いたい、ということだった。
「初めてお目にかかって、とんだ不躾けを申しあげましたが、実は娘の日記に、お宅の栄介さんの名前が何度も書かれていまして、あるいはお宅にも伺っていましたなら、その時の思い出など、ご一緒にお書きねがえれば、こんなありがたいことはございません」
 西井市次郎はそうもいった。洋吉は話を聞きながら、恐れていた事態が、遂にわが家にふりかかって来たことを、いち早く感じとっていた。それだけのことなら、わざわざ三人でやってくるには及ばなかった。葉書でも足りることだった。洋吉はしかし、至極もっともというふうに幾度か相づちを打って聞いていた。
「それでですね。商売柄ということでもないんですが、ぼくがその編集を頼まれましてね」
 志村芳之が市次郎の後をうけ、栄介の返事を促した。
「いかがでしょう、何かあなたにも一文を願えませんか」
 さっきから、珍しく神妙にしていた栄介が、
「さあ、ぼくは字も文も下手ですし、ちょっとそれは……。せっかくですが、まあ、それだけはかんべんしてください」
 と、意外におとなしく辞退した。
「そうですか。まあ、今は十二月でどなたもお忙しい時ですから、無理にとは申せませんが……」
「すみません」
「只、こういう企画は、やはり時がたつと感動もうすれますので早くしたいんです。お書き頂けないとなると残念ですが、じゃ、いかがでしょう。少し彼女の思い出話をしていただくわけにはいきませんか。差支えなければ、それをぼくがまとめてみたいと思いますが……」
 西井紀美子の追悼文を書けないなら、せめて思い出を語ってほしいと、志村芳之はいうのだ。それは極めて自然な話の推移に見えた。が、栄介はかすかに笑った。笑うと唇のあたりが冷酷に見える。
「いかがでしょう」
 志村は、うすら笑いを浮かべている栄介から、洋吉に視線をうつした。
「それは、ま、いいんじゃないでしょうか。な、栄介」
 といったものの、洋吉は不安でならなかった。何を聞かれるか、全くわからないのだ。栄介の返事が、更にどんな問題を引き出すかも、到底予測できないのだ。
 洋吉の不安は、そればかりではなかった。この、私大教授の西井市次郎なる人物も、生命保険会社の社員であるその息子も、そして、一見明朗に見える志村芳之も、果していかなる人物なのか、皆目予備知識がないということも、洋吉の不安に輪をかけていた。しかも、あの夜の冷酷な仕打ちが、洋吉の胸に重くのしかかっていた。
「ではず、順序として、紀美子と知り合われたのは、いつ頃でしたか、そのあたりから伺わせていただきましょうか」
 吹雪にまた窓が鳴り、志村芳之はちょっと語尾を高くした。
「さあ、いつだったかなあ。ことしの春頃だったと思いますがねえ」
 栄介はでたらめをいった。
 西井紀美子と知り合ったのは、昨年のクリスマス、藻岩もいわのスキー場に行った時だった。友人たちと数人で、西井紀美子はスキーに来ていた。ブルーのヤッケを着た西井紀美子は、その中でも目立って、愛らしい存在だった。黒い大きな目が印象的であった。
 最初栄介は、紀美子の仲間の中で、最もはすっぱに見える木久川亜紗に近づいた。頂上に立って、ストックにもたれかかりながら、器用にたばこをくゆらしている亜紗に栄介はいった。
「すみません、マッチを貸していただけませんか」
 雪がちらついていて、藻岩から見える札幌の街は、ただおぼろにかすんでいた。亜紗は赤いヤッケのポケットから、黒いラベルのしゃれたマッチを取り出して、
「あげるわよ」
 と、なれなれしくいった。
「ありがとう。スキーはいつもここ?」
「失礼しちゃうわ。ここは、ガキの来るところよ。わたしは毎年大雪山だいせつざんに行くのよ」
 亜紗の赤く塗った唇がよく動いた。
「ほう、それは凄い」
 こうして、栄介はたちまち亜紗に近づき、中腹の売店で、ひる飯を亜紗や紀美子たちと取った。
 栄介のスキーは巧みだった。午後から栄介は、急傾斜をえらんですべった。そのスロープについてくることのできるのは、彼女たちの中では亜紗と紀美子だけだった。亜紗が二人に先立ってリフトのほうに行った時、栄介は紀美子にささやいた。
「正月には、またここに来ませんか」
 紀美子はちょっと顔を赤らめた。
「ぼく、君と二人ですべりたいんです」
 二人の交際は、この時からだったのだ。
「そうですか。春からですか……」
 黙っていた紀美子の兄が、ちょっといぶかし気に首をかしげていい、
「……正月頃からじゃなかったかなあ」
 と、つぶやいた。
「治君、まあいいじゃないですか、こちらさんのご記憶どおりにお話いただいて」
 と、志村はとりなし、
「それからですね、紀美子との一番の思い出を、何かお聞かせねがえませんか」
 栄介はしきりにあごのあたりに手をやっていたが、やや不機嫌にいった。
「さてなあ。あまり、そう会っていたわけじゃありませんからねえ。特に思い出といっても……」
 志村は、栄介がどんないい方をしても、気持のよい微笑を見せ、紀美子と映画を見たことがあったかとか、紀美子の服装に対するセンスをどう評価するかなどと、さしさわりのないことを、ぼつぼつとさり気ない調子で尋ねていった。
 まだ弘子は帰宅しないのか、勝江が時々茶を運んだり、みかんを運んだりして、部屋に出入りしていた。勝江は、客と栄介の間にとり交される言葉にも、格別注意するふうもない。何がわが家に起ろうと、決してあわてふためくこともなければ、驚くこともない妻の勝江の、一見静かな横顔に、洋吉はいま、半ばいまいましく、半ば頼りにするような思いで目をやった。
 志村芳之と栄介の会話は、案じたほどのこともなく運ばれていく。が、洋吉はやはり不安をおさえかねていた。いや、洋吉の不安はつのっていた。さっきから、西井市次郎は、静かに栄介の言葉に耳を傾けている。その表情にも態度にも、少しもとがめ立てしようとするふうはなかった。じっと耳を傾けて、身じろぎもしない姿には、ひっそりとした悲しみが漂っているだけなのだ。しかしそれは、あまりに静か過ぎた。洋吉は、その静かさの中に、何かがかくされているような気がしてならなかった。
 いま、わが家の恥部が三人の客の前にさらされている。事は簡単に終るはずがない。若い娘が妊娠させられたあげく、男に捨てられ、自殺したのだ。その男は紛れもなく自分の息子の栄介なのである。紀美子の親兄弟の恨みがいかに深いかは、もはや考えるまでもなかった。しかも西井市次郎は、一言も恨みがましい言葉を自分に突きつけてこない。洋吉は息苦しいまでに重圧を感じた。
「そうですか。いや、どうもいろいろとありがとうございました。では、最後に一つだけお伺いしたいのですが、紀美子は近頃、何か悩んでいたような様子はなかったでしょうか」
 志村芳之は、栄介と洋吉を半々に見た。洋吉は落ちつかぬ視線を栄介に向けた。
「さあ、別に。……そうですね、母親が早くに死んで淋しい。自分も死にたいなんて、時々いっているのは聞きましたがね。そう始終会っていたわけじゃありませんから……」
 西井市次郎がほうっと、ため息をついていった。
「そんなことをあの子がいっておりましたか。母親はいなくても、明るい娘だと思って、うぬぼれてきましたが……」
 一瞬、座がしんと静まった。いつのまにか吹雪が止んで、風の音もない。その静かさを破るように、志村が明るい声でいった。
「いや、いろいろお聞かせいただいて、恐縮でした。お話いただいたことを取りまとめて、追悼集にまとめさせていただきます。夜分遅く、本当に失礼いたしました」
 その時、いままでほとんど黙っていた治が、暗い目を栄介に投げかけていった。
「あの……ぼくからも一言伺いたいんですが……」
 どこか妙にからみつくような語調だった。
 洋吉ははっと胸をとどろかせた。最初から、治は栄介の表情の一つ一つを見落とすまいとするように、視線を栄介から放さなかった。
「何ですか」
 栄介はまたうす笑いを浮かべた。
「あなたが妹と会われた最後の日は、いつでしたか」
「あれは、いつだったかなあ。家に訪ねてきたのは雪の降る日曜日で……下旬ですよ、十一月の」
「日曜日? そうですか。月曜の夜に会う約束があったんじゃないですか」
「いや、日曜日にここに訪ねてきたのが、最後ですよ」
「そうですか。ぼくの記憶ちがいですか。……その時の紀美子の様子は、どうでしたか。何かふだんと変った感じでもありませんでしたか」
「さあね。何しろ、玄関でちょっと立ち話をしただけですからね」
「えっ? 玄関で立ち話? 本当ですか、それは」
 治の顔に、一瞬けわしさが動いて消えた。洋吉があわてていった。
「何せ、栄介の所へは、めったに女友だちなど訪ねてきたことがありませんで……。入ってもいただかずに、とんだ失礼を……」
 治は洋吉に、一べつもしなかった。
「栄介さん、それではわざわざあなたを訪ねてきた妹を、玄関払いにしたというわけですか」
「玄関払い? 君、何もそんな言葉を使わなくてもいいだろう」
 むっとした栄介は腕組みをした。
 車を呼ぶという洋吉の言葉を固辞して、三人は吹雪のおさまった外に出た。
 水銀灯が庭に青く灯る真木家の堂々とした構えを、何となく三人は見返った。庭の雪に、木々の影がうす蒼く影を落している。外目には、みじんのゆるぎもない幸福な家庭が、この家の中にはあるように見えた。だが、今見た限りでは、何とうそ寒い、ざらざらとしたあわれな家庭であろうと、志村芳之は思った。
「がっかりしましたね、栄介という男には」
 門を出てから、志村がいった。
「うん、煮ても焼いても食えない奴だ」
 吐き捨てるように治がいった。
 所々、少し吹きだまりはあったが、吹きさらされた道が意外に歩きやすかった。少し行けば国道である。三人は並んで歩いて行った。
「うむ」
 ちょっと間をおいて、市次郎が低く答えた。妻を胃癌で失って七年、市次郎は治と紀美子の行末を楽しみに、今日まで生きてきたつもりだった。治はやや陰気だが、妹思いで、几帳面な性格であり、紀美子は明るい家庭的な娘だった。市次郎は二人の子に満足していた。
 それが突然、思いもよらぬ紀美子の自殺にあったのである。しかも紀美子は妊娠していた。妊娠の事実は、その死以上に激しいショックを市次郎に与えた。無垢だとばかり思っていたわが娘が、既に男を知っていたということは、市次郎には耐えられない深い悲しみであった。
 西井の家人はもちろん、親戚たちも、紀美子の日記に記されている真木栄介なる人間に会った者は、誰もいなかった。いわば彼らにとって栄介は謎の人物であった。紀美子の日記には、栄介の住所も書かれてあったから、彼女の死はいち早く栄介に知らされていた。したがって、西井家では誰よりも真木栄介の弔問を期待したのは当然であった。だが栄介は、通夜にも、葬式にも姿を見せなかった。
 一七日ひとなのかには来るか、ふた七日には訪れるかと待って、三七日みなのかになった今日まで、ついに栄介は現れなかった。治は不誠実だと怒ったが、市次郎はそう思いたくなかった。たとえ娘を捨てた男でも、娘のためには善意に考えたかった。
「心にとがめて、顔を出しかねているのだろう」
 憤る治を、そういってなだめてきたのだが、今日三七日の夕方になって、治が一人真木家を訪ねるといい出した。
 治はふだん口数が少なく、めったに人と衝突することはなかったが、一たん怒ると何をするかわからぬ激しい一面を持っていた。従兄の芳之が、追悼集を出そうといっていたこともあって、それにのせる原稿を頼む形で訪ねようということになり、若い者だけの行動に不安を感じた市次郎が、連れ立ったのだった。
 死んだ紀美子に代って、一言いってやりたい思いは、無論誰もが持っていた。が、それは極力胸におさめて、とにかくどんな人間か、一応見て来ようという約束で、出てきたのだった。
 初めて見る栄介は、一見体格もよく、その秀でた眉が凛々りりしく、男らしく見えた。紀美子が心惹かれたのも、無理なく思われた。だが話をしているうちに、市次郎は、その無責任な、傲岸ごうがんな態度に、いいようもない情なさを覚えた。
(これが、命をかけてまで紀美子の愛した男なのか)
 市次郎はくり返しそう思った。歩道を歩いている紀美子が、突如ダンプカーに襲いかかられ、き殺されたような、そんな理不尽さを市次郎は栄介に感じた。まさしく、この栄介という男によって、紀美子は無残にも殺されてしまったのだ。
 今夜、市次郎はそんな思いの中で、治や芳之たちと、栄介との一問一答に耳を傾けていたのだった。
 真木家を訪ねた紀美子が、どんな話をしたか聞かせてほしいと治がいった時、栄介は、
「君には関係のない話だろう」
 と、ふてぶてしく開きなおったのだ。
「紀美子が、あんな奴に……」
 治は、オーバーに両手を突っこんで、前かがみに歩きながら、新たな憤りをおさえかねるようにいった。
「うむ」
 市次郎は、紀美子の死顔を思い出していた。きれいな水死体だと人々がいった。やや面長おもながだった紀美子は、ふっくらした丸顔になって死んでいた。それがひどく市次郎には悲しかった。
「ね、叔父さん。あの男には、何か聞かれたくないことがあるんじゃないだろうか」
 何を思ったか志村がいった。
「聞かれたくないこと?」
「そうですよ。だから、君には関係のない話だろうなんて、いやに開きなおったいい方をしたんじゃないのかなあ」
「芳之さん、君もそう思った? ぼくは何となくそんな気がしたよ。第一、あいては紀美子と会った最後の日は、日曜だといっていたけどさ、日記を見るとそうじゃないんだ。次の日の夜に会う約束をしたと書いてあるからね」
「ぼくも、そのことがひっかかっていてね。たしか月曜の夜会っているはずなんだ。そしてその夜から紀美ちゃんは行方不明になったんだからね。ぼくはあの男に会うまでは、全然そんなことは思わなかったけれど、もしかしたら川につき落したんじゃないか、ふと今そんなことを思ってね」
「あいつならやりかねないな」
 治は再び真木家のほうをふり返った。
「軽々しく馬鹿なことをいっちゃいけない。遺書もあることじゃないか」
「でもね、叔父さん。遺書はたしかに二、三日前に書いてあるけれど、あの夜紀美ちゃんが、死のうと思ったかどうかは、別だという気もするんですよ」
 雪道はゆるくカーブして、右に向っていた。道の片側のクルミの木が、幹に雪を吹きつけられて、街灯の光にくっきりと照らされている。
「何にしても……」
 市次郎はいいかけて口をつぐんだ。行く手に黒いオーバーを着たすらりとした若い女の影が見えた。片手に小さな丸いバッグを下げて、少し足早に歩いてくる。オーバーと同色の黒いフードをかぶった女の白い顔が、うす暗い中で目をひいた。
 すれちがおうとして、女は三人を見た。次の瞬間、女はハッとしたように、うつむいて立ちどまった。三人には、それがいかにも道をゆずって立ちどまったかのように思われて、「すみません」と挨拶をして通り過ぎた。女も静かに頭を下げた。それが栄介の妹の真木弘子であることを、無論、三人は知るはずもなかった。
「感じのいい人だなあ」
 少し行って志村がふり返った。
「うん、目がきれいだ」
 治もふり返った。弘子の影がカーブの向うに消えて行くところだった。
「紀美子と同じ年頃だ」
 市次郎は胸が痛んだ。
 弘子とすれちがってから百メートル程行って、三人は札樽さっそん国道に出た。吹雪ふぶいたせいか、まだ十時前なのに、意外に車が少なかった。とうに吹雪は止んでいたが、風は冷たかった。ようやく通りがかったタクシーを拾って、三人は乗りこんだ。
 国道は、ラッセルできれいに除雪されている。アスファルトの上の、あるかなきかの粉雪が前を行く車にあおられて、白い煙がうように流れて行く。
「叔父さん?」
 助手席にすわって、さっきから何か考えていた芳之が、ふいに体ごとうしろを向いて大声で呼んだ。
「何だね」
「ほら、さっき道であった女の人ね。どこかで見た人だと思ったら、たしか紀美ちゃんの葬式に来ていましたよ」
「ほう、本当かね」
「ええ、たしかにあの人です。あの時あの人は泣いていて、ちょっと今夜とちがった感じだったけれど、確かにあの人です」
「誰かな、紀美子の友だちかな」
 治がいった。
「かも知れないし、ちがうかも知れない」
 志村は眉をよせて、考える顔になった。

つづきは、こちらで

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