『果て遠き丘』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『果て遠き丘』について

連載 … 週刊女性セブン1976年1月〜1977年3月
出版 … 集英社1977年6月
現行 … 集英社文庫(電子書籍)・小学館電子全集
旭川を舞台に描いた現代小説。両親の離婚で別れて育った恵理子と妹の香也子かやこ。恵理子はギターを弾く青年と知り合い、日々が充実してゆく。一方、香也子は偶然を装い、姉たちが開く茶会に闖入ちんにゅうした。香也子の楽しみは、人を不幸におとしいれることなのだ。

「春の日」

     一


 五月も十日に近い日曜の午後。
 五分咲きの山桜が、初々しく咲く児童公園の前を過ぎて間もなく、藤戸ふじと恵理子えりこ小又川こまたがわほとりに出た。川といっても、幅一メートルほどの流れで、それでも両岸の間は十メートル余りある。五月の青い空を映して、川はきらめきながら流れている。
 この川を隔てた向こうは、一万五千坪ほどの工場地帯で、旭川あさひかわ木工団地もっこうだんちと呼ばれている地域だ。家具・建具を製作する工場が十五、六、それに附帯する倉庫、平家よりも高く積まれた乾燥材などの間に、寮や住宅も散在する。
 対岸の道路には、トラックや乗用車が幾台となく駐車し、絶えず響く機械のうなりにも、充実した活気がみなぎっている。
 が、恵理子の立つ、川一つ隔てたこの道には、いま、車はおろか、人影もない。川に向かって、小ぎれいな住宅の、赤や青の屋根屋根が、途切れ勝ちにひっそりと並んでいるばかりだ。川を境に、静と動の世界がある。それが恵理子の心を惹く。
 歩きながら恵理子は、切れ長な黒目勝ちの目を上げて、行く手の畔に立つ数本のイタリヤポプラを見た。道の上に大きく枝を張り出したポプラの新芽が、けぶるように美しい。
 あのポプラの右手に、恵理子の家があるのだ。
 恵理子は土手の端の柔らかいよもぎをちぎって、形のいい鼻に近づける。よもぎの新鮮な、鋭い香りが恵理子は好きだ。恵理子はよもぎを手に持ったまま、ゆっくりと歩いて行く。買物袋の中には、頼まれもののスーツの生地がはいっている。恵理子は洋裁で家計を助けているのだ。
 イタリヤポプラの下までくると、恵理子はポプラの幹によりかかって、まだ真っ白い大雪山だいせつざんを眺めた。透明な青空の下に、大雪山の雪は新雪のように純白に見えた。街から帰ってくる時々、恵理子はこうして、そのすらりとした肢体をポプラの幹にもたせて、大雪山を眺める。
 と、そのとき、恵理子は誰かの視線を感じた。ポプラから離れて、ふと対岸を見ると、タンポポの群れ咲く岸に腰をおろしてじっとこちらを見ている青年があった。十メートル離れたこちらからも、その眉は秀でて見えた。白いワイシャツの姿が清潔な印象を与えた。
 青年はギターを膝に抱え、じっと恵理子を凝視していた。恵理子はなぜか、いまだかつてないときめきを覚えた。が、恵理子が視線をそらす前に、青年の視線がそれた。恵理子は、その青年の横顔に目を当ててから、ポプラのそばを離れた。
「茶道教授 藤戸ツネ」と書いた看板のかかっている黒塀の門をはいるとき、恵理子はふり返らずにはいられなかった。再び青年が恵理子を見つめていた。恵理子は思い切って会釈をした。青年が軽く手をあげた。ただそれだけのことだった。が、恵理子の胸は急にふくらんだ。その青年には、いままで誰にも見たことのない何かがあった。それが何であるかを、恵理子は正確に言いあらわすことはできなかった。
 玄関までの、五メートルほどの道の両側に、ピンクの芝桜が咲き、庭のつつじもいまが盛りだ。草一本生えていないのは、母の保子やすこの手入れだ。
 玄関の格子戸をあける前に、恵理子はいつものように、服のちりを手で払い落とす。今朝着替えたばかりの、薄いグリーンのスーツが、恵理子によく似合う。バッグから紙を出し、恵理子は靴を拭く。そして、敷かれてある靴拭いで、靴の底を十分に拭う。万一これを忘れると、たちまち母に、
「汚いわねえ」
 と、言いようもない嫌悪をこめた声音で叱られるのだ。
 静かに戸をあける。鈴がリンリンと澄んだ音を立てた。
 靴は一ミリの隙もないように、きちっと揃えてあがる。いつものことながら、恵理子は、母と別れた父の橋宮はしみや容一よういちの心情がわかるような気がするのだ。
 十二畳の居間に、母の保子はテレビを見ていた。
「ただいま」
 声が聞こえたのか、聞こえないのか、保子はふり返りもしない。淡いみどりの博多帯を、粋に結んだ保子は、横ずわりになっていた。そのふっくらとした腰の肉づきが、四十八の年齢より、四つ五つ若く見せている。保子は軽く口をあけ、まばたきもせずにテレビを見ている。あまり高くも低くもない鼻にも、片手を畳についたその指のひらき具合にも、女らしさが漂っている。
 テレビの中では、若い女性が海べに立って、去って行く男の姿を見つめている。その女性の白い着物の裾が風にゆれ、目には涙がいっぱいにたたえられている。男の足跡は打ち寄せる波にかき消されていく。
「お母さん、ただいま」
「あら、帰ってきたの」
 保子はすっと手を伸ばして、テレビのスイッチを切った。時々保子はこんなことをする。
「なんにもおもしろいものがないわね、日曜は」
 たったいま、自分では熱心に見ていながら、保子はいう。その母の気持ちも、恵理子にはわかるような気がするのだ。たぶんこのドラマの中には、娘には知られたくない何かが隠されていたのだろうと、恵理子は察した。
「帰ってきて、うがいをしたの? 手は?」
「まだよ」
「汚いわねえ」
 恵理子は首をすくめながら、洗面所に行った。何をいわれても、今日の恵理子にはあまり気にならない。いましがた自分を見つめていた青年の顔が、恵理子の胸を明るくしているのだ。蛇口をひねって、ていねいに手を洗い、口をすすぎながら、恵理子はまた父のことを思った。
 母が父と別れたのは、父に女ができたからだと聞かされていた。もう十年も前の、恵理子が十三のときだった。ようやく少女になりかけたその頃の恵理子は、少女の潔癖さで、父を許すことができなかった。母につれられて、恵理子は父と妹の香也子かやこと別れた。
 が、近ごろは、なぜか時おり父がふと懐かしくなる。母の潔癖は異常で、小さいときから母にしつけられて育った恵理子でさえ、閉口することが幾度もあった。
 母の保子は、朝起きるとすぐに掃除をはじめた。そのときに着た着物を、そっくり着替えなければ食事の用意をしない。台所はいつも、モデルルームのキッチンのように、ぴかぴかに磨き立てられていた。口の悪い従兄の小山田おやまだひとしがいったことがある。
「ぼくはね、この家の台所で、朝晩食事の用意がされているということを、絶対信じないね。この台所はね、恵理ちゃん、まだ一度も使われたことがない台所だよ」
 客が帰ったあと、母はその客のさわったとおぼしきものいっさいの消毒をする。玄関の戸、建具の取っ手、湯のみ茶碗、茶卓、座布団、歩いた畳、いっさいがその対象となる。
 いま思うと、外から帰ってきた父が、洗面所で、家中にひびくような音を立ててうがいをしていたのは、自分がいままさしくうがいをしているぞという母への誇示と、やりばのない腹だたしさの表れだったのかもしれない。別れた父は、母とくらべて容貌は劣るが至極おっとりとした女と再婚した。親戚の女たちが、
「こんなきれいな、働き者の奥さんの、どこが悪くて離婚したのだろう」
 といっていたのを、恵理子は忘れてはいない。
 恵理子は洗面所を出ると、二階の自分の部屋にあがって行った。まだあの青年が川岸にいるかどうかを確かめたかった。部屋の窓に寄ったとき、恵理子は、ハッとした。青年が若い女性と肩を並べて、川の畔を歩いて行くうしろ姿が見えたのだった。

     二

 同じ日。
 橋宮容一は、庭のテーブルでコーヒーを飲みながら、傍の香也子かやこをちらちらと見ていた。別れた妻の保子によく似た香也子の横顔が、今日はひどく不機嫌だ。その不機嫌の原因を測りかねて、容一は再び視線を芝生に戻す。
 三百坪ほどの広い庭は、なだらかに傾斜しつつ、沢の端に至っている。築山が前庭にあり、家のうしろは、香也子の、
「ゴルフ場のような庭にしたいの」
 とねがったとおりに、広々とした芝生にした。香也子はここにプールもほしいという。今年は、そのプールも造ってやろうと、容一は考えている。生みの母と別れ、姉の恵理子と別れた香也子が、容一には何かふびんでならないのだ。
 沢を隔てた向かいの山が、日一日と鮮やかな芽吹きを見せてきている。萌黄色の山に白いこぶしや桜の花が咲いているのも美しい。ここ高砂台たかさごだいの丘の上は、しゃれたたたずまいの家が散在し、ところどころに落葉松や柏林が残っていて、別荘地のような趣がある。その中で、橋宮容一の家だけは、五百坪近い敷地を高いブロック塀でぐるりと囲い、近代的な豪奢な邸宅の構えを見せている。
 正門は重々しい鉄柵の門扉に閉ざされ、人が近づくと、鎖につながれたシェパードのトニーが噛みつかんばかりに激しく吠え立てる。
「高い塀だねえ。俺はまた、刑務所かと思ったよ」
 恵理子の家にも、この家にも始終現れる、例の口のわるい小山田ひとしがいって、香也子に叱られたことがある。
「どうした。コーヒーを飲まないのかい」
 むっつりと黙りこくっている香也子に、たまりかねて容一がいう。
「飲むわ」
 いままでむっつりとしていた香也子が、不意にニコッと口もとにえくぼを見せる。何だ、怒っていたのではなかったのかと思ったほどに、香也子は突如として気分が変わる。
「何を考えていたんだ」
 ほっとして容一は、タバコに火をつける。
「なんでもないわ。でも、とてもすてきなことよ」
「すてきなこと? 香也子がすてきなことを考えるときに、ふくれっ面になるとは、知らなかったな」
 冗談めかして容一は笑う。びんのあたりに白髪の目だってきた容一は、笑うとまなじりに、二、三本のしわがより、それがひどく容一を柔和に見せた。道北に手広く取引先を持つ、大きな建材会社の社長とは見えない。
 そこに、妻の扶代ふよ章子あきこがテラスから出てきた。章子は、後妻の扶代のつれ子で香也子より二つ年上の二十二だ。
 扶代は目鼻だちのパラッとした、おっとりとした女だ。それに反して章子は、伏し目勝ちな、ひっそりとした性格である。顔だちもどことなく淋しく、その唇が描いたように形がよくぬれていなければ、若い女の子らしさがないほど地味で目だたない。それがふしぎなことに、香也子のように表情の豊かな、いきいきとした女性のそばにくると、章子の輪郭がはっきりしてくる。章子の個性が生きてくるのだ。
 香也子は二人を見ると、ついと顔をそむけた。
「ねえ、あなた、どうかしら。この章子の着物?」
 章子は更紗模様のモダンな柄の着物を着ている。
「おお、なかなか似合うじゃないか。今日はおめかししたな」
 容一がニヤッと笑う。章子のボーイフレンドの金井かない政夫まさおを、今日ははじめてわが家に呼んだのだ。金井政夫は自分で英語塾をひらき、百人ほどの塾生がいるという。章子はその塾に去年から通っていて、金井との交際がはじまったらしい。
 義父の容一にニヤリと笑われて、章子は耳まで真っ赤にした。向かいの山を眺めていた香也子がふり返っていった。
「ほんとにお似合いよ、章子さん」
 口に嘲笑がうかんでいる。香也子は扶代を母と呼ばず、章子を姉と呼ばない。小母おばさんと呼び、章子さんと呼ぶ。
「ありがと」
 章子がはにかむ。
「馬子にも衣装って、ほんとうね、お父さん」
 わざと香也子は無邪気にいう。
「香也子、馬子にも衣装とはね、本来は、大したことはないが、着物で引き立っている場合に使う言葉だよ」
 とりなすようにいう容一に、
「そうよ、わかってるわ」
「わかっちゃいないよ。それは面と向かって人にいう言葉じゃない。自分のことをいうか、あるいは陰でいう言葉さ」
「ああ、じゃ陰でいうわ」
 香也子は椅子ごと、ぐいと扶代と章子のほうを向いた。
「ひどいわ、小母さんも章子さんも」
「あら、何のこと? 香也ちゃん」
 扶代は驚いて香也子を見る。
「だってそうじゃない。同じ屋根の下に、わたしだって住んでるのよ。それなのに、いままで一度だって、彼氏ができたなんて、わたしに教えてくれたことないわ。そして、今日急に、この家につれてきますなんていわれたって……」
 ぽんと容一がズボンの膝を叩いた。
「なあるほど。それで機嫌が悪かったんだね、香也子は」
「そうよ、わが子の機嫌のわるいのが何の原因かわからないなんて、お父さんも鈍感ね」
 つんとする香也子に、容一はいった。
「鈍感で申しわけない。なるほど、なるほど」
 容一は、扶代からそれとなく金井政夫のことは聞かされていた。だから今日の金井の来訪は、容一にとってごく自然なことだった。
「ごめんなさい、香也ちゃん」
 章子はうつむいたまま、
「でも、まだおつきあいしてるっていうだけで……お知らせするほどの間柄じゃないんですもの。昨日、お父さんとお母さんに紹介してほしいっていわれて、わたしだってびっくりしたくらいなんだもの」
「あら、そう。まだ恋人ってわけじゃないの。そうなの」
 不意に香也子は笑いだし、
「金井さんて、どんな方かしら。わたしにも紹介してね」
 と、甘えるように、章子と扶代を見た。
「もちろんよ」
 章子はうなずいた。
「ごめんなさいね、章子さん。馬子にも衣装だなんて。わたし、ちょっと怒ってたもんだから。ほんとはよく似合うわよ」
 香也子は愛らしく首を傾けて見せる。ひどく素直な表情だ。
「あの、あと二十分ぐらいしたら、おみえになる筈ですけれど」
 扶代が容一にいう。
「着替えか? このままでいいだろう」
「でも、ズボンがちょっと汚れてますわ。じゃ香也ちゃんも会ってくださいね」
 扶代は何のこだわりもない笑顔を見せて、容一や章子と家にはいって行った。それを見送りながら、香也子は呟いた。
「やっぱり、馬子にも衣装よ」
 香也子は自分の着ているクリーム色のワンピースを眺め、この色が自分にいちばん似合うと思った。あと二十分後に章子の恋人がくる。英語塾には、若い女性も何人かは通っている筈なのに、章子という目立たぬ女性を選んだ金井という青年に、香也子は興味を持った。
「ご機嫌いかがですかな、香也子嬢」
 不意に従兄の小山田整の声がした。
「つまんないわよ」
 香也子は少しも驚かない表情で、ゆっくりとふり返った。
「君が、つまんないと退屈してる間も、この地上では、一分間にどれほどのできごとが起こっているか、知っているかね」
 体格のいい整は、ピンクと白の縞のワイシャツの袖をたくしあげて、逞しい腕をむき出しにしている。
「またはじまった、整さんったら」
 整は突如として現れ、突如として妙なことをいいだす。
「いいかい、香也子。この一分間にだよ、流れ星が、実に六千個も地球に落ちてきているんだ」
 どうだ、驚いたろう、といわんばかりの顔に、
「まあ! 六千個も」
 香也子は驚いて目を見張る。かわいい童女の顔になっている。
 鳶が、頭上でのどかにきながら、すべるように沢のほうに降りて行った。

     三

 鳶の啼く声に、小山田ひとしが空を見あげていった。
「鳶の舞うときは、天気が変わるんだってさ」
 五月の陽に、庭の芝生が輝いている。
「整さんは、物知りね。一分間に六千も流星が地上に降るとか、鳶が啼いたら何とやらとか」
 香也子かやこが整の目をのぞきこむように、いたずらっぽく笑う。
「それほどでもないけれどね」
「つまり、整さんは退屈してるってことね。恋人がないってことね」
「こいつ」
 整が殴る真似をし、香也子が椅子を立って逃げる真似をした。芝生に香也子の影が動く。
「香也子にだって、恋人はいないじゃないか。章子ちゃんには、もうできたっていうのに……」
 今度は香也子が殴る真似をし、整が逃げる真似をする。お手伝いの絹子きぬこが、コーヒーを持ってテラスから芝生に降りてきた。
「やあ、ありがとう。いま、台所に飲みに行こうと思ったところだよ」
 車のセールスマンである小山田整は如才がない。
「お客さまはまだ?」
 香也子が尋ねる。
「あのう、二十分ほど遅れるって、電話がありました」
 絹子は、さっき香也子の父が飲んだコーヒーカップを盆の上にのせながらいう。
「まあ、二十分も遅れるって?」
 細い眉がきゅっとあがる。
 絹子が去ってから、整がいった。
「章子ちゃんの恋人だろう、くるのは? 遅れようと早くなろうと、香也ちゃんには関係ないだろう」
「整さんはのんき坊主ね。すべての男性は、わたしの恋人になり得る可能性があるのよ」
「まあ、そりゃそうだ。ただし、ぼくを除いてだろう」
「あら、わからないわ。わたしだって、整さんを好きになる可能性はあるし、整さんだって……」
「ぼくのほうは、香也ちゃんを恋人にする心配はないね」
「まあ、失礼。わたしってそんなに魅力がない?」
「大ありだよ。もっとも、君の姉さんの恵理ちゃんよりは落ちるがね」
 整は健康な口にコーヒーカップを当てて、うまそうにコーヒーを飲んだ。
「まあ? 恵理子姉さんって、そんなに魅力的?」
「だろうな。理知的で、やさしくてきれいで……」
「もういいわ」
「怒ることはないだろう。君の姉さんのことをほめてるんだよ」
「整さん、すべての女性は、わたしのライバルに変わり得るのよ」
 きっとして、香也子がいった。
「なあるほど。大変なファイトだ」
 ニヤッと笑った整に、
「わたし、十ぐらいのときのお姉さんしか知らないのよ。本当に整さんのいうとおり、素敵な女性かしら」
「君って忙しい人だな。すべての男性は恋人に変わり得るし、すべての女性はライバルに変わり得る。それじゃ、心の休まるときがないだろう」
「いいえ、そう思うから、わたしには人生が楽しいの」
 香也子は不意に子供っぽく笑って見せた。
「ああ、ああ、いつきてもいい丘だなあ、ここは。こぶしほころび、桜咲きか……」
 整はコーヒーカップを置き、大きく腕を伸ばした。
「整さんは、始終恵理子姉さんの家に行くの」
 小山田整は、昨年東京の本社から旭川の支店に転任してきた。まだ独身の整は市内に下宿しながら、仕事の暇々に、この家に現れるのだ。整は橋宮容一の姉の子である。
「いや、そうは行けないさ。何せ、ぼくは叔父さんの甥だろう。いくら昔叔母さんにかわいがられたってさ、二人が別れてしまったんじゃあね。ぼくは、いってみれば敵方の陣営ということになるからな」
「でも、月に一度は行くんでしょ」
「うん、二度行くこともある。あそこの婆さんが傑作でね」
「おばあちゃんは、お茶の先生でしょ」
「旭川では、偉いお茶の先生だってね、あのおばあちゃん。しかし、気さくないいおばあちゃんだよ。自分の机の上に、長谷川一夫の覆面のブロマイドを飾ったりしてさ。死んだじいさんの仏壇になんか、ここ何年も手を合わせないって話だよ」
「あら、どうして?」
「じいさんの女遊びに、ひどい苦労をさせられたからだってさ。死んだって恨みは消えないんだそうだ。死んだじいさんのほうで、仏壇の中からあたしを拝めなんてさ、元気がいいよ、あのおばあちゃんは」
「…………」
 香也子は向かいの山を眺めながら何か考えているふうだった。
「今度、香也ちゃんをつれてってやろうか」
 香也子は鋭く整を見、
「冗談じゃないわ。わたしを置きざりにして行ったお母さんなんか、まっぴらよ」
 切りつけるような語調だった。
「なあるほど、そういうご心境ですか。ま、無理もないな」
 何かいおうとしたが、整はそういった。
「あら、もう章子さんの彼氏、みえる頃じゃないかしら」
 そわそわと、香也子は立ちあがり、
「整さんも行ってみない?」
 と、さっさとテラスのほうに歩いて行く。
 整は腕を組んで、香也子のしなやかなうしろ姿を見送った。
「誰に似たんだろう」
 整は呟いた。橋宮容一、保子、恵理子、祖母のツネ、その誰にも香也子の性格は似ていないような気がした。夫の女道楽に苦労したツネは、容一に女ができたとき、保子にいった。
「亭主の浮気に我慢することはないよ。さっさと帰っておいで」
 亡き夫の建てた家を売り、豊岡町とよおかちょうにあの日本風の家を建てたツネは、七十近いとはいえ、生活力のある女だ。そのツネのどこかに香也子は似ているといえば似ている気がする。
 整は立ちあがった。不意に恵理子に会いたくなったのだ。

     四

 二十畳の応接間に、いま、橋宮容一と、その妻扶代、そして娘の章子が、英語塾を経営する金井政夫と談笑している。窓から前庭の築山が見える。ひとかかえもある見事なアララギ、紫のエゾツツジ、真っ白な雪柳などが、きれいに磨かれた大きな一枚ガラスの窓のすぐ向こうに見えている。
 右手の飾り棚には志野焼の壺、加藤顕清けんせいの女の胸像、イタリヤの大理石の花瓶などが、何の脈絡もなく、しかしひとつのまとまったふんいきの中に飾られている。
 足もとには、ペルシャ製のバラ色の厚いジュータンが敷きつめられてあった。金井政夫は、運動ならスキーでも、野球でも、ホッケーでもやるといった感じの、スポーツ青年に見えた。胸幅が広い。歯が白い。眉が濃い。それらが与える印象だったかもしれない。
「何か選手をしていましたか」
 容一が聞いたとき、金井政夫は頭をかいて、
「いや、それが……運動神経が鈍くて……卓球を少しやるぐらいです」
 と素直にいった。そのいい方がスポーツ万能であるより、ずっとさわやかな印象を容一や扶代に与えた。
「卓球ができれば、立派なもんですよ。わたしは自転車にも乗れない」
 容一は笑った。運動神経の鈍いことが、二人に親近感を与えたようだった。
「人は見かけによらないものですわね」
 扶代はのんびりと笑い、
「ね、金井さん、橋宮は小児科医のようだって、ときどきいわれますのよ。そう見えまして?」
「なるほど、ぼくもそう思ったところです」
 金井の語調は、世辞には聞こえなかった。章子はやさしく微笑した。
「医者に見えるなんて君……わたしは不器用で注射なんか打てないよ。それに、ぎゃあぎゃあ泣く赤ん坊なんて、お手あげだよ」
 ひとしきり雑談のつづいたあと、言葉が途絶えた。容一が、小浜こはま亀角きかくの大雪山の絵に目をやり、扶代と章子は花瓶のチューリップに目をやった。金井は何かいいたげだった。金井がひときわ緊張した表情になり、両膝に手をおいた。容一も扶代も章子も、その金井に目をやった。
「あの、実はぼく、章子さんとおつきあいを……結婚を前提としてのおつきあいをおねがいしたいと思って……」
 いい終わらぬうちに、ドアをノックしてはいってきたのは、香也子だった。香也子は銀盆の上にフルーツポンチを運んできたのだ。
「いらっしゃいませ」
 香也子の口もとにかわいい笑くぼができた。金井は黙って頭をさげた。はいってきたのはここの家の娘なのか、お手伝いなのか、確かめる心のゆとりもなかった。せっかくの話の腰を折られたのだ。金井はじっと自分の膝頭を見ている。
 章子は立ちあがって、
「あ、香也ちゃん、すみません」
 と、盆を受けとろうとした。
「いいわよ。わたしがするわ」
 香也子は、自分を見ようともしない金井を見ながら、少し切口上にいった。
 その様子に容一はあわてて、
「ああ、金井君、これはわしの娘の香也子です。香也子、金井君だよ」
「は、金井です」
 香也子と聞いて、金井はあわてて立ちあがった。香也子を見た金井の顔に微笑が浮かんだ。香也子の表情が、ひどく子供っぽく見えたのだ。
「わたし、香也子です。よろしく」
 香也子は、父の容一のすぐ傍に腰をおろして、
「お父さん、わたし、金井さんにどこかでお会いしたような気がするの。どこだったかしら」
 と、頭をかしげた。
「そうですか。ぼくはあなたには、全くはじめてお会いしますが」
 金井はちょっととまどったように香也子から章子に視線を移した。
「そりゃそうよ。現実にお会いしたのは、はじめてですもの。でも、わたし、あなたにお会いしたことがあるわ。何かの小説の中よ。あなたのような、素敵な男性がいたわ。ジイドだったかしら、モリアックだったかしら」
 そのいい方が、いかにも文学好きの少女のように見えた。金井は微笑した。
「あなたはフランス文学がお好きなんですか」
「ええ、そうよ。金井さんは?」
 香也子は再び首を傾けた。それはこの席がどんな席かもわからぬ幼児のようにあどけなく見えた。
 金井はいま、思いきって橋宮容一に、章子との交際を求めたばかりなのだ。香也子がはいってきたため、容一の答えをまだ聞いていない。落ちつかぬ思いのまま、金井はこの愛らしい闖入者の相手をしなければならないのだ。金井はちょっと苦笑して、
「ぼくは、文学にはうといんです」
 そう答えたほうが、香也子に対して無難なように思ったのだ。章子は帯締めに手をやりながら、香也子の横顔に、幾度も目をやった。香也子はその場に流れるちぐはぐな感じを最初から読みとっていた。
「ね、お父さん。で、もう決まってしまったの」
「決まった? 何がだね」
「だって金井さんは、章子さんをいただきたいとか、何とかおっしゃったんでしょう?」
「ああ、そのことか」
 容一が苦笑し、みんなも何となく笑った。
「そう、おきまりになったの、よかったわね。金井さん、章子さんって、とてもいい人よ。こんないい人って、旭川中探したっていないと思うわ」
 誰が聞いても、善意にあふれたいい方だった。章子はうつむき、金井は頭をかいた。そして、容一がいった。
「こりゃ、香也子が月下氷人のようなもんじゃないか。ま、金井君、とにかくそのつもりで……結婚を前提にしての交際を、よろしくおねがいするよ」
「は、ありがとうございます」
 金井は立ちあがって、深々と礼をした。香也子がいった。
「あら、婚約じゃないの? まだ結婚するかどうか、わからないの」
 驚いたように、香也子はいった。その声に、二人の結婚を心から望んでいるような、愛らしさがあふれていた。
 香也子は、ぱっと立ちあがった。そしていった。
「金井さん、わたし、あなたみたいなお兄さんができるの、うれしいわ。だって、わたしにはお兄さんがいないんですもの。思いっきり甘えてもいい?」
「はあ」
 金井はそれが癖らしく、また頭をかいた。金井は、こんな少女を手際よく扱えるほど、女にすれてはいないようだった。香也子はうれしそうに、応接間を出て行った。
「どうも、突拍子もない子でねえ。驚いたでしょう、金井君」
 容一は大島のたもとからタバコを取り出しながらいった。
「いえ、はきはきしていて、気持ちがいいです」
「ほんとに香也子は、はきはきしてますのよ」
 のんびりした口調で扶代がいった。それは香也子を肯定している語調だった。章子はちらりと不満そうに母を見た。
(金井さんは、はきはきしている人が好きなのかしら)
 章子は再び帯のあたりに手をやった。きものを着なれない章子は、胸のあたりが苦しかった。帯に手をやる仕種がひどく初々しく見えた。その章子の気持ちを代弁するように容一がいった。
「しかし、金井君は、はきはきした子より、章子のような物静かな女のほうが、好みじゃないのかね」
 さきほど初めて会ったときより、ずっと親しみ深い語調になっていた。と同時に、年かさらしいいい方にもなっていた。
「はあ……あの……章子さんは別格です」
 金井も、章子から家庭の事情は聞いている。容一の実子である香也子と、扶代のつれ子である章子との、微妙なつながりを知っている。物静かなほうが好きだといえば、容一としてはあまりいい気持ちにはなれないだろう。
「別格はよかった。そういう気持ちでないと、一生の伴侶を決められるものではないからね。ま、よろしく頼むよ」
 容一は立ちあがり、
「ま、この後は君たち二人で……な、扶代」
「ほんとうに、ごゆっくりなさって、夕食でも食べていらしてね」
 ドアに手をかけた容一がふり返って、
「ああ、近頃の若い人たちは、婚前交渉とか、同棲とか、いささかハッスルしすぎるようだがね。それだけは、式を挙げるまでお預けにしてほしいもんだね」
 金井は立ちあがって不動の姿勢をした。
「は、あの……」
 答えぬうちに、容一も扶代もドアの外に出ていた。
 二人は顔を見合わせて、椅子に腰をおろした。
「これで第一関門はパスしたようだね」
 金井は少し股をひらいた。ほっとした表情と声音に、どこか微妙な変化があった。
「香也ちゃんなんか、飛びこんで……」
 章子はすっきりしない気持ちだった。
「意外と、チャーミングな子じゃないの。それにあの子は、天性コケティッシュなところがあるよ」
「いやだわ」
「しかし、かわいいよ。君から聞いていた印象では、もっとメリシャス(意地悪)なようだったけれど、すごく善意じゃないか」
 金井は冷たくなったコーヒーに砂糖をいれてがぶがぶと飲んだ。
「善意かしら?」
 章子の表情はかげっていた。

     五

 助手台に乗っていた祖母のツネが、うしろの保子と恵理子をふり返っていった。
「ほうらごらん、桜がまだあんなにきれいじゃないか。よかったねえ」
 ツネは、いつも助手台に乗る。景色がよく見えるからだそうだ。
「まあ、ほんとね。よかったわねえ」
 恵理子は少し乗り出すようにして前方を見た。彼方の旭山あさひやまが、全山桜色に盛りあがっている。
 今日はツネの主催する野点のだての会があるのだ。この二、三日ぐんと暖かい日がつづいて、今日あたりは桜が散ってしまうのではないかと、ツネはやきもきしていたのだ。
「よかったよ、ほんとに。あんなに山があかいんだもの」
 ツネは満足したように、一人でうなずいている。
 旭山は、恵理子たちの家から車で二十分ほどのところにある美しい小山である。旭川近郊の桜の名所で、時季には、一山これ桜となる。四、五キロ離れたところから見ても、驚くほどの見事さだ。その左手の斜面に、白い建物が散在するのは旭山動物園である。
「混むかねえ、この天気だと」
 ツネの言葉に、いままで気の進まぬ表情でシートに身を埋めていた保子が、
「いやだわ、混んでいたら。埃っぽくて」
 と、眉をひそめた。恵理子が、
「大丈夫よ、お母さん。今日は木曜日ですもの。それに、もう三時になるでしょう」
 と保子を見た。二人ともつけさげを着て、車の中が華やいでいる。
「また保子の病気がはじまった」
 ツネは気にもとめず、さばさばといった。
 車は次第に旭山に近づく。恵理子は思うともなく、またあの青年を思っていた。名前は知らない。青年は突如として恵理子の前に現れたのだ。最初は日曜日だった。恵理子がイタリヤポプラの幹によりかかって、大雪山を見つめていたとき、誰かの視線を強く感じてふり返った。そのとき青年は、川向こうのタンポポの中に、ギターを抱いてすわっていた。
 その翌日のことだった。保子にいわれて、恵理子はゴミを焼きに外に出た。ポプラから少し離れたところに、小さな焼却炉がある。癎性な保子は雑巾を使わない。ペーパーふきんで、畳でも窓の桟でも拭く。そしてその都度使い捨てにしてしまう。雑巾にさわると、手が汚れていやだと保子はいうのだ。毎日のように、玄関や襖の引き手も拭く。見る間にペーパーふきんは山となる。それを焼くのが恵理子の役目なのだ。乾くまで二、三日分をためておく。
 そのときも、恵理子は焼却炉にゴミを捨て、いつものようにマッチで火をつけた。レモン色の炎を見つめながら、恵理子は母の保子が哀れになっていた。あの病的な潔癖さがなければ、母の人生はもっと平穏であったろうと思う。恵理子も、父や妹と別れずに、平和な毎日を送れただろうと思う。保子は潔癖なわりに、ギスギスしてはいない。ふだんは静かなものいいをするやさしい母なのだ。料理も上手だ。
 炎を見つめながら、恵理子はそのとき、そんなことを思っていた。と、ふと向こう岸を見ると、そこに再びあの青年を見た。一時近かった。青年は前の日のように、恵理子を見つめていた。恐らく恵理子の気づく以前から、ずっと見つめつづけていたにちがいない。そんなまなざしだった。
 青年は微笑して、軽く頭をさげた。恵理子も会釈したが、すぐに視線をはずした。前日、青年が若い女性と、肩を並べて歩いて行く姿を見たからだ。
 恵理子は焼却炉のそばを離れたかったが、燃えつきるまでそばについているように、常々保子からいわれている。恵理子はぎこちなく焼却炉を見つめていた。煙が青くなびいて、川向こうの青年のほうに流れて行く。恵理子はかたくなに、青年のほうを見ようとしなかった。あの若い女性のうしろ姿が、恵理子をかたくなにしていた。紙屑が燃え終わるまで、青年に背を向けて、恵理子は立っていた。青年はギターを弾いていた。フォークソングのようだった。恵理子の知らない歌だった。紙屑が燃えつきたとき、恵理子は青年のほうを見、頭をさげた。青年は片手をあげた。昨日と同じだった。
 駆けこむように家にはいってから、恵理子は自分の感情の動きにふっと笑い出したくなった。昨日までは見も知らなかった青年に、ガールフレンドがいようがいまいが、自分には関わりのないことではないか。すねたように青年に背を向けていた自分が、ひどくこっけいに思われた。
(言葉をかわしたこともないのに)
 その次の日も、同じ時刻、向こう岸に青年を見た。が、それは二階の恵理子の部屋からだった。そして昨日の水曜日にまた恵理子は、青年を見かけたのだった。青年は、昼休みに、あの川岸でギターを楽しんでいるようだった。
 (どうして同じところに……)
 恵理子は、青年が自分に会うのを期待して、恵理子の家のすぐ向こうに現れるような気がした。そう考えることはうぬぼれのような気もした。会うのを期待しているのは、自分のほうかもしれないと、すぐに恵理子は思い返してみた。
「見事だねえ。恵理子」
 ツネがいった。その声にハッとわれに返って、恵理子は車の外を見た。旭山から帰る車が数珠つなぎになっていた。車はもう、旭山の麓にきていた。警官が鋭く笛を鳴らしながら、人と車をさばいていた。恵理子たちの車は、麓の橋の上でしばらく待たされ、やがてのろのろと山に登って行った。あでやかな濃い桜が、山の斜面にいっぱいに咲き匂っている。
「まあ、きれい!」
 思わず恵理子は声をあげた。
「毎年見ていても、この山の桜はきれいだねえ」
 上機嫌にツネはいう。ござをかついだり、重箱をぶらさげたりした人々が山をぞろぞろ登り降りしている。車はようやく駐車場に着いた。露店がずらりとあたりに並び、錦飴や、お面、いか焼き、バナナなどを売っている。三人は、ひときわ濃い桜の大樹の下に降り立った。迎えに出ていたツネの弟子たちが、二、三人、すぐに寄ってきた。

     六

 香也子が先に立ち、橋宮容一と妻の扶代、そしてその娘の章子があとにつづく。桜の下の草原を、爪先立ちに登りながら、ときどき立ちどまる。濃淡さまざまの桜の色が、うすぐもりの空の下に、しっとりとあでやかだ。
「大変な人ねえ」
 扶代が楽しげにいった。
「これでもだいぶ帰ったんだろう。もう四時過ぎだからねえ」
 容一が章子をふり返る。青いスーツを着た章子は、屈んで草原に群れ咲く白い小さなふくべらの花を摘んでいる。容一は、めだたぬ可憐なふくべらが章子のようだと思った。紫のすみれも、ふくべらにまじって咲いていた。
「あなた、よかったわ、香也ちゃんに誘われて。旭川にこんなきれいなところがあるとは、知りませんでしたよ」
「きれいでしょう。お父さんったら、高砂台にいれば、どこも見る必要がないなんて、威張っていたけれど……」
 白いワンピースを着た香也子が、ひどく機嫌がいい。
 今日になって、突然香也子は、容一に花見につれて行ってほしいとねだったのだ。容一は仕事があるから、といったんは断ったが、あまりに執拗にねだられて、いたし方なく仕事を早めに終えて出てきたのだ。
 ジンギスカン鍋をつついている者、輪になって歌をうたっている者、桜の花の下には、何十組とも知れぬ人の群があった。
「桜の中のこぶしがきれいね」
 ふくべらの花を手に、章子が木々を見あげた。
「桂の新芽もきれいよ」
「先月、東京で見た桜とは、だいぶちがうな。あっちの桜は白くてね。桜色が少ないんだよ」
「あら、白いの、お父さん。じゃ、こぶしみたいじゃない」
 香也子はいいながら、目で何かを探していた。幾折れもの道が木立をぬって頂上へとつづいている。が、香也子たちは、急勾配の草原を登って行く。と、山の中腹に何百坪かの平地があった。そこにはひときわ鮮やかな桜が幾本も立ち並び、顕彰碑や、あずまやがあった。あずまやにつづいて、二、三軒出店が立ち、左手山際寄りに、古く小さな神社があった。
「まあ、すてき!」
 崖ぶちのあずまやにはいった香也子が叫んだ。
 いきなり眼下から、上川かみかわ盆地が開けていた。水のはいった田の面が、鏡をはめこんだようだ。その無数の鏡が、遠く北に及び、点在する赤や青の農家の屋根が美しい。
 西に広がる旭川は、数えるほどしかビルのない平たい街だ。その街の北寄りに、パルプ工場の吐き出す煙が、白くまっすぐに立ちのぼっている。もくもくと吐き出されているはずの煙が、絵に描いたように静止している。
「ね、あなた、高砂台はあのあたりかしら」
 扶代の指さす彼方に、旭川の街と田園をぐるりと囲むなだらかな丘が、やわらかくかすんでいる。
「いや、もっと右手だろう」
 容一は腕を組んで目を細めた。小児科医と見られるやさしい表情である。
 神社のほうに、何かを囲んで人々が群れていた。その群れの中に和服姿の若い娘たちが二十人ほどいる。
「行って見ましょうよ、お父さん」
 香也子が容一の手をひいた。
「きれいな娘がたくさんいるようだな」
 容一はニヤニヤしながら扶代をふり返った。
「いやですよ」
 やさしく笑って、扶代も後について行く。
 神社の下の大きな桜の木の下に、赤い毛氈もうせんが敷かれ、野点が催されていた。桜の幹に「薫風」と墨書された短冊が貼られ、クリーム色の地にみどりの葉を散らしたつけさげを着た娘が、うしろ向きに茶をたてている姿が見えた。
「お茶よ、お父さん」
 しっかりと容一の手をとったまま、香也子は人をかきわけるようにして、毛氈に近づく。
 香也子は今朝、新聞をひらき、そこに、五、六行の小さな記事を見て胸をとどろかせた。それは、藤戸ツネが旭山において野点の会をするという記事だった。藤戸ツネは、香也子の母の母だ。つまり、香也子にとって祖母である。その茶会には、恐らく母の保子も、娘の恵理子もきているにちがいない。香也子は、今日が恵理子に会う機会だと思った。香也子は、保子よりも、姉の恵理子を見たかったのだ。
 それは、数日前、従兄の小山田ひとしから、恵理子のうわさを聞いていたからだ。整は恵理子を、
「理知的で、やさしくてきれいで……」
 とほめた。それを聞いたとき、懐かしさよりも、激しい嫉妬を感じた。同じ父と母の子でありながら、姉のほうが優れていることが、香也子にはゆるせなかった。香也子にとって、母は自分を置きざりにして行った冷たい女だった。その母とともに住む恵理子は、同じくゆるし難い存在だった。しかも、小山田整が、恵理子と香也子を比較して、恵理子をほめたことが癎にさわった。
(どんなになったか、見てやろう)
 新聞記事を見て、香也子は咄嗟にそう決意した。
 恵理子と別れたのは、香也子が十歳のときだった。恵理子は十三になっていた。中学一年だった。香也子の思い出の中にある恵理子は、とりたてて非難のしようのない姉だった。香也子に帽子を編んでくれたことがある。勉強をみてくれたことがある。スキーにもつれて行ってくれた。一緒にままごと遊びもした。それでいて香也子は、いつも恵理子を不満に思っていた。それは、恵理子が姉であり、自分が妹であるという事実だった。
 恵理子の着ふるしを、香也子はよく着せられた。
「恵理子は、物を大事にするので助かるわ」
 そういいながら、母の保子が香也子にセーターを着せてくれたことがあった。そのとき香也子は、そんなことをいう母の保子と、物を大事にする恵理子を、ひどく憎んだ。橋宮の家は、恵理子と香也子の二人だけのきょうだいである。香也子に恵理子のお下がりを着せなければならぬ経済状態ではなかった。が、保子は、さして古くもならないセーターやスカートを、香也子に着せることを当然のことと思っていた。正月や祭り以外には、香也子に新しいものを買うことはなかった。
 中学に入学するとき、恵理子はセーラー服をつくってもらった。
 香也子は、その入学式当日の朝のことを、はっきりと覚えている。セーラー服を着た恵理子が、
「お母さん!」
 と悲鳴をあげた。駆けつけた保子が、ひだにしたがって切られたそのスカートを見て、
「香也子!」
 と、香也子を睨んだ。
「なあに」
 香也子はスカートを見て、
「まあひどい。どうしたの、そのスカート」
 と白ばくれた。が、そのとき、保子と恵理子が自分を見た眼の冷たさは、いまも香也子の胸にはっきりと刻み込まれている。自分が悪かったとしても、あの眼の冷たさは、香也子にとっては、ひど過ぎる刑罰に思われた。
 香也子の、継母を母と呼ばず、そのつれ子の章子を姉と呼ばぬ心情は、単なる継母や義姉への抵抗だけではなかった。母という言葉、姉という言葉によって、保子や恵理子を思い出すことが不快だったのだ。
 容一の手をしっかりと握ったまま、緋の毛氈に茶を点てている恵理子を、香也子はぎらぎらした目で見つめた。
「お父さん、あのお点前をしている人……」
 父の体がぴくっと動いたのを、香也子は手に感じとった。それまで容一は、茶を飲んでいる客たちをぼんやりと眺めていた。盛りあがるような膝をむき出しにしたミニスカートの娘や、長髪の若者が、かしこまってすわっているのが容一にはおもしろかったのだ。香也子にいわれて、容一ははじめて恵理子に気づいた。恵理子の顔が、容一の場所から斜めに見えた。
 容一は、恵理子の高校の卒業式に扶代にかくれて出席した。そのとき、僅か二、三分だったが、容一は恵理子と言葉をかわした。真珠の首飾りを恵理子に渡しながら、容一は、
「お父さんに用事があるときは、いつでも会社に電話しなさい」
といった。恵理子はうれしそうにうなずいて、傍の保子をふり返った。そのときの恵理子の素直な態度を見て、容一は父親らしい喜びを感じた。が、恵理子から容一に電話がかかってきたことはなかった。
 あの時よりいちだんと娘らしくなった恵理子が、顔をうつむけて茶を点てている。緋の毛氈が顔に映って、恵理子の顔は幾分バラ色になっていた。
「帰ろう」
 あわてて容一は香也子の手をひいた。気づくと、ツネも保子も赤いふくさを帯じめにはさんで、弟子らしい娘たちと談笑している。こちらは扶代と章子をつれている。
(とんだ鉢合わせだ)
 何も扶代と章子を、保子に見せつけることはないのだ。が、香也子はいった。
「わたし、お茶をいただきたいの」
「香也子!」
 容一はあわてた。香也子は父の手をふり払って、ふくさをつけている和服姿の中年の女にいった。
「あの、わたしもお席にすわらせていただいても、いいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ。もうこの方たちがお立ちになりますから、こちらでお待ちくださいませ」
 香也子の前に、青年が一人立っていた。背の高い青年だった。青年が微笑を浮かべて、恵理子のほうを見つめていた。香也子は父のほうをふり返った。父は扶代と章子の手を引っ張るようにして、群から離れて行くところだった。
「お父さん」
 香也子は無邪気に呼んだ。

     七

 扶代と章子の手を引いて、あわてて逃げ出す容一を、
「お父さん!」
 と呼んだ香也子の声は、かん高かった。
 野点の席を囲んで、ひそやかに言葉をかわしている人たちにとって、それは異様なほどだった。みんなの視線が香也子に注がれた。桜の木陰に控えていたツネも、保子も、腰を浮かして声の主を見た。途端に、保子の顔がさっとこわばった。ひと目で、保子はそれがわが子の香也子であることを知ったのだ。
「香也子よ!」
 保子は母のツネにささやいた。人々の注視を受けても、香也子は平然としている。
「香也子?」
「そうよ」
 保子は母のツネに、体をもたせかけるようにした。
「ここを、わたしの席と知ってきたのかねえ」
「わからないわ」
 保子は低く呟いた。
 人々の視線は、再び茶席に戻っている。最後の客が、馴れぬ手つきで茶碗を口に持って行く。釜の前に坐っている恵理子も、いまのかん高い声を聞いていた。恵理子はいま亭主をつとめている。が、ふり返ってそのほうを見ることはしなかった。時にそんな不作法な見物客も野点の席にはくる。
 半東はんとうの弟子が水差しを運んできた。席の人たちが入れ替わった。順序としていちばん初めに席にはいったのは、香也子の前にいた長身の青年だった。香也子は次につづいた。
 八歳の頃から、母が家を出て行くまでの二年ほど、香也子は祖母のツネに茶を習ったことがある。が、長じては、茶道にも華道にも興味がなくなり、まともに香也子が習ったのは、ピアノだけだった。茶席の作法を香也子はよくは知らない。が、そんなことには頓着なく、香也子は正客の隣に坐った。
「これから一服差しあげとう存じます」
 亭主の恵理子がそういってお辞儀をし、正客の青年を見た。途端に恵理子の顔に血がのぼった。
(あら、あかくなっている!)
 正客の隣の香也子は、すばやく青年を見た。青年もちょっと顔を赤らめている。
(愉快だわ……この二人はきっと恋人同士なのだわ)
 香也子は再び視線を姉の恵理子に戻した。確かに従兄の小山田整がいったように、恵理子は知的で、かつしとやかだった。自分の持たぬものを恵理子は持っていた。母とともに、自分を捨てて行った恵理子の横顔を香也子は突きさすように見た。出て行って以来、一度も会ったことのない姉は、香也子にとって、他人より冷たく遠い存在だった。
 父の橋宮容一は、後妻の扶代と、そのつれ子の章子を家にいれた。母の保子も、恵理子も、そしてツネも、容一や香也子に会う機会を、つとめて避けたことは、当然である。しかし、香也子にとっては、母や姉はあくまで遠く冷たい存在でしかなかった。母の保子が、どんなに自分を思って泣いているか、姉の恵理子が懐かしがってうわさしているかなど、香也子は想像もしたことがない。
 恵理子が柄杓を釜にいれた時、青年がいった。
「いいおなりのお釜ですね」
 恵理子が何か答えたようだった。が、香也子には、その声は低くて聞こえなかった。
「そうですか。道理で」
 青年はうなずき、
「今朝新聞で、お宅の茶会があることを知りましてね」
「よくおいでくださいました」
 その会話に、香也子は、二人の関係がさほど親密ではないことを知った。もし恋人同士であれば、新聞を通して茶会を知る必要はない。が、恵理子がこの青年に心惹かれていることは、顔を赤らめたことからも知れた。
 じっと恵理子を見つめている香也子の姿を、ツネと保子が息を殺して眺めている。
「知っていてきたのかしら」
「そりゃそうだよお前、あの様子なら」
 傍にいる弟子に悟られぬように、二人は低くささやきあう。
「お前を恋しがってきたんだろうよ」
「そうかしら」
 保子は首をかしげた。恵理子を見る香也子の目がきびしすぎると、保子は思う。
「後で話しかけてもいいかしら」
 さきほど香也子は、「お父さん」と叫んだ。そのあたりに、橋宮容一と妻たちがきているのではないか。
「そうだねえ……声ぐらいかけても」
 正客への茶を点て終わって、恵理子はいま、次の客への茶を点て終わっていた。恵理子は動揺していた。まだ名も知らぬあの青年が、わざわざ茶会にきてくれた。恵理子はいい難いときめきのうちに、茶筅を軽く動かしている。泡立った薄茶を恵理子は差し出して、静かに一礼した。そしてその目を香也子にあてた。
 はっと、恵理子の姿勢が崩れた。思わず片手をつき、あわてて膝に手を置いた。
「ちょうだいいたします」
 恵理子の驚きを、香也子は満足げに見て茶碗を両手に持った。折から風が吹き、桜の花びらが緋毛氈の上に散った。
 茶席を出た香也子は、桜の木陰にいる祖母と、母の保子を見出した。保子が笑いかけ、近よろうとした時、香也子はついと視線をはずして、すぐにその場を離れた。ひどく冷たい表情だった。香也子はうしろもふり向かずに、いましがた隣にいた青年の姿を追った。青年はぶらぶらと、山道を登って行く。香也子は、急ぎ足で後を追った。
「あの……」
 追いついて口ごもった香也子に、青年はふり返った。
「ああ」
 青年は香也子が、自分の隣にいた女性であることに気づいたようだった。
「何か……」
 香也子はうなずいた。
「わたし……あなたに聞いていただきたいことがあるんです」
 香也子は少し涙ぐんだような声でいった。
「ぼくにですか」
 青年は、ちょっと困った顔をしたが、「なんです?」と、やさしく香也子を見た。
「あの……わたし、いまお茶を点てていた恵理子の妹なんです」
「え?」
 青年は目を見張った。
「あの人が君のお姉さん?」
「そうです」
「えり子さんっていうんですか、あの人」
「あら、まだ名前もご存じないんですか」
「知りません」
「じゃあ、どうして姉はあなたを見て真っ赤になったんでしょう」
「さあ、顔見知りだからでしょう」
 青年の答えはさわやかだった。
「そうかしら。女はただの顔見知りの人に、あんなに顔を赤くはしないわ。わたし恋人かと思って、それで聞いてほしいことを……失礼しました」
「そりゃあ光栄だな。あんな人の恋人にまちがわれるなんて……。あの人、えり子さんとおっしゃるんですか。どんな字です」
「どんな字だと思って?」
 香也子は青年をじらしたい気がした。少し急勾配の坂道を、二人は肩を並べて登って行く。茶席の赤い毛氈が、桜や桂の木の間越しに鮮やかだ。そしてその向こうに、上川盆地が遠く広がっている。青年はその茶席のあたりを見おろしながら、
「恵みに、理知の理かな」
 といった。
「あら、ご名答よ。とうにご存じみたい」
「恵理子さんか、あの人らしい名前だな」
 張りのある、若々しい声で青年はいった。
「ほんとうかしら。名前もご存じなかったなんて?」
「知りませんよ。ぼくはあの人の家のすぐ近所にはいますがねえ、彼女が藤戸という姓だとしか知らなかったんですよ」
「そう、ご近所なの?」
「そうです。で、君はほんとうに、あの人の妹さんなの」
「そうよ。でもね、姉と母は、わたしを置いて家を出たのよ」
 青年は黙って香也子の顔を見た。初対面の自分にいう言葉ではないと思った。
 二人はいつしか頂上に出た。頂上にはテレビ塔があった。ここにも桜は見事に咲いていた。頂上から山の裏手につづく細い道があった。二人は何となくそっちへ歩いて行く。低いタラの木が、みずみずしい芽をつけ、道べには青い蕗が葉を広げはじめている。
「そうか、ぼくは、あの人は何不自由なく育った幸せな人かと思った。そうか、お父さんがおられなかったのか」
 青年は独り言のようにいった。
「でもねえ、姉は幸せよ。祖母と母と、三人水入らずですもの。わたしなんか、二度目の母とそのつれ子に遠慮して生きているんですもの。わたし淋しくって。だから今日だって、せめて顔を見たいと思ってきたのよ。でも、姉だって、母だって、ひとことも言葉をかけてくれないの」
 香也子は、自分だけひどく不幸なような口ぶりでいう。
「人間関係って、複雑ですからねえ。しかも、夫婦別れってのは、微妙でしょうからねえ」
「あら、あなた、わたしに同情してくださらないのね」
 たったいま知り合ったばかりなのに、香也子は恨みがましく青年を見た。
「そんなことありませんよ。ぼくだって、二度めの母どころか、三人の母に育てられていますからねえ」
「あら、ほんと?」
「ほんとですよ。もっとも、三人ともみんないい母だったんですが……やっぱり自分の母って、少々出来が悪くても、気兼ねなくものがいえますからねえ。自分の親よりいいものはないさ」
 青年は明るく笑っていった。
「じゃ、わたしと同類項なのね。でも同類項さんの、肝腎かんじんかなめのお名前をまだお聞きしていなかったわ」
 新芽のけぶる木の間越しに、旭山の裏手の山々が見える。
「ああ、ぼくはね、東西南北の西、列島の島、帯広おびひろの広、貧乏の乏の、ノをとった之。わかりますか」
「西島広之?」
 香也子は目を輝かした。
「よく一度でわかりましたね。たいていの女性は、こういうと混乱して一度でわかってくれないんです。ところであなたの名は?」
「わたし? 橋宮香也子、香はかおり、也は一円也の也よ、変な名前」
「橋宮香也子、なかなかいい名じゃありませんか。橋宮建材と何か関係がありますか」
「あら、橋宮建材は父の会社よ、ご存じ?」
「知ってますよ。ぼくは木工団地の三K木工のデザイナーですからね」
「あら、デザイナーさんなの、西島さん。すてきねえ」
「建材屋さんとは、無縁じゃありませんよ。そうか、するとあの人は、橋宮建材のお嬢さんだったのか」
 西島広之の歩みが遅くなった。
「西島さん、やっぱり姉のこと、好きみたいね。姉も不幸せなのよ。あなたが幸せにしてくださったら、うれしいわ」
「……好きという言葉を、そんなに手軽に使っちゃいけませんよ」
「あら、どうして」
「大事な言葉は、そう簡単に口に出しちゃいけないんですよ」
「あら困ったわ。わたしそんなこという人好きなの。いやだわ、わたし。西島さんのこと好きになるかもしれないわ」
 香也子は目を妖しく光らせた。
「ぼくに聞いてほしいって、なんです?」
 香也子のいまの言葉にはとりあわずに、西島はいって、歩みを返した。自分の言葉をそらした西島に、香也子はいった。
「わたし、こんな人けのない山道を男の人と二人だけで歩いたのは、はじめてよ。なんだかすごくロマンチックだわ。まるで恋人と歩いてるみたい」
 香也子はすみれの花を摘みながらいう。
「もうぼくに用事がなければ失礼します」
 西島はきっぱりといった。
「あら、どうなさったの。怒ったの。どうしたのよ。どうして怒ったの。わたし、あなたが姉の恋人だと思ったでしょう。だから、わたしと姉が、昔どおり仲よくなれるように助けてほしいと思ったのよ」
「そうですか。あの人と君がねえ。ぼくにその力があったら、いつでも仲に立ちますよ。ただし、その日がいつになるか、保証はできませんよ」
 西島広之は、やさしい語調に戻った。
「ありがとう、じゃ、バイバイ」
 無邪気にいって、香也子は不意に駆け出した。
 子供のように勢いよく走って行く香也子のうしろ姿を、西島広之は微笑して見送った。急な坂道を香也子はつんのめりそうに走って行く。ハラハラして見送っていると、香也子はカーブをまがったところで、勢いよく倒れた。西島は驚いて駆け寄って行った。

     八

 容一に手首をぐいぐい引っぱられて、何十メートルか、斜面を降りた扶代と章子は、あっけにとられていた。
「どうなすったの」
 せっかく珍しい野点を見ようと思っていた扶代は、あきれて容一を見た。が、咎めるものの言い方のできない女なのだ。
「どうしたって、お前、あそこは駄目だよ」
「駄目?」
 容一はようやく二人の手を放し、草に腰をおろした。
「駄目って、何が駄目なのですか」
 もうここからは見えない茶席のほうを扶代は見上げる。近くで数人の若い男女がジンギスカン鍋を突つきながら、『知床しれとこ旅情』を歌っている。
「その、なんだ。敵がいるんだよ、敵が」
「てきですって?」
 扶代はますます不審な顔になる。章子はその母の脇腹をちょっと突ついた。
「何よ、章子」
 章子は義父の容一の手前、黙っている。
「これだから、お前という女はありがたいよ。助かるよ俺は」
 容一はポケットからタバコを出して、
「香也子にも困ったもんだ。どうも、今朝からしつこく誘うと思ったよ」
「おかげで、きれいな桜を見物できたじゃありませんか」
「桜なんか、吹きとんじゃったよ。扶代、あの茶席はな、香也子のばあさんの席だよ」
「あら、そうでしたの」
 さすがに扶代はおどろき、自分の間ぬけさに気づいたように笑った。
「あら、そうでしたのは、ないだろう」
 二度と目の前に現れてくれるなと、保子からは厳重にいわれているのだ。
「そうですか。でも、内心は懐かしがっていらっしゃるかもしれませんよ」
「しかし、別れた女房の前に、ぞろぞろつれだって現れるほど、俺も無神経じゃないからね。香也子はいったい、どんなつもりで俺たちをつれ出したのかな」
 香也子の心情が容一にもわからない。が、いつも被害者である章子には、香也子の心の動きが手にとるようにわかった。
「それはあなた、きっとおどろかせようというほどのことでしょう。香也ちゃんに悪気はありませんよね、章子」
 章子は黙ってうなずいた。本当にこの母は香也子に悪気がないと信じているのだろうか、と章子は思う。いつだって母の扶代は、香也子に悪気はないという。その母の心のありどこそ、章子にはわからない。
「そりゃあ、香也子に悪気があっちゃあ困るが……何しろ突拍子もない子だからね……」
 容一はいま見た恵理子と、保子の顔を思い浮かべながらいった。もしもあの保子が、いまの扶代の立場なら、どういっただろう。思いながら容一は、自分のタバコの煙を見つめていた。
 その翌日、容一の会社に電話があった。
「藤戸さんという女の方からです」
 秘書の笹ハマ子が取り次いだ。

     九

 橋宮容一は、小料理屋菊天の一室に保子を待っていた。
 保子から、思いがけなく電話がきたのは、五日ほど前のことだ。旭山に桜を見に行った翌日だった。
「藤戸さんという女の方からです」
 と、秘書の笹ハマ子が電話を取り次いだ時、容一はてっきり、娘の恵理子からだと胸がとどろいた。用事のある時はいつでも電話をかけるように、恵理子に言ったのは、もう五年も前の、恵理子の高校卒業の時であった。恵理子は素直にうなずいたが、以来一度も電話をかけてきたことがない。
 恵理子だと思って受話器を取ると、
「もしもし、お久しぶりね」
 と、思いがけない保子の声を聞いた。
 正式に保子と別れてからは、電話はおろか、葉書一枚きたこともない。そこに保子のかたくなさを見せつけられたようで、容一は時折淋しい思いをした。保子の異常な潔癖さに、息の詰まる思いで、容一はうかうかといまの妻扶代に手を出した。扶代は行きつけの料亭の帳場にいた子持ちの女だった。そののびのびとこだわらないふんいきに惹かれて、半年ほど二人の仲がつづいた頃、保子が気づいた。気づいた途端に、保子はアッというまに容一のもとを飛び出したのだ。
 間に立ったのは、しっかり者の保子の母ツネで、容一は無理矢理別れさせられたような思いだった。
 容一が保子の潔癖性に手を焼いたのは事実だった。外から帰ると、すぐに靴下を脱がなければ、保子はチフス菌でも運んできたような騒ぎかたをした。絶えず癇性に家の中を拭き清めていた。シーツも寝巻も、ホテルのように毎日取り替えなければ、眠れない女だった。
 だが、その欠点を除けば、神経の行き届いた、女らしい女だった。別れるつもりはなくて別れた未練が、十年後のいまも残っている。
 むろん、いまの妻扶代の、善意でのびやかな性格もいい。扶代は、保子のように、
「汚いわねえ」
 などと、容一をたしなめたことは一度もなかった。うがいをしなくても、手を洗わなくても、靴下をすぐに脱がなくても、そんなことをいちいち咎めはしなかった。
 保子に逃げられたくやしさもあって、容一は、保子の出たあとすぐに扶代を家にいれたのだが、まもなくその扶代にも、気にいらないところが見えてきた。同じ靴下を何日はいていても、扶代は替えてくれようとはしなかったし、床の間の花がとうにしおれていても、気づかないこともあった。風の日など、廊下がザラザラと埃っぽくなっていても、扶代はいっこうに気をつかわなかった。すると妙なことに、容一のほうで、扶代のすることが気になりだしたのだ。
 たまたま、台所の床にこぼした水を、扶代が雑巾で拭くのを見た。が、その雑巾を持った手を洗いもせずに、まな板にあるホウレン草を切った。その日、容一はホウレン草に箸をつけなかった。
 しかし扶代は、容一がどんなに遅く帰ろうと、不機嫌になったことがない。いつも同じ笑顔で、同じ言葉で迎えてくれる。
 はじめのうちはそれが容一をくつろがせた。が、馴れるにつれて、その判で押したような言葉にも笑顔にも、次第に不満を感ずるようになった。
 妻に迎えられているという感じがしないのだ。妻である以上、もっと夫の動きに応じた、真実な接し方があってもいいような気がする。そんな不満にもいまは馴れた。馴れた筈だが、時折不満が頭をもたげる。人間は勝手なものだと思う。
 そんな容一に、保子から電話がきた時、容一はわれにもなく心がゆらいだ。
「珍しいじゃないか。元気か」
「あら、昨日、旭山でわたしたちをごらんになったんでしょう」
 保子は、声だけでもなまめかしい。
「いや、昨日は参った。何も知らずに、香也子に無理矢理つれて行かれてな」
「その香也子のことで、ちょっとお話ししたいのよ」
 保子はふっと、思いつめるような声になった。容一は、大阪に二、三日出張する用があったので、会う日を今日まで延ばした。保子は外食を嫌う女だ。が、この菊天にだけは、時折容一ときたものだった。おかみの初代が、保子の気性をのみこんで、座布団のカバーは真新しいものをかけて出すし、夏でも冬でも、おしぼりは火傷をしそうな熱いものを出した。ここの天ぷらは、特に保子の口に合う。自分の手で作った刺身でなければ食べない保子も、この店の刺身だけは食べた。
 襖があいた。ふとったおかみが、
「社長さん、焼けぼっくいに火ですか」
 と、銚子をテーブルに置いた。
「それならうれしいがね」
 容一は盃を出す。
「ほんとうにねえ、何でお二人が別れたのか、はた目も羨むっていうのは、社長さんたちのことだと思いましたがねえ」
「わたしだって、そう思っていたさ。まさかあいつと別れようとはな」
 と、一息に飲み、盃をおかみに手渡す。
「おばあちゃんが、自分のご主人の女道楽でこりごりしてるって、おっしゃいましたっけねえ」
「それだよ。そりゃあ、扶代に手を出した俺は悪いよ。悪いけど、いきなり一刀両断のもとに斬られたって感じだったな」
 おかみはつつじの花の活けられた床の間を見、きれいに拭き清められた部屋を点検するように見まわして、
「でも社長さん、いまの奥さんだって、いい奥さんじゃありませんか。よりを戻しちゃ、いまの奥さんがかわいそうですよ」
「よりを戻してくれるような、保子じゃないよ。どうせ、ごたごたと、何か文句があるんだろうよ」
 あの茶席で、香也子が何かをしでかしたにちがいないと、容一は覚悟をしている。でもなければ、別れてから十年も経って、急に電話をかけてくる筈がない。
「むこうのお嬢さんも、きれいになられたでしょう。小さい時からかわいかった」
「ああ、いい娘になった。ちょっとしたもんだ」
 容一は遠慮なく自慢した。
「でも、ごきょうだいが、離ればなれになって、ちょっとかわいそうねえ」
 そういった時、襖の外で、
「おつれさんがおみえになりました」
 という声がした。

     十

「少し白髪が……」
 と、保子はやさしく容一を眺めた。
 挨拶をすませたおかみは、とうに席を立っている。
「お前は変わらないな、恵理子の卒業の時と。いや、ちょっと痩せたかな」
「そうかしら、体重は変わらないのよ」
(そうか、扶代がふとっているから、痩せて見えたのか)
 容一は苦笑し、
「十年か、別れて。……早いもんだね」
 と、別れた妻を改めて吟味するように眺めた。ある種の女にとっては、十年の月日も変化をもたらさないものだ。以前、この部屋にもこうして、二人で天ぷらを食べに来たことを、容一は思い出した。自分はこの席にすわり、保子はその席にすわっていた。女が、熱いおしぼりとビールを運んできた。保子は酒を飲まないが、ビールなら飲む。係の女は保子と初対面だ。
「きれいな奥さまですね」
 いって、女は出て行った。
「手があがったかね」
 コップにビールを注いでやりながら、容一がいう。泡が白く盛りあがった。
「同じよ。せいぜい一本よ」
 保子も容一のコップに注ぐ。
「ま、お互いに元気でよかった」
 ちょっとコップをあげて容一がいい、保子もコップをあげた。
「何で別れたのかね、わたしたちは」
「決まってるじゃありませんか。あなたに好きな人ができたからよ」
「好きな?」
 好きという言葉が、容一には的確とは思えなかった。関係ができたからといって、直ちに好きといわれることは、甚だしい飛躍に思われた。
「ねえ、今日はそんなのんきな話じゃないのよ」
「香也子のことだといったねえ。香也子がどうかしたのかね」
「このあいだ、旭山での野点に、あの子が現れたでしょ。あれは、偶然あそこに来合わせたのかしら」
「香也子があとでいっていたがね、あの朝、新聞の『会と催し』の欄で、野点のことを知ったそうだよ。あいつ何か企んでいたらしいな。しつこく桜を見に行こうって、俺たちを誘い出してね」
「そうですか」
 藍色の着物の襟に、形のいいあごをつけ、保子はちょっと考えるふうだったが、
「じゃ、あなたはご存じなくてついていらしたのね」
「当たり前じゃないか。女房子供をつれて、別れたお前の前に現れるほど、俺は神経は太くはないよ」
「そりゃそうですわね。じゃやっぱり、香也子ひとりの気持ちで、あそこへきたというわけね。かわいそうに」
「かわいそう?」
 天ぷらが運ばれてきた。えび、なす、ねぎ、ピーマン、椎茸と、おかみは保子の好きなものを記憶していて出してくれた。
「かわいそうっていうのは……どんなことかね」
 揚げたての熱い天ぷらをタレに浸しながら、容一は聞いた。
「だって、そうじゃありません? あの子が新聞で、わたしたちの野点を知って、とにかく駆けつけてくれたのよ。ということは、やっぱりわたしや恵理子を、懐かしくてしようがなかったっていうことでしょ」
「そりゃまあそうだろうなあ」
 ふだん香也子は、保子や恵理子の顔など、二度と見たくないといっている。それがこのあいだは、自分たちを無理矢理引き立てて、つれて行ったのだ。
 実はそのあたりが、ふだんの香也子を知っている容一には納得がいかない。二度と会いたくないというのは、会いたいという反語かもしれない。それなら一人で会いに行けばいいのだ。一人で会いに行くのが気おくれするなら、父親の自分だけつれていけばいいのだ。それを、後妻の扶代やつれ子の章子まで、無理矢理誘って行った。なぜ扶代や章子まで誘って行かねばならなかったか。容一はそのことが気にかかった。単純に、生母の保子や姉の恵理子を懐かしがって行ったのだとは、考えられない。しかし保子には、そうしたことまでわかりはしまい。
「あれからわたし、無性に香也子にすまなくなって……」
 それまでは、すまなくなかったのかと、問いたい思いを顔には出さずに容一はいった。
「親が別れりゃあ、子供がかわいそうなもんだ」
「本当よねえ」
 と、保子は意外に素直にうなずいて、
「夫婦はお互いの意志で別れても、子供たちはそうではありませんものね。恵理子だって、時々あなたを懐かしがっているし、香也子だって、きっとわたしたちを懐かしがっていると思うのよ」
 好きな筈の天ぷらも、それほど手をつけずに、保子はいう。
 香也子が、本当に生みの母を慕っているかどうか、容一には疑問である。香也子という娘の、本当の心のありどは、父親の容一にもわからない。が、恵理子が自分を懐かしがってくれているということを聞くと、容一は自分の失ったものの大きさを思った。
「それで?」
「それでわたし……本当はあなたとはぷっつり縁を切ったつもりでしたけど……」
「よりを戻してくれるつもりかい」
 容一はひざを乗り出した。
「いやな方。そんなんじゃありませんよ」
 保子はきれいな眉をひそめて、軽く睨んだが、思わず笑って、
「あなたは気が若いわ。……ね、わたし、親子の関係は、切っても切れないものだと、つくづく思いましたのよ。わたしは別段、香也子が憎くておいてきたのじゃありませんわ。子供は二人で分けようということになったでしょう。だから、わたしにどうしてもついてくるという恵理子を選んだまでで……」
「わしだってそうだよ。恵理子だってわしの子供だからね。時々会わしてほしいと頼んだのに、これは最初から手きびしくことわられた。何という情のこわい話だろうと、これだけは正直恨んだよ」
「ごめんなさい。そりゃ、おばあちゃんにしてみれば、子供にかこつけて、よりを戻されちゃ困るという思いもあったんでしょ。でもね、あれじゃねえ、子供の身になって考えなかったわねえ。それをいまになって気づいたのよ。少し遅すぎるけれど」
 深い吐息をついて、保子は容一を見た。
「だからいったことじゃないか。第一だよ、わしに女ができたからって……そりゃ女をつくることは悪いよ。悪いがねえ、保子、俺だって男だからね。たまにはほかの女にも手を出すさ」
「それがいやなんですよ。汚らしい」
 保子は十年前の顔になる。
「そんなこといってね、お前、一人前の男が、妻君一人守って、一生いるなんて、まずない話だよ、こりゃあ」
「人様はどうでも、何もあなたまでなさらなくたっていいでしょう。人がしてるから、泥棒でも人殺しでもいいっていうんですか」
「極端だよ、お前は」
「ね、あなた、女にとって夫の浮気は何よりいやなのよ。死なれるよりいやなのよ」
「死なれるよりいや?」
「そうよ。どんな女でもそういうわ」
「冷酷なもんだね、女というものは」
「冷酷なのは男ですよ。そんなにいやなのに女をつくる」
 と、ビールを飲みながら、ふっと笑って、
「いやですねえ。昔の話をむし返して。わたしが今日あなたにおねがいしたいのは、いままでのことはいままでのこととして、これからは、子供たちは、自由に会えるようにさせたいっていうことなのよ」
「そりゃあ、わしが前からいってることだ。あんたのほうで承知しなかっただけだよ」
「じゃ、とにかくこれからは、香也子をいつでもうちによこしてくださいね」
「ああ、その代わり、恵理子をいつ呼び出してもいいね」
「いいわよ。恵理子も、香也子も、年ごろですからねえ、結婚や何かのことで、わたしに相談したかったり、あなたに相談したかったりすることがあるでしょうから」
 ホッとしたように、保子は残りのビールをあおる。その指に、何の指輪もないのを見た容一は、
「何か指輪を上げようかね、あんたにも」
 と、ニヤニヤとした。

「影法師」

     一


 曇った空の下に、郭公かっこうの声がしきりにする。
 もう十時だというのに、香也子はネグリジェのまま、一時間も前から三面鏡に向かって化粧していた。部屋の片隅のベッドが、三面鏡の二枚に写っていて、ベッドが二つあるように見える。ベッドの枕もとの壁に飾られた、こうもり傘をさした山羊の絵も二枚に写っている。シャガールの複製だ。
 香也子のまうしろの窓が三面に写って、三方から、新緑の山がおしよせ、いかにもみどりに囲まれている感じだ。
 三面の左の一枚には、犬、猫、熊などが人形棚にひしめいている。その他、馬や、鹿、ペンギンなど、人をかたどった人形はひとつもない。香也子は、自分より愛らしいもの、自分より美しいものが嫌いなのだ。それがたとえ人形であっても、人の形をしている時、香也子の熾烈な嫉妬心は、人形でさえその存在を許さないのだ。
 香也子は、化粧の仕上がった顔を、さっきから鏡に近づけたり離したりして、眺めている。が、どうも気にいらない。眉はもっと細くしたほうがいいような気もするし、口紅はオレンジ系の色にしたほうがよかったように思う。
 香也子の目に、十日ほど前に見た姉の恵理子の顔が鮮やかに焼きついている。彫ったような二重瞼、しっとりとした肌、やさしくとおった鼻筋、それらがいやでも目に焼きついている。
 あれ以来香也子は、鏡に向かうたびに、恵理子の顔と見くらべるような思いで化粧してきた。が、そのたびに苦い敗北感を味わうのだ。黒い目の輝きは姉には負けないと思う。やや小さめの唇も、薄いが形がよいと思う。が、どこかが姉に及ばない。それが香也子にはくやしいのだ。香也子はクレンジングクリームのふたをとると、人さし指と中指で、たっぷりとそれをすくい、額、頬、鼻、あごに、点々とつけ、思いきりよく化粧を落としはじめた。白いガーゼにべっとりとファウンデーションの色がつく。
 クレンジングクリームをガーゼでぬぐい、化粧水をふくませた脱脂綿でごしごし拭いている時、ドアをノックする音が聞こえた。たちまち香也子の眉がぴりりと上がった。
「誰?」
 咎める声だ。化粧を落とした顔を扶代や章子には見せたくないのだ。香也子は、幼い時に聞いた白雪姫の話の中で、もっとも心をうたれたのは、白雪姫のまま母が、鏡に向かって、
「鏡や、鏡や、世界のうちでいちばん美しいのは誰?」
 と、尋ねる言葉だった。香也子もそんな思いで、いつも自分の顔を鏡に見ているのだ。他人に素顔を見せるくらいなら死にたいほどなのだ。
「ああ、お父さんだ」
 のんびりとした容一の声がした。
「お父さん? 仕方がないわねえ」
 立って行って、香也子はドアを開けた。紺のウールのきものを着流した容一が、パイプをくわえたままはいってきた。
「何だ。まだ起きたばかりか」
 容一は、机の前の椅子に腰をおろす。
「ずっと前から起きてるわよ。お父さん今日会社に行かないの」
「日曜だよ、今日は」
 容一にも、素顔の香也子は珍しい。
「あら、日曜日。そうね、そうだったわね」
 勤めをもたない香也子は、時々曜日がわからなくなる。それでも、水曜日と金曜日のピアノの練習日だけは覚えているからふしぎだ。香也子は父にはかまわず、すぐにまた鏡に向かって乳液をつけはじめた。
「素顔のほうがきれいだよ、香也子」
「まさか」
 化粧した顔のほうがきれいだと、香也子は信じきっている。
「いやあ、若いお前さんは肌がいいんだ。なにも、べたくたつけて塗りつぶすことはないよ」
「まあ、失礼ね」
「失礼じゃないよ。素顔のほうがいいというのは、ほめてることだよ」
「高校生じゃあるまいし……このごろの、少し気のきいた子なら、化粧してるのよ、高校生だって」
 と香也子は化粧の手をとめない。
「お父さん、何かご用?」
「用なんかないさ。お前の顔を見たかっただけさ」
 香也子はニヤニヤして、
「ほかの男の人にそういわれたのならうれしいけれど、お父さんじゃしようがないな」
 と、機嫌がいい。
「ねえ、お父さん。わたしも勤めたいわ」
「勤める?」
 容一の眉間にたてじわが寄る。
「だって、ピアノ習ってるだけじゃつまらないもの」
「じゃ、料理でも習えばいい」
 容一はこの、手に負えないわがままな香也子がかわいい。勤めに出す気はしないのだ。
「だって、章子さんは勤めさせたじゃない?」
 今年の三月まで、章子は会計事務所に勤めていた。が、三月で辞めたのは、英語塾の金井政夫との仲が、急速に進んだためである。章子は、いま、せっせと料理学校に通っている。
「そうね、わたしも料理学校に行こうかな。ね、お父さん、わたし、章子さんより先にお嫁に行きたいわ」
「嫁に? お前、章子より二つも若いじゃないか」
 香也子のいうことは、猫の目のように変わる。
「だってお父さん、お友だちだって、じゃんじゃんお嫁に行っているのよ。行かない人でも同棲してたりさ。土曜日には男の人のところに泊まりに行ったりよ」
「羨ましいか」
「羨ましくないけど、なんだかちょっとくやしいわ。それに、章子さんよりあとにお嫁に行くなんて、わたしいやよ」
 いやという言葉に、香也子は強いアクセントを置いた。容一は鏡の中の香也子に、ちょっと目をとめたが、
「じゃ、すぐに相手を探してくるんだね」
 と苦笑し、
「お前のその負け嫌いは、誰に似たのかな」
 と困ったようにいった。
「だってお父さん、章子さんより後にお嫁に行くなんて、わたしに魅力がないみたいよ」
「それとこれとは別だよ。魅力ある者が、必ず先に行くとはかぎらないよ。ま、章子とお前とをくらべたらお前をかわいいと思うに決まっているじゃないか」
「そうね。わたし、章子さんになんか、ちっとも負けやしないわね」
 くるりとふり返って容一を見、ちょっと肩をすくめ、
「ね、お父さん、あの金井って英語の先生、どうかしてるわねえ。章子さんなんかのどこがいいのかしら」
「おとなしいところがいいんだろう。ところで、お前もお茶でも習ったらどうだ」
 容一はようやく、いいたかったことをきりだした。
「お茶? そうね、悪くないわね」
 香也子は、野点で亭主をつとめていた姉の恵理子の姿を思い浮かべた。
「そうか、習うか。じゃ、藤戸のおばあちゃんのところへでも習いに行ったらどうかね?」
「藤戸の?」
 探るように鏡の中から容一を見、
「いやよ、あそこなんか」
 切り捨てるようにいう。
「しかしお前、このあいだ、野点に行ったじゃないか。おばあちゃんの茶会だと知って行ったんだろう」
「…………」
「お前だって、たまにはお母さんや恵理子に会いたいんだろう?」
「冗談じゃないわ。会いたくなんかないわ」
「そう強情を張るなよ。お母さんはね、いつでもきてくれって、いっていたよ」
「あら、お母さんに会ったの? そう、お父さん、お母さんに未練が出てきたのね」
「馬鹿をいえ、馬鹿を」
「わかったわ、自分が未練が出たものだから、わたしをダシに使おうと思って……いいわよ。使われてあげてもいいわよ」
「馬鹿をいいなさい」
「お母さんと、もとに戻れば、章子さんたちはこの家を出て行くかもしれないわね」
 香也子は小気味よさそうに高笑いをした。

     二


 出稽古から帰ってきたツネのきものを、保子はたたみながら、
「ねえ、お母さん」
 と、顔を向けずにいう。
 この幾日か、保子はいいだす機会を狙っていた。下手にいいだしてはツネの機嫌をそこなう。ツネはふだん話のわかるほうだが、こと橋宮容一に対しては、かたくななほどにきびしい。
「なんだね。あ、これ島崎さんで、またいただいてきたよ」
 きものを着替えて、文机の上においた小さな風呂敷包をあごで示す。その傍に、長谷川一夫のブロマイドがニッコリと笑っている。
「なんでしょう?」
筋子すじこだよ」
「まあ、いつもお高いものを……」
「あの奥さんは、気前がいいんだよ」
 保子はビニール袋にはいった筋子を冷蔵庫にいれながら、話の腰を折られたような気がした。
「旭山の桜は、もうすっかり散ったでしょうね」
「何をいっているんだよ。一週間も前に散ったんじゃないのかい」
 保子は、何とか香也子のことをいいだそうとして、旭山の桜をもちだしたのだ。
「ね、お母さん、あの時香也子は、ほんとはわたしたちに会いたかったのじゃないかしら」
 今度はさらりといえた。
「香也子? さあねえ。あの時の態度じゃ、恋しがってるとも見えなかったがねえ」
「いいえ、恋しかったのよ、あの子。でも、あの子だって立場上、素直に恋しいとはいえなかったのよ」
「そうかねえ」
 その時、階段に静かに足音がして恵理子が茶の間にはいってきた。
「あら、もう三時? おばあちゃんお帰りなさい」
 恵理子は畳にすわる。たたみ終わったツネのきものをタンスにいれながら保子がいう。
「ねえ、恵理子、お前香也子をどう思った?」
「どうって?」
 突き刺すような激しい視線を自分に向けていた香也子を、恵理子は思い浮かべる。
「あの子はやっぱり、懐かしがってきたんだろうね」
「そりゃあそうでしょう」
 懐かしがってくる以外に、どんな気持ちでくるだろう、と恵理子は思う。くるにはきたが、その自分の感情をどう表現してよいか、香也子は戸惑っていたのだと恵理子は思う。
「おばあちゃん、お煎茶いかが?」
「ああ、お茶より、お水がいいね」
 さばさばといって、
「保子、香也子の気持ちなど、どうだっていいじゃないか」
「あら、なぜ?」
「どうせ、お前とは縁の切れた子だからね」
 水のはいったコップを祖母の前においた恵理子は、母と祖母の顔を交互に見る。
「そんな! お母さん、縁が切れたなんて……ねえ、恵理子」
「だって、縁が切れてるじゃないか」
「そりゃあね、お母さん。橋宮とわたしは切れてますよ。でも、香也子はやっぱりわたしの腹を痛めた子ですからね」
「おや、じゃお前、あの子を呼び戻そうってつもりかい」
「そうじゃありませんけど、たまに会ってやらなきゃ、かわいそうじゃありませんか。あんな時でなければわたしたちの顔が見れないなんて、哀れじゃないの」
「保子、そんなこといってお前、わたしに隠れて、香也子と会ったりしちゃ、承知しないよ。香也子と会っているうちに、必ずあの橋宮とも会うようになるんだから。そんなことになったら、またややこしくなるよ」
「香也子としか会いませんよ、わたし」
「いいえ、そうはいかないの。必ず橋宮が手を出してくるんだから」
 ツネが断固としていう。保子はうつむいた。
 菊天で容一に会った時、容一は保子の指に指輪のないのを見ていった。
「買ってやろうか」
「いいのよ、お茶をしてると、指輪は邪魔なの。茶器に傷をつけるから」
 と保子はいったが、その手は、容一にそっと握られていた。その時の感触が、まだ保子の体に残っている。それは抱かれた感触のように強烈だった。
「おばあちゃん。わたし、お母さんのいうことわかるわ。わたしだって香也ちゃんやお父さんが懐かしいわ」
 恵理子が助け舟を出す。
「何をいってるの、恵理子。あんたはね、お母さんがどうして橋宮の家を出たか、わかんないだろう」
「わかってるわ。女の人のことでしょう」
「いいや、恵理子はまだわからないの。女にとって、夫に女ができたってことは、死ぬより辛いことなんだよ。わたしはね、おじいちゃんでこりごりしたんだから。男の浮気なんて、一生なおりゃしない。おじいちゃんで、それがよくわかったから、わかれさせたのよ。保子は、わたしといれば、食べるのに困るわけはなし、亭主で苦労することはなし、幸せなもんじゃないか」
 ツネにとって、娘の保子と孫の恵理子との三人暮らしは、水入らずで平和そのものだった。この平和な暮らしを、香也子の出現で、こわされたくはないのだ。
 ツネの眉が、けわしく上がっている。恵理子はふっと、わが祖母ながら、芝居に出てくる小意地の悪い奥女中を見る感じがして、ツネから目をそらせた。
 保子も、容一の名が出れば、すぐに顔色を変えるツネの気持ちはのみこんでいる。自分も、容一と別れた当座は、母との生活のほうが、どんなに幸せだろうと思ったことだった。が、十年の歳月が過ぎてみると、保子は、これでよかったのだろうかという思いを、時折抱くようになった。あの時、もう少し自分が我慢をしていたなら、案外いまごろは、幸せな家庭を築いていたのではないかと思ったりもする。
「とにかく、香也子のことなんか、いまさらいいださないでおくれよ。恵理子も、橋宮の家になんか、電話をかけたりしないようにね」
 ぴしりといい、笑顔に戻っていった。
「今夜は生鮨なまずしを奢ろうかねえ」

     三


 青地に白の、水玉模様のこうもり傘をさして、香也子は小雨の外に出た。庭の牡丹ぼたんがアララギの陰に華やかに咲いている。しっとりとぬれた神居古潭石が、牡丹の傍にかぐろく美しい。シェパードのトニーが尾をふって鳴き立てる。
「散歩じゃないのよ、トニー。いい人を迎えに行くの」
 香也子はトニーの頭をなで、門を出た。
 西に行けば、道は下って三百メートルほどむこうの柏林に突きあたる。香也子は東にむかって歩いて行く。道端のチモシーが雨にぬれて光っているのが目をひく。角の家の藤がいま盛りで、小さな紫の滝のようだ。
 道は次第に丘を登って、くもり空の中に果てる。落葉松林が行く手右側に清々しい緑を見せている。この道が、丘の中でも香也子のいちばん好きな道だ。尖った赤い屋根の家、白樺に囲まれた低い家、真っ白な北欧風の家、それらの家々が、ゆるやかな丘の斜面に、箱庭に置かれたように建っている。
 こんな道を歩く時の香也子は、四、五歳の童女のような表情だ。何の邪気もない顔だ。香也子はくるりくるりと、両手でこうもり傘をまわす。傘は雨を弾いて四方にちらす。
 と、丘の上に車が現れた。車は真っすぐに香也子のほうに下ってくる。見覚えのある金井政夫の車だ。いままで無邪気だった香也子の顔に、皮肉な微笑が浮かんだ。香也子は、金井を迎えに出てきたのだ。
 金井は、あれ以来日曜日毎に、香也子の家に現れる。今日も金井を迎えるために、章子は台所で、お手伝いの絹子とともに、大童だった。その間に、香也子は誰にもいわず、そっと金井を迎えに出てきたのだ。
 近づいてきた金井は、小さくクラクションを鳴らした。驚いたように香也子は目を見張り、車から顔を出した金井政夫をみつめた。
「あら、金井さん、もういらしたの」
「早かったかなあ」
 金井は時計を見た。
「早いわよ。章子さん、いまお料理にとりかかったばかりよ。今日は中華料理を作るんですって。一時間は早いわよ」
「そうか。だけど、五時にくるっていう約束だったんだけどなあ」
「じゃ、ちょっとの間わたしと観音台かんのんだいのほうにでも行ってみない?」
 傘をすぼめ、香也子はすばやく助手台のドアをあけた。
「ああ、そうしますか」
 金井政夫はうなずいた。ドアがしまった。車は方向を変えた。
「ああ、うれしい。わたし、金井さんと一度ドライブしてみたかったのよ」
「え?」
「だって、わたし、金井さんがお兄さんのような気がするんですもの。章子さんとわたしは姉妹だから、章子さんと結婚する金井さんはお兄さんということよね」
 あどけなく笑って、香也子は軽く頭を金井の肩にもたせかけた。香也子の態度が無邪気なので、金井は咎めるわけにもいかない。
 車は火山灰地の白い丘の上の道を走って行く。
「ねえ、金井さん。いや、今日からお兄さんと呼ぼうかしら。いい? お兄さんと呼んでも」
「いいですよ」
 金井はくすぐったい顔をした。
「わあ、うれしい。ね、お兄さん。内地はいまごろ梅雨ですってね。北海道は梅雨がなくっていいわねえ」
 今日の雨は、梅雨のような感じだが、どうせ明日になれば、からりと晴れる雨なのだ。
「香也子さんは雨が嫌い?」
「あら、わたしがお兄さんと呼ぶんですもの。香也子って呼んでよ」
「香也子? それはどうもねえ。ぼくは女の人を呼び捨てにしたことがないんで……」
「でも、章子さんと結婚したら、章子って呼ぶんでしょう」
 語尾が鼻にかかる。金井はちらりと横目で香也子を見、
「いや、それはまだわかりませんよ」
「あら、章子さんて呼ぶ気なの?」
「呼ぶかもしれません」
 うっかり呼び捨てにするといえばこのわがまま娘は、自分をも呼び捨てにせよと迫るにちがいない。
「じゃ、仕方がないわ、香也子さんでも。でもいやだなあ、さんづけなんて、水臭くて」
「雨の日は嫌いですか、香也子さん」
「ううん、そうでもないの。じゃんじゃん雨が降って、この高砂台なんか、押し流されればいいと思うことがあるわ」
「こわいんだなあ、君は」
「あら、そうかしら。お兄さんは、雨降りは嫌い?」
「ぼくは、どちらかといえば晴れた日が好きですよ。車が汚れなくて助かりますからね」
「あーら」
 香也子は顔をあげて笑った。が、次の瞬間、前よりももっと深く、金井の肩に頭をのせていた。

     四


 車はいつのまにか、高砂台から観音台につづく、馬の背に似た丘の尾根を走っていた。右手に深い落葉松林がつづき、左手の疎林を透して、旭川の屋並みが、雨雲の下に大きく広がっていた。
「凄いですねえ、この落葉松林は」
 密生した落葉松林の中は夜のように暗い。何か鬼気迫るような暗さだ。
「とめて、お兄さん」
 車がとまった。この道はめったに車は通らない。景色はいいが、あまり人に知られていない道なのだ。
「わたしねえ、こんな静かなところが好きなの」
 さらに香也子の体が、金井によりかかった。
「香也子さん、もう少し離れてくださいよ」
「あら、どうして?」
 香也子は目を見張って、金井を見た。
「どうしてって、運転ができませんからね」
「あら、だって、いま、車はとまってるじゃないの」
「それはそうですけれどねえ。しかし……」
「ねえ、お兄さん。お兄さんはもう章子さんとキスをしたの」
「…………」
 黙って金井は、ポケットからタバコを出した。
「やっぱりなさったのねえ。いいわね、章子さん」
 金井はタバコに火をつけて、雨にぬれた道端の笹の葉に目をやった。
「ね、お兄さん、わたしにもキスをして」
「えっ?」
 金井は思わず口からタバコを離した。
「章子さんには恋人のキス、わたしには妹のキス」
 香也子はニッコリと笑った。ひどく愛らしい笑顔だった。目がキラキラと輝いている。
「困ったお嬢さんだなあ、君は。君はねえ、いままでそうやって、いろんな人にキスをしてもらったの」
 金井は皮肉な語調でいった。
「まあひどい! わたし、キスなんか、まだ一度もされたことないわよ。わたし、お兄さんだからしてほしいのよ。きょうだいのしるしに」
「香也子さんねえ、君にもし好きな人ができた時、その時に、とにかく生まれてはじめてのキスを受けたらいいよ」
 金井はタバコを灰受けに入れ、ハンドルに手をおいた。その手を、
「待って」
 と、香也子はおさえた。
「いま、お兄さん、好きな人ができたらって、おっしゃったわね。じゃ、その好きな人がお兄さんだったら、どうするの」
「え?」
 金井は香也子を見た。香也子の必死な目が、金井を見つめている。
「香也子さん、そんなことをいっちゃいけないよ」
「どうして? どうしていけないの?」
「だってぼくには……」
「章子さんがいるというの」
「そうですよ。ぼくには章子さんがいる」
「ねえ、章子さんとわたしとくらべて見て。わたしは章子さんよりもつまらない女?」
「そんなことはありませんよ。あの人はあの人、あなたはあなただ」
「ずるいわ。逃げないで、お兄さん。わたしほんとうにお兄さんが好きなの。好きで好きでたまらないの」
 いいながら香也子は、本当に自分は金井が好きなような気がした。このどこかさわやかな金井政夫が、ひどく得がたい男性のように思われてきた。
「そんなこといったって……」
「ね、お兄さん。わたし、結婚してもらわなくてもいいの。ただ一度だけ、キスをしてほしいの。ただ、それだけなの」
 香也子の目から、涙があふれ落ちた。
「香也子さん! じゃ、君は、ほんとうにぼくを……」
 金井は、香也子の両肩に手を置いて、香也子の顔を見つめた。香也子はこっくりとうなずいた。すがりつくような必死なまなざしだった。
「君が本気なら……ぼくも考えてみる。しかし、考えても君の思うとおりになるかどうか、わからないよ」
 再び香也子はうなずいた。
「ぼくにとっては、章子さんのような人がふさわしいと思っていたけど……」
 香也子の肩をおさえる手に力がはいった。
「わたし、章子さんの幸せをこわしたくはないわ。ただ、わたしの気持ちをわかってほしかったの。はじめて会った時から、わたし、何か大変なことになりそうな気がしていたの」
 弱々しく香也子はいった。
「初めて会ったときから?」
「人を好きになるのに、時間は要らないわ。ひと目で好きになるわ。でも、今日まで我慢していたの。だけど、章子さんが一所懸命に、あなたのためにお料理を作っている姿を見ていたら、わたし、耐えられなくなってしまったの。だから、外に出てあなたの車を待っていたのよ」
 またもや香也子の目から、涙があふれた。
「じゃ、君はあそこでぼくを待っていたの」
「そうよ、偶然じゃなかったのよ」
「そうだったのか」
「だから、わたし、ただキスだけしてもらば、それで諦めようと思ってるの」
「君って、見た目より、ずっと純情なんだね」
 金井が、香也子の両頬を手で挟んだ。そしてそっと唇を近づけようとした時だった。うしろで、けたたましくクラクションが鳴った。はっと金井はハンドルをとった。車がようやくすれちがうことのできる狭い道なのだ。あわてて金井は車を左に寄せたが、うしろから再びクラクションが鳴った。
「これだけ寄せれば通れるのになあ……」
 ふり返ると、思いがけなく香也子の従兄の小山田整が、車から降りてきたところだった。

     五


「おいしいわ。とってもおいしいわ」
 香也子がいった。テーブルの上には、牛肉とピーマンと地物のたけのこのいため煮、毛蟹けがにを使ったフーヨーハイ、それに容一の好きな八宝菜、酢ブタなどがいっぱいに並べられている。
「あら、うれしいわ。香也子さんにほめられるなんて」
 上気した頬を、章子はおさえた。小山田整は、
「ああ、おいしいだろうよ。香也ちゃんとしてはな」
 と、意味ありげに笑った。
「あら、どういうこと? 整さん」
 香也子は軽くにらんだ。金井はその香也子をちらりと見、目を伏せて黙々と食べている。
「だってそうだろう。香也ちゃんは何ひとつ手伝わないで、ただ食べているわけだろう。料理ってものは、作った人はおいしくないものさ。なあ、章子ちゃん」
 整は今日、章子からの電話を受けて、金井の相伴にやってきたのだった。整の車がバス通りを下って行った時、香也子が金井の車に乗るのを見かけた。香也子の性格をのみこんでいる小山田整には、ぴんとくるものがあった。遠くから後を尾けて行ってみると、案の定、途中で香也子が金井の肩に頭をよせるのが見えた。車は観音台の霊園のほうにむかって行く。そこが人けのない淋しい道であることを、小山田整も知っていた。金井の車が道の途中にとまった。整の車が近づくのも知らずに、ふたりが顔を近づけていた。クラクションを鳴らすと、あわててふたりは離れた。車を降りた整は、
「やあ、ご両人、といいたいところだが、相手がちがうじゃないか、相手がよ。香也ちゃん、こっちの車に移んな」
 そういって整は、香也子をつれて戻ってきたのだ。
「まあ、悪いようにはしないからさ。ぼくだって、そう不粋じゃないからね」
 金井にもそういって、ひとまずみんなで夕餐に顔を出したのだった。
「式のことだがねえ、金井君」
 そんないきさつを知る筈もなく、容一がいった。
「ハッ」
 金井は緊張した顔で箸をおいた。扶代はいつものように、のんびりした調子でジュースを注いでやる。
「九月の彼岸はどうかね、暑からず寒からずで……」
 金井はちらりと香也子を見、小山田を見た。
「いいわね、お彼岸のころだと、章子さんも何を着てもいいころだもの」
 ひどく明るい声だ。章子はうなずいて、
「ええ、わたしはいいけど、金井さんは」
 と、はにかみながら金井を見る。
「ハ、あの、ぼくは、べつだん……しかし、もしかしたら、英語のテストの……何があるかもしれませんので」
 しどろもどろに答えるのを、小山田が、
「ま、独身時代にはなるべく早く見切りをつけたらいいんじゃないの」
 と、酢ブタに箸をのばす。
「ハ、ぼくは章子さんのいいように」
 と、金井は容一のほうに頭をさげた。その金井に香也子が何かいおうとした時、整がいった。
「ね、香也ちゃん、一寸八分って書く姓があるの、知ってる?」
「一寸八分? 何て読むのよ」
「知らないだろう。カマツカ、カマツカだよ。五六と書いて何と読む?」
「知らないわ」
「フジノボリっていうんだよ」
「まあ! ほんと?」
「な、香也ちゃん。この世には苗字ひとつだっていろいろあるよな。色に摩擦の摩って書いて何と読む?」
「しきま?」 
 いってから、香也子は小山田をにらんだ。
「いや、シカマさ。だけどシキマって呼ばれて改姓したそうだけどね、名前は改めても、色魔ってのは、そう簡単になおらんからな」
 香也子と金井にだけわかる言葉だった。が、容一はその三人の顔を順々に見つめた。

     六


 あけ放った窓から、木工団地の工場の機械のうなりが、絶えず低くひびいてくる。
 恵理子は、頼まれたスーツの裾をまつっている。あるとも見えない風に乗って、タンポポの穂絮ほわたが窓からはいってきて、そのまつる手にとまった。恵理子は立って、その穂絮を窓から放った。穂絮は頼りなげに漂って行く。
「オーライ、オーライ」
 トラックを誘導する声が、向こう岸に聞こえる。ふと見ると、百メートルほど先の配送センターから、トラックが出てくるところだった。旭川木工団地の製品は、この配送センターから全国に向かって発送されるのだ。いま、橋の上を、幾棹もタンスを積んだ大きなトラックが渡って行った。あのタンスを、どんな女性が、どんな家庭の中で使うのか。いつものことながら恵理子は思う。
 若葉となったポプラの木立越しに向こう岸を見た恵理子は、淡い失望を感じて再びミシンの前にすわった。スーツの裾をまつりながら、恵理子は、野点の日以来、向こう岸に姿を見せなくなった青年のことを思う。もうあれから、ひと月以上は過ぎた。窓から眺めるたびに、恵理子は向こう岸に青年の姿を期待した。が、なぜか、あのギターを持った姿は現れなかった。思いがけなく茶会で会った時、恵理子は自分でも驚くほど胸がときめいた。わざわざ野点の席につらなってくれた青年を思って、その夜、恵理子は眠ることができなかった。
 いつも家の中で洋裁をするか、祖母のお茶の稽古の手伝いをするだけの恵理子の生活は、ほとんど異性に接する機会のない生活だった。そのうえ、いつも祖母のツネから、
「恵理子、結婚なんて、それほどあこがれるほどのもんじゃないんだよ。何せね、男なんて者は、生ずるいもんなんだから。女房の目を盗んでは、ほかの女に手を出す。それが夫というものだと思っていたら、まちがいないよ。おばあちゃんや母さんを見てたらわかるだろ」
 と、くり返し聞かされてきている。たまに高校時代の級友から電話がかかってきても、それが男の声であれば、
「留守ですよ」
 と、ツネはにべもなく受話器を置いてしまう。祖母のツネにとっては、恵理子かわいさの思いですることだろうが、いつしか恵理子は、男性に近づくことも憚られるような思いにさせられていた。だから、向こう岸に現れた、ギターをかき鳴らすあの青年が、野点の席にきた時の喜びは、恵理子でなければわからない喜びだった。
 恵理子は器用に、スーツの裾をまつっていく。驚くほどの早さであり、驚くほどのうまさである。グリーンのこのスーツの主は、高校時代の友人だ。薬局を営むその父を手伝っていた友人も、今月の末には結婚する。相手は、父と同じ薬剤師だという。
(幸せであってほしい)
 恵理子は痛切にそう思う。決して、母や祖母のような結婚生活になってほしくないと思う。恵理子は人から頼まれたものを縫う時、いつも持ち主の幸せを祈る思いで鋏をいれるのだ。結婚と聞くと、その思いがさらに強くなる。みんなが幸せになる時、自分も幸せになるのだと、高校時代から、恵理子は固く信じてきた。それは父母の離婚という不幸によって、自分もまた不幸にまきこまれたような気がするからかもしれない。
「香也ちゃん」
 たった一人の妹の名を、恵理子はそっと呼んでみる。あの青年と並んで、ぎこちなく茶席についていた香也子が、たまらなく愛しい。馴れた席でもないのに、あの席につらなったのは、どんなに必死の思いであったろうと、恵理子は胸が熱くなる。それは、あの時のくいいるような香也子の激しいまなざしが、何よりもそれを語っているような気がする。実の母と実の姉を、どんなにか慕ってやってきたのだろうと思う。これも、あれ以来くり返し恵理子の心にかかることだった。
 ふっと恵理子は時計を見た。もう十二時半だ。川向こうを見る。やはり青年はきていない。と、その時、
「恵理子、お電話よ」
 と呼ぶ、母の保子の声がした。恵理子は針を針さしに刺して、部屋を出た。下に降り、
「どなたから?」
 と尋ねたが、
「ま、出てごらんなさいよ」
 と、保子は意味ありげに笑った。今日は木曜日で、ツネの出稽古の日だ。何となく、恵理子は青年の顔を思い浮かべて、受話器をとった。
「もしもし、あのう、恵理子ですけれど」
「おお、恵理子かね、わたしだよ。わかるかね」
 やわらかい中年の男の声だった。恵理子は一瞬息をのんでから、
「わかります」
 と、低く答えた。「お父さん」と呼んでいいものか、悪いものか、うしろにいる母の保子を思うと、恵理子にはわからなかった。
「おお、わかったか。覚えていてくれたかね、お父さんの声を」
 懐かしそうな橋宮容一の声だった。
「ハイ」
 恵理子はやはり、母が気になって何もいえなかった。
「いつかねえ、旭山で恵理子のきもの姿を見たよ。いい娘になったね」
「…………」
「どうだね、一度お父さんと食事でもしないかね」
「……ハイ……でも」
「そこにおばあちゃんがいるのかい。おばあちゃんは、木曜日は留守の筈だが」
 いつのまにそんなことを父は知ったのだろう。いま、母がそう告げたのだろうか。とまどいを感じながら、
「いま、母だけですけれど……」
「じゃ、どうだね。お母さんと街まで出てこないかね、十五分もあったら出てこれるだろう」
「ハイ、あの、香也ちゃんも一緒ですか」
「いや、香也子は、今日は一緒じゃないが」
「香也ちゃんも呼んでください。そしたら……参ります」
「いや、香也子にも会わせたいんだがね、あの子のことでも話があるんだ。今日はお父さんとお母さんの三人でもいいだろう」
「ちょっとお待ちください」
 恵理子は、うしろにいる保子をふり返った。
「お母さん、お父さんが一緒に食事をしようって。行ってもいいのかしら」
「いいわよ、お母さんも一緒に行くから」
「でも、おばあちゃんに知られたら……」
 ツネがいっていたことを忘れてはいない。ツネは母の保子に、
「香也子のことなんか、いまさらいいださないでおくれよ、わたしにかくれて、香也子に会ったりしちゃ、承知しないよ。そんなことすると、あの橋宮とも会うようになるんだから」
 といい、恵理子にも、
「橋宮の家になんか、電話をかけたりしないようにね」
 と、はっきり釘を打ったのだ。
 保子は恵理子に、
「大丈夫よ、おばあちゃんに内緒で会えばいいんじゃない。子供じゃあるまいし、いちいちいわれることはないわ」
 と、じれったそうにいう。恵理子は受話器を持ちなおし、
「お待たせしてごめんなさい。じゃ、これから、母と一緒に参ります」
「おお、そうかそうか。じゃ、ニュー北海ホテルの二階の中華料理の店で待ってるよ。すぐにくるんだよ」
 容一がうきうきといった。

     七


 店内はひっそりとして客が二組ほどしかなかった。ま昼のせいだろう。容一、保子、恵理子の三人が、いちばん隅の席に向かい合っていた。
「いい娘になったねえ。まったくいい娘になった」
 容一はさきほどから、同じことを目を細めて、幾度もいっている。
「そうですよ。恵理子は、ほんとうにいい娘ですよ」
 牛肉とピーマンのいため煮を小皿にとりながら保子がいう。そのきものから出た肉づきのいい腕が、ふっくらとなまめかしい。恵理子は、母の保子の表情が、いつになく若々しいのに、何か痛ましさを感じた。別れた夫に会う女は、はたしてみんなこのような表情になるだろうか。そんな思いが、ふっと心をよぎった。
「ここの中華料理はうまいね。実はこの前の日曜日、うちに客があってね、中華料理の手づくりをご馳走したんだ。それが意外とうまくてね。お前たちに食べさせてやりたいと思ったもんだから……」
「どなたがおつくりになったの」
 保子の語調が、ややねっとりとなる。容一はす早くそれに気づいて、
「お手伝いの絹子だ。あれは料理の上手な娘でね」
 絹子が料理上手なのは事実だ。が、あの日は扶代の娘、章子が料理学校で習った腕前を披露したのだ。しかし容一は、そうはいわない。
「香也ちゃんは、お料理上手ですか」
 恵理子が目をあげて容一を見た。
「いやあ、あいつは食べる一方でね」
「それは結構ですわ。あの年ごろで食欲がなけりゃあ、大変ですわ。ね、恵理子」
「それは、ま、そうだが……恵理子は何が得意かね」
 少しでも恵理子にものをいわせようとする容一の気持ちが、恵理子にもあたたかく伝わる。
「わたし、あまり得意なものがないんです」
「そうでもないんですのよ。人様のスーツや、オーバーを縫いますしね。お茶も、将来はおばあちゃんのあとを継げるんじゃないですか」
「ほほう、たいしたもんだ」
 前に保子に会って聞いていたことを、容一はいまはじめて聞くような顔でうなずき、
「どうだね、恵理子、お前、洋裁店でもひらいてみたくはないかね」
「思いますわ」
 思わず恵理子の声が弾んだ。恵理子は高校を卒業して、洋裁学校に学んだ。その頃から、洋裁店をひらいてみたいという夢をもっていた。大きくなくてもいい。きれいな、透きとおるショーウインドーの中に、自分の好きな布地で、自分の好きな形にデザインしたドレスやコートなどを飾る店を持ちたかった。が、そんなことは、ツネと保子との生活の中では、いいだしても仕方のないことに思われて、語ったことはなかった。
「ほう、やりたいかね。やりたけりゃ、お父さんが応援するよ」
 容一がそういった時、幼い頃、散歩に手を引いてくれた父の手の感触が、ふっと思い出された。それは親たちの離婚によって、父から遠ざかっていた恵理子の心を昔に戻すものであった。父と思えなかった人が、父に思われた。他に女をつくった不潔な男性であった筈だが、いまは血の通う分身に思われた。それは、自分の心の底にかくされた願いをいい当て、それを受けいれてくれたからかもしれない。ともに住んでいる母でさえ、一度もいったことのない自分の夢を、この父は、遠くに住んでいながら、わかってくれた。そんな思いだった。
「でも、あなた、恵理子はもうそろそろ結婚する齢ですよ。お店なんか持っていては、結婚の邪魔になりますわ」
 保子は外に働いたことはない。橋宮容一に嫁ぐ前も、ツネに手伝ってお茶をしていただけだ。
「なるほど、結婚か。しかし、店なら結婚してもつづけられるだろう。な、恵理子」
「そう思いますけど……」
「恵理子には、ボーイフレンドがいるのかい」
「いいえ」
 はにかんで答える恵理子の胸の中に、まだ名も知らぬあの青年の姿が浮かんだ。
「なに? いない? ほんとかね」
「ほんとうよ、お父さん」
 お父さんという言葉が、すらりと出た。何と懐かしい言葉だろう。
 はじめてお父さんと呼ばれて、容一の相好は大きく崩れた。容一は、もしかしたら、恵理子はこの自分を、生涯父と呼ぶまいと決意しているのではないか、それほどに憎んでいるのではないかと、内心恐れていたのだ。
「それは信じられん」
「でもね、あなた、恵理子は家の中から外には出ませんもの、洋裁をするか、お茶の稽古をするか、それだけでしょう? ですから、ボーイフレンドなんかできる暇など、ありませんわ」
「それは残酷だ。大変な無菌家庭だ。なあ恵理子」
 と、体を前に乗り出し、声をあげて笑った。恵理子も笑った。潔癖な保子は、暇さえあれば、家の中を拭き清めている。靴のちりも、ていねいにぬぐわなければ、一歩も家の中にいれない。そのことをも含めて、半分冗談めかしていったのだ。保子はそれには気づかず、
「そうねえ、恵理子も年ごろなんだもの……でも、いまにおばあちゃんが、お弟子さんの伝手で、適当な候補者を見つけてくれますよ」
 ひとしきり話が弾んだあと、保子は時計を見、
「あら、もう二時過ぎよ。急がなければ、おばあちゃんが帰ってくるわ」
「帰ってきたって、いいじゃないか」
「そうはいきませんわよ。今日外出するって、いってなかったんですもの」
「断らなきゃ、外出もできないのかい」
「そうじゃないけれど……おばあちゃんの出かける時に、外出するともいわないで、二人で出てきたんですもの。あなたに会ったんじゃないんなら、平気ですけどねえ」
「相変わらずだね、おばあちゃんは、おれをすっかり毛嫌いしてるんだな」
「仕方がありませんわ」
「じゃ、何だ、保子だけ先に帰りなさい。せっかく何年ぶりで会ったんだ、おれはもう少しゆっくりしたいよ」
 いいながら容一は、札入れから一万円札を二枚出し、
「ハイヤー代だ」
 と、保子に渡した。保子は無造作に、
「ありがとう、いつも」
 といい、そそくさと立ちあがった。
 女らしい歩き方で去って行く保子を見まもりながら、恵理子は、母がすでに幾度も父と会っていたのだと思った。が、それを咎める気持ちは恵理子にはなかった。
「お父さん、わたし、香也ちゃんに会いたいわ」
 恵理子はまっすぐに容一を見た。その時、容一の表情がハッと変わった。
 容一は立ちあがった。恵理子がふり返ると、入り口のほうから香也子がはいってくるのが見えた。

     八


 思わず立ちあがった橋宮容一は、こちらに向かってまっすぐ歩いてくる香也子に、一瞬弱々しい微笑を向けた。が、香也子は、唇をキュッと閉じ、容一と恵理子を無視して、テーブルに近づいてきた。淡いピンクのスーツが、香也子をひどくおさなく見せていた。
「よお、いいところにきたな」
 容一は自分を取り戻していた。恵理子と香也子を、いずれは引き合わせなければならないと思っていた。が、改めて引きあわせようとすれば、香也子は決して、素直に会おうとはいわなかったにちがいない。どんなに望んでいることでも、人に勧められれば、正反対の行動をとる香也子なのだ。正反対といわないまでも、その時その時の気分で行動が一定しないのだ。
 このあいだ、祖母のツネにお茶を習えと勧めた時も、見事に一蹴された。が、そのあとすぐ、行ってみようかなどともいっていた。いま、突然の出現に驚きはしたが、考えてみれば好都合なのだと、容一は落ちつきを取り戻したのだ。
「ここにいることが、よくわかったねえ」
 香也子は容一の顔も恵理子の顔も見ずに、天井から吊りさげられたランタンに目をやって、
「いまわたし、お父さんの会社に寄ったのよ。そしたら、秘書の笹さんが、お父さんはもうホテルに出かけましたよっていうじゃない? ホテルに何しにって聞いたら、お嬢さまと中華料理をおあがりになるって。あらそんな約束だったかしらと、きてみたのよ。お嬢さまちがいとは知らなかったわ。馬鹿にしてる」
「そうか、そりゃあちょうどよかった。何を食べる? 香也子」
「何がちょうどよかったのよ。ごまかさないでよ、お父さん」
 ウエートレスの持ってきたコップの水を香也子はひとくち飲んで、はじめてきっと容一を見た。その香也子を見つめながら、幼い時と少しも変わらないと、恵理子は思わず微笑を浮かべた。香也子はいいたいことは必ずいい、したいことは必ずする性格だった。自分の制服のスカートをずたずたに切りさかれたことさえ、いまの恵理子には懐かしい。
「香也子、お前、お姉さんに久しぶりで会ったんだろう。まず挨拶をしたらどうだ。怒るのはそのあとでもいい。なあ、恵理子」
「香也ちゃん、しばらくね」
 恵理子の声がやさしかった。
「馴れ馴れしく声をかけないでよ。何よ、わたしひとり置いて、ふたりで出て行ったくせに」
 香也子は強い視線を恵理子に浴びせた。が、恵理子に目をあてた瞬間、香也子はかすかな敗北を感じた。ブルーのスーツが、あまりにもぴたりと身についた恵理子に、香也子はたじろいだ。先月、旭山で見た恵理子は、つけさげを着ていた。見事な和服姿だった。が、それは正装のせいだと香也子は思っていた。しかしいま見る恵理子は、どこがどうと、口に表しようのない着こなしのよさを、はっきりと香也子に感じさせた。
(洋裁をしてるからだわ)
 香也子はそう思おうとした。洋装ならば、誰にも負けないと香也子は自負していたが、その自負を、何の構えもなく恵理子はつきくずしたのだ。
 次の瞬間、香也子の心の底で、す早い打算が働いた。この姉と遠ざかっているよりは、ぐっと接近して、多くのものを奪ったほうが得だと、香也子らしいソロバンをはじいたのだ。
(スーツだって、ドレスだって、注文どおりにただで縫ってもらえるわ)
 恵理子の着ているスーツを見て、香也子は恵理子の仕立ての確かさを見た。
「そうね、香也ちゃんのいうとおりね。香也ちゃんをひとりおいて、お母さんとわたし、橋宮の家を出てしまったんですものね」
 うるんだ恵理子の声が返ってきた。その恵理子を香也子はちらりと見たが、視線を容一に移し、
「お父さん、小母さんや章子さんには内緒なんでしょ」
 と、ニヤリとした。にわかに、年輩の女のような分別くさい表情が浮かんだ。
「扶代にか……扶代にはお前、何でもいってあるよ」
 容一はつらっとして答えた。
「ほんと?」
 と探るように見、
「ここにいままで、もうひとりいたようね」
 と、さっきまで保子のいた席を香也子は意味ありげに見た。内心恵理子に近づくことを決意しながら、しかし父親の弱みを衝くことも、香也子は忘れない。
「うん、まあな……」
「どうやら秘密のようね」
「秘密だなんて、お前、何も扶代にかくすことはない。別れてもわしは恵理子の父親だからな。香也子にわからん相談もあるさ」
「そう。じゃ、今日のこと家に帰って話してもいいのね」
 口を歪めて小意地のわるい顔をする。
「うん、ま、そんな馬鹿なことは、香也子はしないだろうと思うがね」
「わからないわ。お父さんの出方ひとつよ」
 いいながら香也子は、ふたりのやりとりを眺めている恵理子に、ウインクをして見せた。これが香也子の挨拶だった。恵理子は微笑した。
「ねえ、わたしたち三人は、水入らずよね。血が通っているんですもの。章子さんや小母さんとは、ちがうわよねえ」
 機嫌の一変した香也子にとまどいながらも、容一もうれしそうに笑った。
「やっと機嫌がなおったね」
「あら、わたし、はじめから機嫌なんかわるくなかったわよ。大好きなお姉さんに会うのに、機嫌なんかわるくなる筈ないでしょ」
「はいってきた時の顔は、そうでもなかったぞ。なあ、恵理子」
「そりゃあ当たり前よ、お父さん。とびあがりたいほどうれしくたって、ちょっとはすねて見せなくちゃ、お父さんの教育に悪いもの」
 ニコッと笑って、小さな舌をちろりと出して見せる。
「お父さんの教育にわるいは、参ったな。なあ恵理子、お父さんはこうして、いつも香也子にいじめられているんだぞ。かわいそうだろう」
「うそよ、かわいがってるのよ。あ、お父さん、わたしワンタンだけでいいわ。おひるだから。あと何もいらない」
「ワンタンだけか。おやすいご用だ」
 二人のやりとりを、恵理子は羨ましげに見守った。仲のいい父娘だと思った。祖母のツネと母の保子との三人の、男けのない家庭に育った恵理子は、わがままいっぱいに容一に甘えている香也子が、ひどく幸せに思われた。
「ねえ、お姉さん」
 残ったコップの水を一息に飲んで、香也子はテーブルに片ひじをおき、身を乗り出すようにしていった。
「わたしね、お茶の会に行ったでしょ。あの日、お母さんやお姉さんに会えると思ったら、うれしくてうれしくて仕方がなかったのよ。眠られなかったの」
「まあ」
 恵理子は膝の上の、スーツと同色のブルーのハンケチを、キュッと握りしめながら香也子を見た。
「行ってみたら、お姉さんがお茶を点てていたでしょう。すごくきれいで、それで、うれしくて……それなのにお父さんたら、パッと逃げ出したの。わたし思わず、お父さん! って呼んじゃった」
「まあそうだったの」
 うなずく恵理子のいいようもない優しさを、香也子は嫉妬しながら見つめていった。
「お姉さんのつけさげ、すてきだったわ。あの人がわたしのお姉さんよって、誰にでもいいふらしたかったわ」
「あら、どうしましょう。香也ちゃんったら」
 姉らしい微笑だった。この姉の何に自分はかなわないのだろう。香也子は腹の底で、、冷静に恵理子を見つめながら、運ばれてきたワンタンに胡椒をふった。香也子は、ひとくち汁をすすって、
「あ、そうそう。ね、お父さん。わたしね、あの時ボーイフレンドができたのよ。お茶席で、わたしの隣に正客になった人」
「!?………」
 恵理子はハッと長いまつ毛をあげて香也子を見た。
「何? ボーイフレンド? お前にはボーイフレンドなど、いなかった筈じゃないか」
「表むきはね。わたしだって三人や五人いるわよ、お父さん。ほら、お姉さんも知ってるでしょ、西島さん」
「西島さん?」
「あら、知らないの? あの人、お姉さんの近所にいて、木工団地に勤めているんですって」
(西島さん……)
 恵理子は、はじめてその名を知った。
「おやおや、あの日にお前、ボーイフレンドまでできたのか」
「できたわよ、お茶をいただいてから、ふたりで頂上まで登って行ったの。あの人、木工団地の家具のデザイナーなんですって。すてきでしょう」
「木工団地のデザイナー? 何ていうんだ」
「だから、西島さんっていったでしょ」
「ああ、じゃ、三K木工の西島君のことかな」
 容一も身を乗り出す。
「そうよ。お父さん知ってるの? 三K木工の西島さんって」
「そりゃ知ってるさ。なかなかいい才能を持ってるらしいぞ。西島君にソファーやテーブルの特注をする金持ち連中がいるからなあ」
 恵理子は、ふっと落ちこむような淋しさを感じた。
「わあ、西島さんって、才能があるのねえ、やっぱり。あの日ねえ、ふたりで、人けのない頂上の小道を歩いて行って……そして、あとはご想像にまかせるわ」
 香也子は愛らしく肩をすくめてみせた。

     九


 今夜も庭つづきの崖の下から蛙の声が賑やかに聞こえてくる。崖下の沢には田んぼがあるのだ。
 ときどき蛙の声が途切れると、神居古潭かむいこたんに向かう山間の国道を通る自動車の音が遠い山鳴りのように聞こえてくる。十五畳のリビングキッチンに、香也子がひとりテレビを見ていた。容一も扶代も、奥の間に珍しく早く引っこみ、台所で章子がパウンドケーキを焼いている。その香ばしい香りが居間にも漂っている。章子の結婚は十月と決まった。パウンドケーキの香りに、香也子は章子がどんなに幸せな思いでケーキを焼いているかを思った。
「香也子さん、パウンドケーキ召しあがる?」
 やがて章子の声がした。
 香也子は、さっきからだらだらとつづいているさぬ仲のドラマを切った。この生さぬ仲のドラマは、継母もやさしければ、継子もやさしい。それが香也子には気にいらないのだ。人間が自分以外の他の者を、どうして愛せるだろうと、香也子は思っている。
 容一が香也子をかわいいといっても、その愛さえも、香也子は信じていない。本当にかわいいのなら、どうして父と母は別れたのかと思う。父と母が別れたのは、つまりは子供より自分がかわいかったからではないかと、香也子は嘲笑したくなるのだ。男と女の愛も信じられない。この世に、いやというほど離婚があり、失恋があるというのに、どうして人々は、愛だの、恋だのと騒ぐのだろうと、香也子は思うのだ。いまは子殺しの時代だという。自分自身の身勝手な都合で、子供さえ殺す。そんな人間に、何が愛だ、何が恋だと、香也子は怒りさえ感ずるのだ。香也子には誰も信じられない。それなのに、いま見たテレビドラマは、継子継母が、お互いに思いやるドラマだ。馬鹿馬鹿しくてテレビを切った香也子に、章子は、
「あら、ごらんになっててもいいのよ」
 と、おずおずという。紅茶と、パウンドケーキをサイドテーブルにおいて、
「うまく焼けたかどうか、わからないけど」
 と、章子は香也子の顔色をうかがう。
「章子さんのつくったものは、おいしいに決まっているわよ」
「あら、うれしいわ」
「だってもう五十本も焼いたじゃない? 五十本も焼けば、馬鹿だっておいしくできるわよ」
 気にさわるドラマを見ていた腹だたしさで、香也子は機嫌がわるい。
 と、その時電話のベルが鳴った。ハッとしたように章子が受話器を取った。
「もしもし、橋宮でございます。あら、政夫さん?」
 とりすました声が、急に華やぐ。
「今日はもうお仕事終わったの? ええ……ええ……わたし? 何をしてたと思って?」
 ちらっと章子は香也子を見た。
「……え? 政夫さんの好きなパウンドケーキよ。明日お届けするわ。……ええ……ええ」
 あとはただ、相槌を打っているだけだ。香也子はパウンドケーキにスモールフォークを突き立てて口にいれた。クルミの香りが口の中にひろがる。
「ハイ……ええ、でも……いえ、それはいいの……ただ、そうはいかない。……え? ……いいえ、香也子さんがいらっしゃるわ」
 章子は声をひそめる。
「ハイ、じゃ、またあしたね、おやすみなさい」
 切ろうとした時、いつのまにか傍にきていた香也子の手が、さっと受話器を奪った。
「もしもし、お兄さん? わたしよ。香也子よ」
 甘い声を香也子は出す。
「ああ、香也子さんですか。いけませんよ、章子さんのそばで電話をしたりしちゃ」
「あら、なあぜ?」
「なぜって……困るなあ」
「どうして? お兄さん。わたしね、折りいってご相談したいのよ」
 香也子はうしろをふり返った。章子は少し離れて立ったまま香也子を見ていた。
「相談て、何ですか」
「こないだねえ、わたし……これ、誰にも内緒よ」
 香也子は声をひそめた。声をひそめても、僅か三、四メートルしか離れていない章子に聞こえぬ筈はない。内緒という言葉に、章子はキッチンに引っこんだ。が、居間とキッチンは、カウンターで仕切られているだけだ。香也子は、その章子に聞かすつもりでいった。
「ねえ、わたしこないだ、ニュー北海ホテルで、お父さんがもとの奥さんと、娘と、三人で食事してるのを見かけたのよ」
 香也子が見たのは、恵理子と容一だけなのだ。
「はあ」
 困惑した声が返ってきた。
「ねえ、お兄さん、驚いたでしょう。それからわたし悩んでるのよ」
「悩む?」
「だって、それがすごく仲よさそうなの。そりゃあ、もとは夫婦だったから無理もないと思うけど、まるでべたべたなの。いったん別れた夫婦なのに、いやねえ」
「そんなお話、ぼくが聞いても……」
「あら、お兄さん、章子さんのこと、そんなに冷淡に考えてるの」
 冷淡という言葉に、香也子は力をいれてみせる。キッチンで身を固くして、香也子の声に耳を傾けている章子の姿を、香也子は感じながら、
「あら、冷淡じゃないって? そうはいわせないわ。だってそうでしょう。もしお父さんが、わたしの母とよりを戻したら、章子さん親子は、この家から追い出されるのよ」
「そんなこと、そこでいっちゃいけません、香也子さん」
「そう、じゃ、どこでお会いしましょう?」
「どこでって……」
 あわてる金井に、押しかぶせるように、
「ああ、やっぱり、車の中がいいかもしれないわね。いつかみたいに」
 ふくみ笑いをして、
「とにかく、わたしお兄さんしか相談する人がないんですもの。いつがいいかしら」
 香也子は、何重もの意味で、その電話を楽しんでいた。

「蛙の声」

   一

「あら、マヨネーズが少し足りないわ。恵理子、買ってきてくれる」
 母の保子が、食器を並べている恵理子に声をかけた。このごろの母の声には、以前にはない張りがあると思いながら、
「ハイ、ほかに何か要るものないかしら」
「そうね、じゃ、ついでに卵も買ってきてもらおうかしら」
「卵ね、おばあちゃんは何かご用ない?」
 陶器の写真集を見ていたツネは、老眼鏡をずらして恵理子を見、
墨汁ぼくじゅうを買ってきてもらおうかね」
 といった。ツネは、手紙はすべて毛筆で書く。
「お茶をする者が、ペンや鉛筆なんかで手紙を書けますかってんだ」
 これがツネの持論である。
 まだ明るい戸外に恵理子は出た。夏至を過ぎたばかりだ。本州は梅雨時だというのに、からりとした日が幾日もつづく。庭隅のテッセンの紫の大輪が、しっとりと美しい。テッセンは恵理子の好きな花だ。その花をとりまく空気が静まっているようで、恵理子は出入りのたびに足をとめる。
 木戸門を出た時だった。不意にギターの音が流れてきた。恵理子が現れるのを待って鳴らしたかのようであった。ハッと息をのんで小川の向こうを見ると、そこに西島にしじま広之ひろゆきがいた。息をつめて、恵理子は西島を見た。あの野点のだての日から、四十日余りもっている。西島は恵理子をじっと見つめながら、ギターを弾きつづける。
 恵理子が立ち去ろうとする時、ギターがやんだ。小さな木片が、ぽいとこちらの岸に放られた。木片は生い茂ったオーチャードの中に落ちた。西島広之は目顔で何かいっている。一瞬恵理子は迷ったが、その十センチ余りの、キャラメルの箱ほどの木片を拾った。木片には、
〈六月二十七日、午後七時、彫刻ちょうこく公園入口にお待ちします。西島広之
 恵理子様〉
 と、書かれてあった。
 恵理子は夜はめったに外には出ない。が、恵理子は西島を見てうなずき、黙礼して、右のほうに歩いて行った。胸が喜びにふるえるようだった。少し行ってふり返ると、西島が大きく片手をふった。恵理子も手をふった。
(わたしの名前をどうして……)
 一瞬いぶかしく思ったが、香也子は西島をボーイフレンドだといっていた。たぶん、西島は香也子から聞いたのであろう。西島という名も、自分は香也子に聞いたのだからと納得した。
 道べのオーチャードがやさしく風にゆれ、小川の音がひそやかだ。
(それにしても、四十日の間、あの人はいったいどうして姿を現さなかったのだろう)
 橋のそばまできて、恵理子は西島のいる土手をふり返った。が、そこからは西島の姿が見えなかった。まばらな家並みの間に、青田が広がって見える。蛙が一つ二つものうく鳴き、そしてすぐに鳴きやんだ。
 買い物をすませた恵理子は、明後日の午後七時、なんといって家を出るべきかと考えながらマーケットを出た。恵理子はさきほどの木片を取り出して見た。かわいい小鳥が巧みに彫られてある。いかにも三K木工のデザイナーらしい繊細な彫りである。それに、丸みを帯びた、感じのいい字がぽつぽつと並べられてある。そっと握りしめながら、恵理子はさっきの道を戻っていく。逆光の中に、家も人も、切り絵のように影が黒い。
(お母さんはゆるしてくれるだろうけれど……おばあちゃんは)
 ツネは、結婚は決して女を幸せにしないといつもいう。
「第一さ、恵理子。このごろの若い者なんか、女みたいに髪を伸ばしてさ、ヘニャラヘニャラと歩いてさ。あんな奴らと結婚するぐらいなら、七十過ぎのほうが、まだ男っぽいからね」
 ツネはそんなこともいう。祖父の女遊びが激しかったこと、保子が離縁したこと、それがいつまでもツネの結婚観をいびつなものにしているのだ。そのツネに、この木片を見せたら、どういうだろう。
「馬鹿にしてるよ。電報みたいな、こんな誘いで、人の娘をつれ出そうなんて」
 ツネの声が聞こえるようだ。だが、恵理子には、このかわいい小鳥を彫った木片が、長い手紙よりも、はるかに真実なものに思われるのだ。
 向こう岸をトラックが二台、ソファーを積んで走り去った。これから本州に向けて出発するトラックなのだろう。
 食事がはじまった。この家に椅子と名のつくものは、恵理子のミシンの椅子だけだ。どの部屋も、全部和室である。
「畳がいいんですよ、畳が。椅子だのベッドだの、どかっと部屋をふさぐなんて、あまり利口なことじゃありませんよ。その点日本間はいいねえ。すわりたい時に座布団を出せばいいし、寝たい時に布団を敷けばいい。さっぱりしてますよ。これがまた、お茶の心にもかなってるしね」
 ツネは誇らしげにいつもそういう。和室で立ったりすわったりしているから、膝のバネが発達して丈夫になるのだともいう。また、ドアというもの、あれは頭の悪い者が考え出したものだともツネはいう。うっかりあけると、人にぶつかったり、ドアのあく分だけ場所を取ると、ツネは笑うのだ。それもそうだと思うことがあっても、若い恵理子には、洋間にベッドやソファーの置かれた生活も、味わってみたいような気がする。
 それでもツネは、元来話のわかるほうなのだ。
「かわいい子には旅をさせろってね。一年に一度ぐらいは、知らない土地に行って、その土地の歴史や人情にふれてみるのも、いいことだよ」
 と、旅費をぽんと出してくれる。ときどきうまい店につれて行って、食べさせてくれることもある。そういう時のツネは話題も豊富で、楽しい祖母なのだ。
 いまもツネは、箸を動かしながら陶器の話を聞かせてくれている。いつも膝をのり出して聞く保子が、今日は、
「そう」
「そう」
 と相槌を打つだけだ。恵理子もさきほどの西島広之との約束が気になって、あまり身をいれて聞いてはいない。そのくせ、保子がぼんやりしていることに、恵理子は気づいていた。と、保子が飯粒を食卓にこぼした。次の瞬間、保子はその飯粒を器用に箸で拾って口にいれた。恵理子はハッとした。保子はまちがっても、食卓にこぼしたものを口にいれたことがない。ツネはその保子に気づかないのか、
「ねえ、恵理子。恵理子も少しは焼き物をやっておいたほうがいいよ。おばあちゃんはね、恵理子に焼いてほしいものがある。なんだと思う?」
「おうすの茶碗?」
「まさか。お前の焼いた茶碗で、お茶を点てようとは思いませんよ」
「まあひどい。何かしら?」
「骨がめさ。骨がめ。おばあちゃんは体が大きいからね、大きめなのを焼いておくれよ。色はうぐいす色でね。つまりお茶の色さ」
「いやねえ、おばあちゃんったら。ねえお母さん」
 保子は、「え?」というような顔をして、
「ほんとね、ほんとにいやだわ」
 と、生返事をした。
 食事が終わった途端、
「保子」
 ぴりりとするようなツネの声だった。
「ハ、ハイ」
「ハ、ハイじゃありませんよ。お前今日、様子がおかしいよ。何かあったのかい」
 正座のまま、ツネは保子を見据えた。
「べつに」
「べつに? そんなことはないだろう。ねえ、恵理子、恵理子も見ていただろう。保子は卓袱台ちゃぶだいの上にこぼしたご飯粒を食べたんだよ」
「まさか」
 保子が驚いた。
「まさか? じゃ、やっぱり、お前は気づかないで食べたってことだね。人の話をうわの空で聞いている証拠ですよ。いったい何を考えていたんだい」
「何って、おかあさん。いやですね……そりゃ誰だって、別のことを考えてることがあるでしょう」
「その別のことが何だいって聞いているんだよ」
「いろいろよ、それは。ちょっとお腹が痛いと思ったり、これは何を食べたからかと思ったり……」
「ごまかしても駄目」
 ツネは何を思ったか、ついと隣の自分の部屋に立って行った。保子は恵理子の耳に、
「お父さんと会ったことは内緒よ」
 と、ささやいた。うなずく間もなく戻ってきて、ツネは手紙をぽいと保子の前においた。
「なんですの? これ」
「見たらわかるだろ」
 と、恵理子のいれたお茶を飲む。
「まあ!」
 差出人は香也子だった。あけて見ると、不揃いな字が目にはいった。
〈おばあちゃん。お元気ですか。わたし香也子です。わたしは今年、もう二十になりました。それで、お茶でも習いたいと思いますけれど、おばあちゃん教えてくれますか。わたしはおばあちゃんの孫だから、まさかいやとはいわないでしょう。わたしはおばあちゃんが好きです。ちょっぴりこわいところがすごく好きです。香也子
   おばあちゃんへ〉
 読んで、保子はほっとした。ホテルで容一と食事をしたことが、ばれたのかと思った。が、それにしても、短大を出たというのに、なんと小学生のような幼稚な手紙であろう。あるいは香也子は、祖母のツネの前に、わざと子供っぽく書いたのかもしれない。しかし、どうしてこの手紙をツネに書いたのか。保子は戸惑った顔をツネに向けた。
「この手紙いつきたんですか?」
「昨日だよ。お稽古に出ようとしたら、ちょうど郵便屋さんがきてね」
「それで?」
「お前にも、こんな手紙か、電話でもきてたんじゃないのかい」
「いいえ、わたしはべつに……」
「そうかい。わたしゃまた、お前にも香也子からこんな手紙でもきたのかと思ってさ。それで思いあぐねているのかと思ったのさ。とにかくね保子、この家は三人水入らずの家なんだからね。わたしには内緒はつくらないでおくれよ。恵理子もわかったね」
 いつものように、ツネの機嫌はすぐになおった。うなずきながら恵理子は、ポケットにあるさきほどの木片に、そっと手をやった。

   二

 恵理子は川田カメラ店に、仕立物のワンピースを届けて、外に出た。夕方の買物通り公園には人があふれていた。通りの真ん中にある大きな花時計の前に、四、五歳の子供と並んで、若い父親がその妻に写真を撮られていた。ベンチには四、五人の老人たちが、何か楽しそうに話し合っている。和やかな風景だ。
 ロバ菓子店の前で、ちょっと考えてから、恵理子はチョコレートを二枚買った。時計を見ると、西島広之と会う時間までにまだ三十分ある。
 恵理子は今日、朝からそわそわしていた。西島広之と会うということが、こんなにも自分の全生活を突き動かすのかと思うと、少し恐ろしいような気がした。いままでと全くちがった生活が待っているような恐れを感じたのだ。が、それはそれとして、なんとしてでも西島に会いたかった。そのためには、口実を設けて外出しなければならない。その口実に、恵理子は仕立物を届けることを思いたった。だから、西島から、あの木片をもらった一昨日以来、ちょうど預かっていたワンピースを縫うために、恵理子は懸命だった。恵理子には、全くの嘘はつけない。ワンピースさえできあがれば、確かに届けるために外出するのだから、嘘にはならない。そう思いながらも、やはりうしろめたかった。
 母にだけは、西島広之からもらった木片を見せてもいいような気がした。が、恵理子はそれも何かためらわれた。それは、香也子の言葉が胸に残っていたからだ。香也子は、あの野点の日、西島と親しくなったといった。
「あの日ねえ、西島さんと、人の誰もいない小道にはいっていって……そのあとはご想像にまかせるわ」
 そういって肩をすくめた香也子を、決して忘れてはいない。あの時恵理子は淋しかった。もう、西島と香也子の間には、はいりこむ余地のない愛が生まれたような気がした。
 が、一昨日の夕方、恵理子にくれた西島の木片と、その時の真剣なまなざしが、恵理子に新しい希望を与えたのだ。
 それでも恵理子は、
(もしかすると、香也ちゃんとのことを相談されるかもしれない……)
 と思ったりもした。西島がなんのために自分に会いたいのか、恵理子にはわからない。それのすべてがはっきりしてから、母に告げてもいいのではないか。
 とにかくいまの恵理子には、あの西島広之と話ができるというだけで、幸せなのだ。この思いだけは、誰に知られなくてもいい、大事に大事に育てたいと、恵理子は思った。
 買物通り公園の真ん中で、若い男女が人垣をつくっていた。中から歌声が聞こえてくる。人垣のうしろからのぞいて見ると、四、五人の若者たちがギターをかき鳴らしながら、フォークソングを歌っていた。
 この買物通り公園は、旭川の楽しいメインストリートだ。駅前から一キロほどのこの通りは、何年か前までは、一日に何万台かの車の走る交通の激しい道だった。それがいまでは、噴水があり、彫刻があり、木馬があり、シーソーがあり、ベンチがある。木立があり、花壇があり、小鳥の家がある。旅人も汽車から降りて歩いてみたくなるような通りだ。
 四条通りを渡ると、人の背丈よりも高い、両手をかたどった彫刻があり、噴水がその指をぬらしていた。まだ約束の時間まで二十分はある。西島広之と会う彫刻公園は、この買物通り公園とクロスしている。あと二百五十メートルほど行ったところだ。
 恵理子は靴屋のショーウインドーをのぞきながら、ふっと笑いたくなった。
 今日、昼食のあと、恵理子はさりげなくいったのだ。
「わたし、今日どうしてもワンピースをお届けしなければならないの」
「おや、どこまでだね」
 アイスクリームをなめていたツネが顔をあげた。
「あのう、川田カメラさんよ」
「川田カメラ? ああ、あのかわいい奥さんのいる店だね。わたしが届けてあげるよ」
 と、ツネがいった。ハッとする恵理子に、
「いいよ、いいよ、ついでだから届けてあげる」
 押しかぶせるようにツネはいう。が、ツネの約束は三時だったので、恵理子はほっとして、
「とてもとても、三時までにはできないわ」
 と逃げたのだった。
 そのことを思い出して、恵理子はいま不意におかしくなったのだ。しかし、今日は口実を設けて出てきたものの、これからたびたび西島と会うことになるとしたら、いったいどのようにして家を出ることができるだろう。いまどき、ツネのような固いことをいう大人は、どこにもいないのではないか。
 そう思うと、恵理子は少し気持ちが暗くなった。
 喫茶店がある。画廊がある。洋品店があり、宝石の店がある。鳩が夕焼け空の下にいっせいに舞いあがり、また降りてきた。
 七条通りで、恵理子は右に曲がった。彫刻公園入口と西島は書いていた。約束の場所に、まだ西島の姿はなかった。恵理子はベンチに腰をおろして西島を待った。若い二人づれが、幾組も前を通る。やがて、向かいの市役所の大時計が、七時二十分を指しても、なぜか西島の姿は現れなかった。

   三

 窓からアカシヤの花の甘い香りがはいってくる。その香りが惜しくて、保子はもう夕闇が漂いはじめているのに、窓も閉めない。居間の電灯の下で保子は芍薬しゃくやく青磁せいじの壺に活けている。ツネは出稽古に、恵理子は仕立物を届けに出て行って、保子一人である。
「帰りは十時ごろになるかもしれないわ」
 出がけにいった恵理子の言葉が、保子はふと気になった。十時ごろまで外出することなど、恵理子には滅多にない。そのことに気づかずにいた自分を、いまになっていぶかしく思う。
(わたしどうかしてるのだわ、このごろ)
 呟く胸に、容一のおだやかな笑顔が浮かぶ。かつて容一の妻であった時には感じられなかった新鮮な愛情が、別れて十年も経ったいまごろになって、こんなにも胸をときめかせている。ふしぎなものだと、保子は活け終わった芍薬をちょっと離れて眺めた。
 切った葉を古新聞にまるめて籠に捨て、洗面所に立って行って、手を洗おうと蛇口をひねった。勢いよくほとばしる水に手を出そうとして、保子はふと思いとどまった。いましがた芍薬を庭で切り、水揚げをした時に、手は充分に洗っている。自分はいま、花とはさみ、そして古新聞にふれただけだ。古新聞といっても、昨日の新聞だ。
 保子は恐る恐る自分のてのひらを見つめた。それを返してふっくらとした手の甲を見る。その手の甲に、保子はおずおずと口をふれてみた。以前の保子には決してできないことだった。保子は、水道の水にさっと手をぬらして、手拭いで拭いた。以前なら、石鹸をつけて痛くなるほど洗ったものだ。
 このあいだ、ニュー北海ほっかいホテルで容一に会った時、容一はいった。
扶代ふよが君よりいいところは、神経質でないことだよ。汚い汚いって、むやみやたらにいわんことだよ。しかし他の点では、君のほうが何もかも優っているさ」
 その言葉を保子は深く心に受けとめて聞いた。
 確かに自分の潔癖は病的だと、保子も思っている。かつて、容一が不意に保子を抱こうとした時など、保子は必ず聞いたものだ。
「あなた、手はきれい? 体はきれい?」
 興ざめした容一が、くるりと背を向けて、むっつりと寝こんだ姿を保子は思い出す。容一を扶代に追いやったのは、とにかく病的な自分の潔癖さのためだった。いま容一を取り戻すためには、これをめなおさねばならない。その努力を、保子はこのごろ、かなり意識して努めているのだ。
(扶代さんと橋宮の間には、子供がいないんだもの)
 いま、章子が結婚すれば、それで扶代の母としての勤めは立派に終わる。しかし、自分と橋宮の間には、恵理子と香也子の二人がいる。この二人を、実の両親が揃った家庭から嫁に出したいと、保子はこのごろ本気で考えている。理屈にもならぬ理屈だが、保子としては大まじめなのだ。
 容一との間に十年の空白があったことが、二人の再会を新鮮なものにさせていた。小料理屋で会って以来、もう三度、保子は容一と会っている。会うたびに容一は、そっと保子のももの上に手をおいたり、肩をさりげなく抱いたりする。そして、
「別れるべきじゃなかったな、おれたちは」
 と、そのたびにいうのだ。
 保子は、高砂台たかさごだいの丘に新築したという容一の家を知らない。おい小山田おやまだひとしから、その豪壮な邸宅の様子は聞いている。
「叔母さん、一度行ってみな。高砂台一大きな家を探せば、それが叔父さんの家だから。何せ今年はね、庭にプールをつくるんだってさ。それと、吹きぬけの、六畳ほどの小鳥の部屋をつくるんだってさ。馬鹿馬鹿しい。沢におりたら、きれいな流れはあるし、あの丘は小鳥の楽園だのにね。しかしそれもこれも、かわいい香也子姫の所望とあらば、いたしかたがござらぬというところさ」
 香也子のためにプールをつくってやるのも、小鳥の部屋をつくってやるのもいい。しかし、その豪奢な邸宅の主の妻が、この自分ではなくて扶代だということが、保子はどうにも承服し難い思いになってきているのだ。
 自分で勝手に出て……という思いもないではないが、容一に会うたびに、保子は一度捨てた妻の座を、なんとしてでも奪い返したい思いが強くなっている。
 活け終わった壺を、玄関にしつらえた小さな床に保子は運んで行った。壺と同じ青いきものが、保子の白い肌によく合っている。もう一度確かめるように花を見つめて、満足げにうなずいた時、いきなりからりと玄関の戸があいた。

   四

「あら……」
 ツネかと思って「お帰りなさい」といいかけた保子は、ハッと息をのんだ。ピンクのスーツを着た香也子が、ニコッと笑ってはいってきた。スイトピーの花のようだ。あの野点の席にきた時の険しさはどこにもない。
 声とも息ともつかぬ声で、保子はまじまじと香也子を見つめた。
「お晩です」
 子供っぽく、ぴょこりと頭を下げて、香也子は母の保子を見た。
「香也ちゃん、あんた……」
 思わず保子は手をとった。小さな手が保子の手の中に頼りなく包まれた。
「一人で?」
 香也子は大きくうなずいた。五、六歳の幼女のようなうなずき方だった。
「よくきたわねえ、香也ちゃん」
 一瞬保子は、上げるべきか否かと迷った。祖母のツネがそろそろ帰る時間なのだ。香也子からツネ宛に、茶を習いたいという便りがきていたとはいうものの、それに対して、ツネは必ずしも歓迎するとはいっていない。
 いや、それだけなら保子は迷わなかった。いますぐツネが帰ってきたとしても、すでに便りがきている以上、ツネは強くとがめることができないにちがいない。保子がためらったのは、容一と恵理子がニュー北海ホテルで会い、その場に自分も行っていたことを、香也子に知られているからだ。
 香也子は、そのことがツネには内緒だということを知らないはずだ。うっかり口をすべらせたならば、必ずツネは、激しく保子をののしるにちがいない。
「うちは三人水入らずなんだからね、内緒だけはしないでおくれよ」
 ツネは、そういって今日も出かけたのだ。保子は覚悟を決めていった。
「本当によくきたわ、香也ちゃん。さ、お上がんなさいよ」
「いいんですか、はいって?」
 香也子はニコッと笑った。その笑顔の中に、別れた十歳の頃の香也子の面影が鮮やかによみがえった。保子は涙声になって、
「いいですとも、香也ちゃん……ここは、あんたの……お母さんの家じゃないの」
 手をとられるままに、香也子は保子に従った。
「きれいね、ずいぶん」
 香也子はぐるりと居間の中を見まわした。水彩の旭岳あさひだけの絵が壁にかけてあるだけの、すっきりとした和室だ。香也子の家のように、ソファーもなければ、花瓶や人形を飾る飾り棚もない。カラーテレビはあるが、香也子の家のものよりずっと小さい。が、いかにも掃き清め、拭き清められたというこの部屋に、香也子は記憶があった。それは、幼い頃のわが家のふんいきと同じだった。家の中すべて、どの部屋も、空気さえ張りつめておかれてあるような、そんな感じの清潔な家。香也子は黙って保子を見た。幼い頃のあの家に、姉の古着を着た自分の姿が甦った。それは、驕慢きょうまんな香也子には、屈辱的な思い出だった。
 まじまじと保子を見つめながら、香也子はたちまち空々しい気持ちになった。母を全く懐かしくなかったのではない。母が恋しくてしくしく泣いたことも、この十年間には幾度もあった。今日も、ここを訪ねるまで、どんなに保子が懐かしかったことだろう。
「あんな母さんに会いたくない」
 この十年、幾度この言葉を口に出してきたことか。口に出すたび、本当に自分は、自分を置いて行った母には決して会うまいと思ってきた。それが今日は、むやみに懐かしかった。
 今日の夕方、早めに食事を終えた扶代と章子は、キッチンで大きな声で話していた。居間のソファーにすわって、香也子はその話を聞いていた。
「どの服を着て行くの、章子」
「服じゃなくて、きもの着たいのよ、お母さん。このあいだつくったひとえの……ね、いいでしょう、お母さん」
「ああきもの、それはいいわね」
政夫まさおさん、笑わないかしら」
「喜びますよ。章子はきものが似合いますよ。気性がおとなしいから」
「そう、うれしいわ」
 章子はうきうきといい、
「じゃわたし、顔を洗うから、お母さんきもの着せてね」
「ハイハイ、耳のうしろをよく洗うのよ」
「うん。ね、お母さん、政夫さんにパウンドケーキだけでいいかしら?」
「いいでしょう。パウンドケーキはお前の手づくりだから、お母さんはそれだけでいいと思うけどね」
 夕食の後片づけを終わった二人はキッチンを出て行った。容一の用事で、お手伝いの絹子きぬこは外出していた。ソファーにすわっていた香也子の耳に、いまの二人の、ごく当たり前の会話が、ひどく羨ましく思われた。
 章子は、一日に幾度となく「お母さん」といい、扶代もまた章子に対する時、自分自身を「お母さん」という。香也子には決して呼ぶことのできない「お母さん」という呼び名が、二人の間では、ふんだんに使われているのだ。
(わたしにだってお母さんはいる)
 香也子は台所に行って、冷蔵庫をあけた。昨夜焼いたパウンドケーキが、アルミ箔に包まれてはいっている。素早くそれをつかむと、香也子は自分の部屋に駆け上がり、ピンクのスーツに着かえて外にとびだしたのだった。
 パウンドケーキをつくったのは章子だが、家の中のすべてのものは容一のものだ。このケーキを金井政夫にやるぐらいなら、自分の母の保子にやったほうがいい。そう思って、香也子は持って出たのだ。
 だが、いま目の前に見る保子は、自分の母でありながら、もはや自分の母ではなかった。
「どの服を着て行くの、章子?」
「お母さんきもの着せてね」
「耳のうしろをよく洗うのよ」
 扶代と章子の会話を、香也子は思った。あのなんのこだわりもない会話は、自分たち母と子にはすでに失われたものだった。
 離れていた十年の歳月は長過ぎた。母でありながら、母としてなじむことのできぬ違和感が、いま、香也子の胸に次第に広がっていた。その違和感は保子の側にもあった。離れていては、いいようもなく愛らしい香也子なのに、こうして面と向かうと、そのどこかに拒絶を感じた。それは、香也子が保子に感ずるよりも、ずっと少なくはあったが、しかし違和感にはちがいなかった。
「ほんとに、大きくなったわねえ」
 しみじみと眺めながら、香也子の生まれた夜のことを、保子は思い出す。香也子の泣き声は、生まれた時から妙にかん高かった。恵理子とはちがっていた。そのかん高い泣き声が、保子の疲れた耳に、いつも突き刺さるように感じたものだ。保子はそのことに、いまもうしろめたさを感じている。
 そんなことを思い出させる何かが、香也子にはあった。保子はやはりホテルで会ったことは、ツネにいわないように香也子に口どめすべきだと思った。
「あのう……」
 いい出そうとした時、香也子が尋ねた。
「おばあちゃんは、いないんですか」
 ひどく乾いた語調だった。何年ぶりかで、母に向かう子供の声ではなかった。
「ああ、おばあちゃんねえ、もうじき帰るはずよ。お稽古に新町まで行ったの」
「お元気なんですね。出稽古って、おいくらなんですか」
 保子はちょっと目を見張った。見知らぬ女の子と話しているような気がした。
「さあ、わからないけど……香也ちゃん、おばあちゃんにお弟子入りしたいって、お便りくれたわねえ」
「ええ。でも、わたし、月謝を払わなければならないのでしょう。おいくらかしら」
 どうしてこの子は金のことばかりいうのかと、保子は淋しかった。
「ね、香也ちゃん、そんなこと気にしないでいいのよ」
「え? じゃ、ただにしてくれるの?」
「何をいってるのよ。あなた、おばあちゃんの孫じゃありませんか」
「そうよねえ、わたしもそうは思ったんだけど。でもあのおばあちゃん、ちゃっかりしてるでしょ。わたしからだって、お月謝取りそうな気がしたの。でも、こんなこといったなんて、内緒よ」
 茶目っぽく笑って、目をくるりとさせた香也子に、
(ああ、よくこんな顔をしたものだった)
 と、またしても保子は胸を揺さぶられる。
「ねえ、香也ちゃん。こないだホテルで恵理子に会ったんだって?」
「会ったわ。それがどうかしたんですか?」
 不意に断ち切るようないい方をする。話の接ぎ穂に困っていると、
「ねえ、わたし、昨日、うちでばらしたの」
「え? ばらした?」
「そうなの。お父さんが、こっちのうちと食事をしていたこと、あのつれ子の章子さんの前で、いってやったの。わたし、胸がスーッとしたわ」
「まあ! どうしてそんなことをいったの」
「どうしてって、わたし、つまらないんだもの。あの人たちの幸せそうな顔を見ていたら、何かいらいらしてくるの」
「そんなこといっちゃいけないわよ、香也ちゃん。人の幸せを願わなくちゃいけないと思うわ、お母さんは」
 冷蔵庫から苺を出してきた保子は、母親らしくたしなめた。
「へえ!? 人の幸せを願わなくちゃいけないって?」
 不意に香也子は皮肉な微笑を浮かべた。口がゆがんでひどく意地悪な表情になった。
「そうよ香也ちゃん、人の幸せを願わなくっちゃ……」
「そう、じゃあ、わたしの幸せを願って、置き去りにして出たというの」
「香也ちゃん!」
「そしてお父さんの幸せを願って別れたというの?」
「…………」
「人の幸せを願うって、つまりそういうことをすればいいのね。わかったわ、そのとおりにするわ。誰の間でも引き裂けばいいんでしょ、結局は」
 鼻先で香也子は笑っていた。
「香也ちゃん……」
 保子はうなだれた。まだ自分の胸ほどの背丈だった十歳の香也子が、いつのまにこんなにしたたかな娘に変わってしまったのだろう。いつか恵理子の新しいスカートをずたずたに切り裂いた香也子を、不意に保子は思い出した。
「香也ちゃん、お母さんが悪かったわ。でもそれにはわけがあったのよ」
「そりゃあ、わけがあったでしょ。わけも何もなくて、べろっと出て行く馬鹿はないわ。でもね、出て行ったほうにはわけがあっても、置き去りにされたわたしには、なんのわけもないのよ」
「…………」
「自分勝手よ、生んでおいて、途中で放り出して! わけがあったのよもないわ。わたしの一生は二度とくり返せないのよ。何よ、少しぐらいのこと我慢できずに、人の幸せを願わなければいけないわなんて、馬鹿にしてるわ」
「香也ちゃん……香也ちゃん。お母さんが悪かった。なんといわれても仕方がないわ」
 いい終わらぬうちに、玄関の戸があき、ツネの声がした。

   五

 ツネの声を玄関に聞いた保子は、ハッと香也子を見つめた。いまいったばかりの香也子の言葉が、がんがんと耳に鳴る。
「自分勝手よ、生んでおいて、途中で放り出して! わたしの一生は二度とくり返せないのよ」
 いきり立っている香也子は、恵理子と自分が、容一とホテルで食事したことを、必ずやツネに告げるにちがいない。色を失っておろおろと立ち上がった保子より先に、香也子はパッと立ち上がった。
 と、玄関に飛び出して行き、
「おばあちゃん、わたし香也子よ」
 と、下駄箱に草履をしまったツネの肩に抱きついた。
「香也子!?」
 抱きつかれて、よろけそうになりながら、ツネは驚きの声を上げた。
「そうよ、香也子よ。会いたかったわ、おばあちゃん」
 半泣きになって香也子はしがみつく。ツネは目をくもらせながら、香也子の背をなで、
「よくきた、よくきた、大きくなったねえ」
 と、やさしく香也子を抱きよせた。
「おばあちゃん、手紙を見てくれた?」
 二人はもつれあうようにして、居間にはいってきた。
「ああ、見たとも見たとも」
「じゃ、お茶を教えてくれるのね」
「それがだよ……ま、ちょっとお待ちよ。だけど、ほんとに大きくなったねえ、こんなに小ちゃかったのに」
 ツネは自分の腰あたりの高さを手で示し、
「保子、やっぱり血を分けてるって、かわいいもんだねえ」
 と、いつにないことをいう。
「ええ、そりゃあ……」
 保子はおろおろとして、答えもできない。
「おばあちゃん、お久しぶりです」
 居間にすわって、香也子は行儀よく両手をついてお辞儀をした。
「ほんとにねえ、よくきたねえ。十年たったんだものねえ」
 保子はハラハラとしながら、
「お母さん、ご飯にしますか」
 と、ツネを盗み見る。
「あ、ご飯はいいよ。五十嵐さんでおすしをいただいてきたから」
「じゃ、着更えたら」
 帰宅したら、すぐに着更えるのがツネの長年の習慣だ。が、ツネは首を横にふって、
「香也子がきたんだもの、ま、落ちついて……何かい、苺しかなかったのかい? 確かお干菓子があったはずだよ」
 と、改めて香也子の顔をまじまじと見た。
「ね、おばあちゃん、わたし、なにもいらないわ。胸がいっぱいなの。いまね、わたし悲しかったのよ、せっかくお母さんのところにきたのに……」
 と、香也子は保子を見た。保子はひやりとした。
「お母さんったらね、おばあちゃん。お前はこの家に出入りしちゃいけないって。もうお父さんとお母さんは別れたんだから、おばあちゃんにお茶なんか習っちゃいけないって、わたしを帰そう帰そうとするのよ」
 保子は驚いて香也子を見た。そんな話をただの一度もしていない。が、香也子がそういってくれると、保子の立場が救われる。
「……そうかね……」
 ツネは何か考えているようだったが、
「香也子、大人の世界って面倒でねえ。そりゃあねえ、こうやっておばあちゃんのところにきてくれたら、おばあちゃんだってうれしいよ。でもね、お母さんとお前のお父さんは、十年も前に別れたんだからね。それに、お父さんがまだ独りならともかく、あとにもらった人がいる以上……お前をここに出入りさせては、どんなものかねえ」
「おばあちゃん、そんなこといっちゃいや。わたし、お母さんの子供なんだもの、そしておばあちゃんの孫なんだもの。そりゃあお父さんとお母さんは別れたかもしれないけど、わたしはお母さんと別れた覚えはないのよ」
「そりゃあそうだ。しかしねえ……」
 香也子はにじりよると、ツネの膝をゆすって甘えるようにいった。
「お姉さんばっかり、おばあちゃんやお母さんと一緒にいられて、わたしばっかり他人の中にいるなんて、不公平じゃないの、おばあちゃん」
「他人の中といったって、お父さんがいるじゃないか」
「お父さんなんか、朝出たら、夜まで帰ってこないの。昼は、わたし他人といるのよ。あの親子は、二人でばっかり仲よくして、わたしいつも、しょぼんとしているのよ」
「ほんとかね」
「ほんとうよ、おばあちゃん。女三人いて、そのうち二人がほんとうの親子で、わたしだけ血がつながっていなけりゃ、他人扱いにされるのは当たり前でしょ」
 香也子は目に涙を浮かべた。
「なるほどねえ」
「ね、おばあちゃん。もう一度、お母さん、橋宮の家に帰ってこない?」
「そりゃあ、無理だよ香也子。猫の子じゃあるまいし、そう簡単に出たりはいったりできないからねえ」
 香也子は素直にうなずいて、
「それもそうね。だったら、わたしをこの家においてくれない?」
「お前、そんなにあの家がいやかい?」
「いやよ、冷たい氷の家みたいなの。わたし、おばあちゃんに抱かれて眠りたいわ。おばあちゃんはお父さんより、ずっと頼り甲斐があるみたい」
 香也子の言葉を、保子は舌をまいて聞いていた。自分が腹を痛めて生んだ子ながら、得体の知れない人間のような気がした。こんな香也子にいったい誰がしたのだろう。自分に置き去りにされた香也子の十年間に、保子は重い責任を感じた。
「どうしたもんだろうね、保子。かわいそうにねえ。よほど思いあまってきたんだろうからねえ」
「そうよ、おばあちゃん、わたしをここの家の子供にしてくれない? わたしここの家の子供なんだもの」
 保子の答えるより早く香也子がいった。
「そうしてやりたいのは山々だけれどねえ」
「じゃ、お茶だけでも教えてくれない?」
「それはいいよ。いいけれど香也子、お前、ますますいまのおっかさんにいじめられやしないかい?」
「いいの、いじめられても。ここにくれば楽しいでしょ。楽しい日が月に何日かあれば、わたし耐えて行けるわ」
 ひどく健気な言葉に聞こえた。
「どうしようかねえ、保子。お前黙ってばかりいないで、なんとかいったらどうだね」
「お母さん、お母さんはわたしの思ったとおりにさせてくださるの?」
 保子はようやく落ちつきを取り戻し、皮肉な微笑を浮かべた。
「そりゃお前……」
 ツネは平生いっていることとちがう自分に気づいて、笑ってごまかした。ツネはよくいうのだ。
「香也子と会ったりしちゃいけないよ。香也子と会ったりしているうちに、必ず橋宮とよりを戻すんだから」
 笑ってごまかすツネに、保子はいう。
「お母さん、わたしは何より香也子の気持ちを大事にしてやりたいと思います。お母さんさえその気になってくだされば、お茶ぐらい教えたっていいじゃありませんか」
「そうだねえ……ま、少し考えてみようかねえ。お茶はとにかく、香也子、時々は遊びにきてもいいよ」
「うれしい!」
 叫んで、香也子はツネに抱きついた。
 帰りぎわに香也子は、パウンドケーキを差し出していった。
「これ、手作りなの。おばあちゃん、お母さんやお姉さんと一緒に食べてね」
 ツネは目をうるませた。

   六

 章子は着物に着更えて、キッチンの冷蔵庫をあけた。卵やチーズやバターが整然と並んでいるだけで、確かにさきほどあったパウンドケーキがない。テーブルの上に出したのかと思ったが、テーブルにもない。
「戸棚の中かしら?」
 独り言をいいながら、戸棚をあけてみた。が、そこにもない。もしかしたら、自分の部屋に持って上がったのだったかもしれないと、章子は自分の部屋に戻って電灯を点けてみた。が、八畳の章子の部屋はきれいにかたづいていて、畳の上にも、片隅の朱色の文机ふづくえの上にも、桐のタンスの上にも、鏡台の上にも、パウンドケーキらしいものはない。
 再びキッチンに行くと、いましがた使いから帰ったばかりのお手伝いの絹子がいた。
「あのう……絹ちゃん、わたしのつくったパウンドケーキ知らない?」
「パウンドケーキ? 昨夜から、冷蔵庫にはいってましたけど……」
 いぶかしげに答える絹子に、
「それがないのよ。確か、さっきまであったと思うんだけど……」
「じゃ……」
 わかったというような表情で、
「香也子さんじゃありませんか」
 と、絹子は声をひそめた。
「まさか」
 打ち消したが、実は章子も、内心香也子ではないかと疑っていた。
「でも……香也子さんは、わたしが今日パウンドケーキを金井さんに持って行くこと、知ってるのよ」
「知ってらっしゃれば、なおのことですよ、章子さん。香也子さんのお部屋に行ってごらんなさい」
 まだ誰も、今夜香也子が外出していることを知らない。章子は、あるいは香也子がいたずらをしたのかもしれないと思ってみた。ちょっとためらったが、章子は思い切って香也子の部屋に上がって行った。
 ノックをしたが返事がない。香也子は時々返事をしないことがある。章子は少しきっとなってドアをあけた。電灯が点けっ放しになっていて、部屋に香也子の姿はなかった。鏡台の前のジュータンに、ちり紙が一枚落ちていた。章子はドアをしめた。
(やっぱり香也子さんだわ)
 香也子がパウンドケーキを持って外出したにちがいないと、自分の部屋に走った。部屋にはいると戸をしめて、章子は文机の前にぺたりとすわった。そこに扶代が顔を出し、
「あら、どうしたの、まだ行かなかったの?」
「お母さん、パウンドケーキがないのよ。香也子さんがいないのよ。きっとあの人が持って行ったのよ」
 ふだんに似合わぬけわしい顔で章子はふり返った。
「章子、そんな……」
 娘の表情に驚きながらも、扶代はおだやかにたしなめながら傍にすわった。
「いいえ、そうよ。あの人はそういう人よ。あの人は、意地悪をすることに喜びをもって生きている人なのよ。そのくらいのこと、お母さんだって、とうにわかってるでしょ」
「そんなこといっちゃ、章子らしくないわ。香也ちゃんは香也ちゃんで、淋しいこともあるのよ。パウンドケーキの一本や二本、いいじゃないの、章子」
「いいえお母さん、よくないわ。あのケーキは、わたしが政夫さんのために、心をこめてつくったのよ。わたしの心なのよ。そのことは、香也子さんだって、よく知ってることよ。知っていて持ち出したことは……」
「持ち出したかどうか、まだわからないことじゃないの、章子」
「いいえ、あの人に決まってるわ。パウンドケーキがひとりでなくなるわけがないじゃないの。とにかくそんなひどいことをする人は、この家にあの人しかいないわよ。わたしもう、我慢ができないわ。ね、お母さん、この家を二人で出ましょうよ」
 青ざめた顔を、章子は必死になって扶代に向ける。
「章子! この家を出るなんて……」
「わたしはもう、一日もいやよ。お母さんはどうしていやじゃないの。あんな小娘に見下げられて、なめられて、意地悪されて、それで何がうれしいの」
 口がひくひくとふるえる。
「章子、気を静めなさいね。お前はもう、半年もしないうちにお嫁に行くのよ。出るも出ないもないじゃないの」
「いやよお母さん、わたし、もう一日も我慢ができないわ。こう思ったのは、何も今日がはじめてじゃないわ。わたしあの人に、意地悪をされどおしよ。わたしのほうが年上よ。なぜじっと我慢していなければならないの。お父さんとお母さんは、立派な夫婦じゃないの。何も、変に遠慮することなんかないわ」
 扶代は淋しく笑って、
「もう少しの辛抱よ。香也ちゃんだって、そのうちにお嫁に行くわ。そうしたらお父さんとお母さんの二人だけになるんだもの。何もあわててこの家を出て行くことはないのよ」
「…………」
「章子だって、ここにいれば橋宮家の娘として、立派にお嫁入りできるのよ」
「お母さん、わたし、橋宮家の娘でなくて結構よ」
「そんな無茶な……お仕度だって、お父さんが立派にしてくれるじゃないの」
「きものや道具なんて、わたしいらない」
 章子の声がうるんだ。
「そんなこといわないで、ね、機嫌をなおして金井さんのところへいらっしゃい」
 章子は時計を見た。約束の時間まで、まだ十五分ある。
「お母さん、お母さんは何も知らないからそんなのんきなことをいってるのよ」
 思い切ったように章子はいった。
「何も知らない? なんのこと、それ」
「…………」
 章子は唇を噛んだ。昨夜香也子が、金井政夫にかけていた電話を、母に告げるべきかどうかと迷った。
「ね、何も知らないって、どんなことなの?」
 おだやかだが、気がかりな表情でいう。章子は顔をあげ、じっと扶代の顔を見つめながら、
「お母さん、昨日ね、香也ちゃんがひそひそと、金井さんに電話をかけていたわ。あのね、お母さん。お父さんがね、別れた香也ちゃんのお母さんやお姉さんと、楽しそうに食事をしていたっていうことよ」
「まさか、お父さんはそんな人ではありませんよ、章子」
「でも、お父さんだって人間よ。香也ちゃんはそのことで、金井さんに相談があるとかなんとかいってたわ」
「そんなこと、でたらめよ。香也ちゃんは時々、心にもないでたらめをいうからね」
 いいながらも、扶代は少し不安げにまばたきをした。
「でも、そこまで嘘をいうとは思わないわ」
「でもね章子、お父さんはこの十年の間、いっさいあちらの家とは縁を切っていたのよ。それをいまになって……」
 扶代は、寝物語に容一から聞かされた保子の潔癖ぶりを思い出した。
「全く、あんな女はかなわないよ。息がつまりそうだ。何せ、便所から出たら、十分も二十分も手を洗ってる奴だからな。それにくらべると、お前は全く心の安まるいい女房だ」
 容一はそういいつづけてきたのだ。第一、外食もろくにできぬほどの潔癖な保子と、そう簡単に食事などできるわけがない。扶代はそう思って安心した。
 章子は化粧をなおして、和服姿を鏡に写し、バッグを持って立ち上がった。が、うしろをふり返って扶代にいった。
「お母さん、どうして奥さんのいる人となんか、仲よくなってしまったの。どうして死んだお父さんだけのことを考えて、わたしと二人だけで暮らしていけなかったの?」
 きびしい語調でいい捨てると、章子はさっと廊下に出た。

   七

 母の保子の家を出た香也子は、ひとりくすくすと笑った。章子の手作りのパウンドケーキを、自分の手作りのようにいって祖母のツネに渡すと、ツネは目尻に涙をためて喜んだのだ。
(大人なんて、甘いもんだわ)
 香也子はアカシヤの花の匂う夜道を、小川に沿って歩いて行く。川向こうの工場に夜業の灯があかあかと美しい。一本立った水銀灯が小川の中に青くゆらめいている。
(これでお母さんの家にも、大威張りで出入りできるわ)
 要するに、あの頑固な祖母を懐柔すればよいのだと、香也子はひそかに笑う。
 それにしても、母の保子を香也子は許せない気がした。わが子の幸せよりも、自分のことばかり考えていると思う。
(何よ、子供を捨ててって)
 今夜は、ホテルでの会食のことはツネには告げ口しなかった。が、いつかは必ず母を窮地に追いやってやるのだと、香也子は心に決めた。今夜の保子にくらべれば、義理の母の扶代のほうが、説教めいたことをいわないだけに香也子にとってははるかに快い存在だ。
 人通りのない夜道を、バス通りに向かって、香也子はゆっくりと歩いて行く。まだ九時半だ。香也子は心のたかぶりを静めるように川に沿って歩いて行く。
(章子の奴、きっと怒ってるわ)
 フィアンセの金井政夫のためにつくったパウンドケーキを、香也子が持ち出したといって、怒っている章子を思うと、香也子はうれしくなった。いつも控えめに、おだやかに、なんの表情も見せない章子を、香也子は憎んでいた。それは章子が表情を顔に表さないからか、母の扶代といつもむつまじく暮らしているからか、香也子はわからない。その両方に香也子は腹を立てているのかもしれない。とにかく、人を怒らせることは、香也子にとって楽しいゲームであった。
 自分の言葉が、相手の胸に針のように刺さるのが、何よりも香也子を溌溂はつらつとさせた。自分という人間がいるために、他の人間が不幸になる。そのことが香也子のいちばん大きな喜びなのだ。香也子自身が幸せでないのに、他の人間が幸せであるというのは、香也子にとって許せないことだった。
 二百メートルほど歩いた時だった。人通りのない道に黒い二つの影がはいってきた。香也子はハッと立ちどまった。香也子はさりげなく、左手の家の車庫の陰にかくれた。その香也子には気づかずに、二つの影は近づいてきた。香也子は息をひそめて、道を行く二人を見守った。やはり恵理子と、そして西島広之だった。
「ぼくにはその気持ちわかるなあ」
 西島の言葉が、香也子の神経を逆なでた。とっさに香也子は、二人のあとを尾けようと思った。あと二百メートルほどで、恵理子の家だ。そこで二人は別れるだろうか。
(きっと、まだまだ二人で歩くつもりだわ)
 香也子は腹だたしげに舌打ちをした。
「あなたの気持ちはよくわかるなあ」
 そんなことをいってくれる男性など、香也子にはいない。たいていの男性は、
「君の気持ちは分からない」
 と、必ずいう。だから、いまの一言は、香也子にとっていいようもなく腹だたしいものだった。
(人の気持ちなんか、わかるはずないわ)
 香也子はそう固く信じている。口と腹の中がちがうのが人間ではないか。父の容一にしたってそうだ。
「香也子は目にいれても痛くない」
 などといいながら、陰でこっそり、別れた母や姉と食事をしている。つまりは、口ほどに自分を愛してはいないのだと思う。
 香也子は二十メートルほど離れて、ひっそりと恵理子と西島のあとを追った。二人はむつまじげに肩を並べて歩いて行く。二人は黒住教の社殿のある角にきた。二人が立ちどまった。香也子も立ちどまった。あそこで西島は左に橋を渡り、恵理子はまっすぐ歩いて行くつもりだろうか。
 西島が腕時計を見たようだった。と、二人は右手に折れた。
(やっぱり……)
 香也子は急ぎ足になった。香也子はむらむらとした。いまごろ、章子も金井政夫とどこかで会っているはずだ。そして恵理子も、西島広之と楽しげに歩いて行く。香也子にはそれが許せなかった。
 平生、香也子は、自分から求めて恋人をつくりたいという願いはなかった。男と女が愛し合うということは、香也子には納得のできないことだった。他の恋人たちの姿を見ていると、いつのまにか別れたり、捨てられたり、また次の相手ができていたりする。そんな姿を見ていると、まじめに人を愛する気など、香也子には起こらなかった。
 だがそのくせ、自分の友だちや身近な者が愛し合っているのを見ると、なぜかむらむらとして、その男を奪いたくなるのだ。つまり、自分からは人を愛さないが、人のものを見れば、むやみに取りたくなるのだ。
 そしてそれは、奪うだけが目的だった。奪いさえすればいいのだ。二人の仲を引きさきさえすれば愉快なのだ。あとあとまでその男を自分のものにしたいなどと、つゆ思ったことがない。
 高校時代も、短大時代も、香也子は何人かの友人の恋愛を引きさいてきた。それは必ずしも相手の男と知り合う必要はなかった。香也子は友人のところに、声色を使って電話をかけた。
「わたしという女がいるのよ。あの人と親しくすることはやめてください」
 そんな電話を二、三度かければ、友人たちはたいてい、相手の男性を疑って悩みだす。それを見ると香也子は腹を抱えて笑いたくなるのだ。
 また、こういう手を使うこともあった。
「あなたの彼氏、すてきな人と歩いているのを見たわ。気をつけるといいわ」
 この一言で、友人たちは顔色を変える。するとふしぎにその愛は壊れていくのだ。いまの時代、恋人以外の女友だちをもっていない男はいない。だから、すてきな女性と歩いていたという言葉は、決して香也子の嘘にはならなかった。
(人間と人間とのつながりなんて、もろいものだわ)
 香也子はそう思っている。たった一、二度の中傷で、お互いの間に亀裂が生ずるのだ。それは見ていて呆気ないほどだ。愛とか信頼とかいう言葉は、香也子の辞典にはなかった。
 いま、夜の児童公園の中にはいって行く西島と恵理子の姿を追いながら、香也子の目は獲物を狙う鷹のように光っていた。

   八

 香也子があとを尾けているなどとは、恵理子も西島も、夢にも思わない。西島は今日、約束の時間より四十分も遅れて、彫刻公園にやってきた。それまでの間、恵理子はじっとベンチにすわって待っていたのだ。恵理子は、たとえ西島がこなくとも、二時間は待つつもりだった。約束を西島が反故にするとは思えなかったからだ。
 人生には思わぬ障害が突如として発生すると、恵理子は思っている。自分の人生ひとつ考えても、父母の離婚は想像もしなかったことだ。そのように、想像もしなかったことが、突如として行く手に立ちふさがる。これが人生なのだ、と恵理子は考えている。
 毎朝テレビの番組を見ていてさえ、恵理子はふっと疑問に思うことがある。このプログラムどおりに、分秒たがわず一日が過ぎるということが、奇怪に思われるのだ。突如として大事件が起こり、このプログラムさえ変更になるということはいくらもあるはずだ。ましてや自分たちの毎日の生活が、必ず予定通りに進むなどとはいえないはずなのだ。
 恵理子にしても、今日仕立てあげるはずのドレスが、明日になることはいくらでもある。母に思わぬ用事をいいつけられたり、突然の来客があったり、意外に体が疲れたりすることがあるからだ。
 西島広之は会社勤めだ。会社の仕事が、いつどんなふうに変更され、時間どおりに帰れなくなるかわからないはずだ。そのうえ、交通事故ということもあるし、身内に突然病人が出ることもある。
 とにかく、西島が約束を反故にしたとは思えない。そう思えば、恵理子は何時間でも、そこで待っていることができた。その場から立ち去ることは、西島を信じていないようで、恵理子にはできなかった。
 一度も話し合ったことはなくても、恵理子には西島を信ずることができた。川を隔てた向こうにいる西島と、初めて顔を合わせた日から、なぜか恵理子には西島は信じ得る男性であった。そして、西島が約束の日時を書いてほうってくれた木片に丹念に彫られた小鳥の形にも、西島の真実が現れているような気がした。
 約束の時間より、四十分過ぎて駆けつけた西島は、そこに恵理子の姿を見て、感動していった。
「まだ待っていてくれたんですか」
 西島は案の定、突然仕事のことで社長の相談を受け、時間までにくることができなかったのだ。
 二時間は待つつもりだったと聞かされた西島は、
「そうですか、そういう人がこの世にいるとは、ぼくは想像もしませんでしたよ」
 と感嘆した。西島の遅刻は、かえって二人の心を急速に近づけた。
 今夜二人は、街でお茶を飲み、お互いの家庭のことや仕事のことなどを語り合った。が、話題の中心は香也子の問題だった。香也子が、旭山あさひやまでの茶会のあと、西島に頼んだのだ。
「お姉さんとわたし、昔どおり仲よしにさせてください」
 それを西島から聞いた時、恵理子はいった。
「まあ! そんなことを初めての方におねがいしたんですか。でも、もう香也子とはもとどおりの仲になれると思いますわ」
 ホテルで会った時の事を恵理子は告げた。
 いま、二人はまた、話を香也子のうえに戻していた。
「あの子は、人なつっこいでしょう。あなたに何かご迷惑をおかけしなかったかしら?」
「そんなことはありませんよ」
 答えながら西島は、香也子がこの恵理子とは全くちがった性格であることを思っていた。あの日旭山で、香也子は、
「……いやだわわたし、西島さんのこと好きになるかもしれないわ」
 と妖しく目を光らせたり、
「わたし、こんな人けのない道を、男の人と歩くのははじめてよ。すごくロマンチックだわ、恋人と歩いているみたい」
 などと、男の気を引く言葉を初対面の西島にいったりしたのだ。
 恵理子もまた、香也子がいった言葉を思い出していた。
 西島は香也子のボーイフレンドになったといった。そして、
「二人で、人けのない頂上の小道を歩いて行って……あとはご想像にまかせるわ」
 と、香也子は無邪気に肩をすくめて見せたのだった。
 その後、幾度か西島に会っているのだろうか、恵理子は気になっていた。恐らくボーイフレンドという以上、幾度か会っているにちがいない。そしてまた恵理子は、いつか見た西島と、若い女性のうしろ姿を思い浮かべた。二人は、恵理子の家の向こう岸を、並んで歩いて行ったのだ。あれはいったい誰なのか、聞きたいことは恵理子にはたくさんあった。
 が、今日はじめて話し合った西島に、それは聞けることではなかった。その時、西島がいった。
「恵理子さん、今度、ぼくのデザインした製品を見てくれませんか。北島センターのショールームにも川村木工のショールームにも、ぼくの作品がいくつかありますよ」
 北島センターと川村木工のショールームが、木工団地内にあった。立派なビルの中に、この木工団地でできるタンス、机、ソファー、戸棚、飾り棚、その他多くの製品が、デパートの家具売り場のように、美しく並べられていた。
「拝見させていただきたいわ」
「あなたなら、わかってくれるような気がするんですよ。あなたは、洋裁師だ。いってみれば、洋服のデザイナーでしょう。デザイナーには共通の苦しみと喜びがあると思うんですよ」
「そうかもしれませんわね。でも、家具のデザインのほうが、ずっとむずかしそうですわね」
 夜の児童公園には、片隅に水銀灯が青く光っているだけで、ここにも人影はなかった。柳が水銀灯の光を受けて、造花の葉のような色を見せている。ブランコ、シーソー、コンクリートのジャングルなどが、ひっそりと静まりかえっている。きらりと青い目を光らせて、猫が二人の傍を走り去った。
「恵理子さん」
 ブランコの傍にきて、西島は立ちどまった。
「…………?」
 恵理子は西島を見た。西島はブランコに腰をおろし、恵理子も並んで隣のブランコに腰かけた。西島はブランコを軽く動かしながらいった。
「ぼくは今日、すごくうれしいんです」
「なぜですの」
「あなたが、遅れたぼくを四十分も待っててくれたからです。しかも、二時間も待つつもりだったといってくださったこと……こんなにうれしいことって、いままでなかったような気がするんです」
「…………」
「これは本当に、驚くべきことですよ、ぼくにとっては。そして、そのことでぼくは、自分の仕事に示唆を受けたような気がするんです」
 西島は地に足をつけてブランコをとめた。
「まあ? お仕事に」
「そうです。ぼくはともすれば、いいものをつくりたいと思うあまりに焦っていたような気がするんです。しかしぼくは、ひとつのものを生み出すのに、時間をかけて待つということを今夜知らされたような気がするんです。頭の中に何かひらめくでしょう。するとすぐに、ぼくはそれを製品にしてしまいたいと思う。そりゃあ、デザイナーにとってひらめきは大事だけれど、しかし時間をかけて、かもしだすことも大事なんじゃないか。かもしだされたものには、単なるひらめきによって作ったものとは、ちがったものがあるはずですよね。そのためには待つという時間が必要なんです。電子レンジでは、本当の味が出ないでしょう。時間をかけて煮るということが、料理には必要でしょう。家具だって同じですよ。そう思うとね、ぼくはあなたにたくさんお礼をいわなければならないような気がして……」
 西島はブランコから降りて立った。恵理子はブランコに腰をおろしたまま西島を見上げた。
「恵理子さん、今日本当にすみませんでした。ぼくは木の板に小鳥を彫り、あなたのお気持ちやご都合を無視して、一方的にあんな失礼して……」
「いいえ、あの彫られた小鳥を見ると、あなたのたくさんの言葉が語られているような気がしましたわ」
「本当ですか、恵理子さん。ありがとう。じゃ、今度の土曜日の午後、北島さんのショールームの一階で待っていてくださいますか」
「次の土曜日ね。午後三時ごろなら……。西島さんのデザインをぜひみせていただきたいわ」
「ありがとう。じゃ、もう十時ですね。おうちまでお送りしましょうか」
「いいえ。うちの祖母にも母にも、あなたと今日お会いすること、いっていないものですから」
「そうですか、じゃ、ここで失礼します」
 西島は、じっと恵理子の目を見つめたが、思い切ったようにくるりと背を向けて去って行った。恵理子はそのままブランコの傍に立っていた。
 と、不意にうしろに声がした。
「今晩は。お姉ちゃま」
 驚いてふり返ると、香也子が猫のような目を見せて立っていた。

つづきは、こちらで

朗読『果て遠き丘』

No.001 春の日(1) 朗読:七瀬真結

No.002 春の日(2) 朗読:七瀬真結

No.003 春の日(3) 朗読:七瀬真結

朗読の続きは、こちらへ。
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