“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『千利休とその妻たち』について
連載 … 主婦の友1978年1月〜1980年3月
出版 … 主婦の友社1980年3月
現行 … (上下2巻)新潮文庫・小学館電子全集
千利休は後妻となった類稀な女性おりきの導きにより、キリシタンの聖餐式に想を得て茶の湯の作法や茶室を完成してゆくが、天国を目指した芸術と秀吉の権力の相克は、十字架に比すべき戦いに夫婦を押し出してゆく。
「鼓の音」
風が変わったのか、潮鳴りが不意に家の中までひびいてきた。土蔵の傍らの桜が、濡れ縁にその花びらを散らした。
四歳の与之介は、一人濡れ縁にちんまりと坐ってひどく神妙な顔をしていた。膝の前に、縁の欠けた小皿が一つ置いてある。うす青いその小皿を、与之介は小さな右手に取り、左の掌に受けた。次に右手でその小皿の右横を持ち、手前にまわす。いつも父の宗易(利休)が、茶を飲む時の作法を、与之介は正確に記憶している。
が、これは四歳の与之介の無心な遊びであった。大人の所作を真似ることは、即ち子供の遊びである。
ふっくらとしたその手を、作法どおりに皿に置いた時である。
「与之介! 何をしています?」
叱声が鋭く飛んだ。与之介はびくりとして、うしろをふり返った。母のお稲がまうしろに立って、与之介を見おろしていた。
母を見上げる与之介の目に反抗の色があった。唇が一文字に、強情に結ばれている。その与之介の顔をじっとみつめていたお稲の頬に微笑が浮かんだ。
「与之介。いつも母の言っていることが、与之介にはわかりませんか」
もう先程の鋭い声音は消えている。お稲は与之介の前に静かに坐った。あたたかい手が、与之介の肩におかれた。桜の花びらが、母と子の上に、幾ひらとなく散りかかる。
「与之介、男の子は外で、棒でもふりまわして、戦ごっこをするものです。お茶のまねごとなどして、遊んではなりません」
「でも……父さまだって……」
「父さまは父さまです。お前のおじい様は、世に鳴りひびいた三好元長様。伯父さまも、今評判の三好長慶様。お前はその伯父さまによく似ているのですよ」
与之介はようやくこっくりとうなずいて、
「伯父さまは強い?」
「強いですとも。今にこの近畿一帯を平定する器と、人々は言っています」
お稲の、やや厚い唇が、次第に早く動く。その口元を、与之介は幾分上目づかいでみつめていたが、お稲の言葉がわかる筈もない。お稲はいつもの癖で、与之介がわかろうとわかるまいと、胸の鬱ぷんを晴らすかのように言いつづけた。
「男の子というものは、弓矢をとって、戦うべき者、茶の湯など、いくらうまくなったところで、城の主にはなれません」
お稲の胸の中には、いつも父三好元長がいる。十年前に死んだお稲の母は、阿波の徳島に住む町娘であった。それが領主元長の目にとまり、生まれたのがお稲だった。父元長は、お稲が六歳の頃、時の実力者木沢長政らに倒された。その時、お稲の腹ちがいの兄、即ち正妻の長子長慶はまだ千熊丸といって、十歳の齢であった。
幼い時から、お稲は父元長のような、強い武将のもとに嫁ぐことを夢見ていた。が、縁があって嫁いだのは、思っても見なかった商家であった。商家といっても、堺の町の納屋衆の一人で、豪商であった。納屋衆はいわば倉庫業を主として営み、何れも富んでいた。
お稲が口惜しいのは、成人した兄長慶が、自分が嫁いだ直後、宿敵木沢長政を倒し、俄かにその名を揚げたことであった。もし、自分の嫁ぐ前に、長政を倒していたなら、長慶の腹ちがいの妹である自分は、まちがっても商家に嫁ぎはしなかったものをと、それが悔やまれるのである。そしてその思いは、以来七年を経た今に至るまで、お稲の胸に尾をひいていた。
「でも……茶の湯も、おもしろいもの」
不満げに与之介の唇が尖る。
「いけません。茶の湯などは、父さま一人でもうたくさん。とにかく、どんなに茶の湯がうまくなっても、城の主にはなれないのです」
たとえ四歳の与之介が言葉を解さなくても、その胸にこのことだけは叩きこんでおきたいお稲であった。
(城の主にはなれぬか)
お稲の言葉を、夫千宗易が次の間で聞いていたことを、お稲は気づかなかった。
宗易は今年二十八歳、とおった鼻筋に気品があり、その目に常人にはない光があった。十六歳の時既に茶会をし、奈良の茶人松屋久政を招いて世人を驚かせたほどの宗易にとって、茶の湯は只の趣味ではなかった。
天文九年、即ち九年前、宗易は十九歳で父を失い、魚屋千家の跡を継いだ。海べにある納屋(倉庫)は一般商人に貸し、そこから賃貸料があがった。そして、塩魚座賃があがり、多くの田地家作からあがる収入もあった。更に和泉一帯の問丸(卸商船)からの権利銭もあった。こうした大店を、たとえ大番頭の善兵衛に支配させていたとはいえ、九年間取りしきった自信が宗易にはある。だがそれにもまして、茶の湯に示す自分の実力に、宗易は誰にも譲らぬ自信があった。
父の死んだ十九歳の秋、宗易は武野紹鷗の門を叩いた。紹鷗は同じ堺の舳ノ松町に住み、宗易の住む今市町からどれほども離れていなかった。が、紹鷗の名は高く、おいそれと門を叩ける相手ではなかった。その門をあえて叩いたのは、父を失った宗易が、茶の湯に心のより所を真剣に求めはじめた証拠であった。
紹鷗に会った日のことを、宗易は今もはっきりと覚えている。紹鷗もまた、皮屋と呼ばれる堺の商人であった。戦国の時代に、なくてはならぬ武具を商って、巨利を得ていた大富商であった。連歌師といわれたほどに歌の道を極め、更に茶の湯では、この堺一帯に、右に出ずる師はなかった。元は武田といって武家であったが、町人になる時に先祖に憚って武野と姓を改めたという。紹鷗には、武士の持つ気骨がその顔にも現れていた。
紹鷗は、入門を乞う宗易に、しばらく無言で対坐していたが、やがておもむろに口をひらいて言った。
「十六歳の時に、既に茶会をひらいたとの評判は聞いておる。その評判はおそらく貴方には害にこそなれ、何の益にもならなかったであろうな。ここでは、先ず庭の掃除からやってもらおう。それでもよろしいかな」
宗易はその言葉に、ハッとした。目から鱗の落ちる思いがしたのだ。さすがに武野紹鷗である。宗易自身の最も誇りとしているところを紹鷗は衝いた。自分の誇りにしてきたものを、何の益にもならなかったであろうと指摘したのだ。その言葉が宗易の身に沁みた。
「入門のお許しを頂ければ幸いに存じます」
宗易は平伏した。
紹鷗を訪ねるまで、宗易は、紹鷗が直ちに自分の点前をどの程度か見てくれるものと、信じて疑わなかった。そして内心、その自分の点前に、紹鷗は讃歎するであろうことを期待してきた。ところが、紹鷗が命じたことは掃除であった。
「では、しばらくここで待っているように」
紹鷗は部屋を立って行った。八畳の間に、宗易は一人置かれた。
半刻も経った頃である。弟子の一人が襖をあけて、宗易に告げた。
「では、露地の掃除をとのお言葉でございます」
与えられた竹箒を持って露地に立った宗易は、はたと当惑した。たった今掃除されたばかりなのであろう。ちり一つ、木の葉一枚落ちていない。
先ほど、庭の掃除から始めてもらおうと紹鷗に言われた時には、
(掃除ごときことならば……)
という思い上がった気持ちがまだあった。が、ちり一つない庭に立たされて、宗易は内心狼狽した。
(掃除したばかりのあとを掃除せよとは、一体いかなることか)
箒の目も鮮やかな露地を、再び掃くのは余りにも愚かである。そんな無駄ごとは、茶の湯の道にはないはずであった。
(茶の湯とは……)
宗易は、紹鷗が只ならぬ師であることを、まざまざと感じた。
(茶の湯とは……)
竹箒を持つ宗易の手がかすかにふるえた。ここで何をすれば、一体掃除となるのであろう。いかにすれば、掃除をせよとの命に応えたことになるのであろう。
と、その時、宗易の胸に、紹鷗が常々言っていると伝え聞いた言葉が浮かんだ。
「連歌は、枯れかじけて寒かれと言うが、茶の湯も、結局このようでなければならぬ。侘び数寄でなければならぬ」
この言葉を宗易は伝え聞いて、心にとめていた。そしてまた、茶道の先達村田珠光の言葉も思い出した。
「月も、雲間のなきはいやにて候」
その言葉も、宗易の胸の中にはあった。雲一点のない空に照り輝く月よりも、雲間に見え隠れする月をよしとした珠光の心である。
「なるほど!」
わかったと思った。宗易の体をつらぬく一つの感動があった。この、ちり一つない庭は、きれいすぎるのだ。ここには侘びがない。皎々と照る月と同じである。宗易は、竹箒を置いて、木に寄った。秋とはいえ、まだ、落葉にはやや早い季節である。宗易は力をこめて銀杏の木をゆすった。その四、五枚が午後の日に輝きながら、ひらひらと舞い落ちた。
宗易の心に、喜びが満ちあふれた。その時、紹鷗が家の中から、自分のすべてを窺い、そして讃歎したことを、宗易は後に知った。
こうして入った茶の湯の道である。
「茶の湯がいくらうまくても、城の主とはなれません」
幼い与之介に言い聞かせる妻お稲の言葉が、宗易の心を逆なでた。
(ふん! 城の主が……何で偉いものか)
心の中に、吐き出すように呟いて、宗易は妻にも使用人たちにも告げずに外へ出た。