『青い棘』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『青い棘』について

連載 … ベルママン1980年4月〜1982年4月
出版 … 学習研究社1982年4月
現行 … 講談社文庫・小学館電子全集
旭川を舞台に描いた現代小説。医大で歴史を教える邦越康郎は、息子の嫁・夕起子が気になっている。若くして死んだ前妻・緋紗子の雰囲気に似ているのだ。夕起子もまた、康郎に憧れを抱いている。そんな折、娘の家庭に問題が持ち上がり……。

「送電線」

   一

 富久江ふくえがその肉づきのよい白い手を伸ばして、テレビのスイッチを切った。若い男性歌手のふり絞るような歌声が消え、不意に部屋の中が静かになった。と、浴室で夕起子ゆきこと、幼い加菜子かなこの何か話している声が聞こえてきた。
 邦越くにこし康郎やすろうはさりげなく、今切ったばかりのスイッチを入れた。
「あら、まだごらんになるの。もう十時半を過ぎたわ」
 妻の富久江が眠そうな目を向けた。色白で丸顔の富久江は、四十六歳になっても、どこか育ち切らない顔をしている。康郎は黙ってテレビに視線を移した。夜桜を楽しむ群衆の姿が画面にひしめいていた。テレビのスイッチを入れたのは、息子の妻夕起子の湯を使う音を消すためだとは言えない。
「あら、いいわね。旭川あさひかわはまだ暖房を入れているというのに、九州はお花見よ」
「うん」
「旭川の桜は五月も半ばですものね」
「あと、二ヶ月近くあるね」
「そうよ。雪の降る夜に九州のお花見を見ていてもつまらないわ。さ、休みましょうよ。早く歯を磨いていらっしゃい」
 富久江は先程風呂に入った時、浴室の中で歯を磨いてきた。康郎はちらりと富久江の顔を見た。が、そのままテレビに目をやった。
 この家の洗面所は脱衣所をも兼ねている。今歯を磨きに行けば、夕起子の脱いだ下着がそこにある。ドアひとつ隔てた向こうでは、夕起子が湯を使っているのだ。そのことを富久江は何も考えていない。こだわる自分のほうがおかしいのかと思いながらも、康郎は歯を磨く気にはなれなかった。
 息子のひろしと夕起子の結婚は、昨年の十月であった。夕起子がこの家の人となってから、まだ半年と経たない。康郎は夕起子の存在に馴れていなかった。
「ねえ、早く歯を磨いていらっしゃいよ」
 富久江は就寝の時、必ず康郎に歯を磨かせる。若い時からの習慣だ。
「加菜子はどうする」
 加菜子は、娘なぎさの子供である。
「夕起子さんに委せておけば、心配ありませんよ。あの子は、わたしより夕起子さんになついているんだから」
 そう言った時、電話のベルが鳴った。康郎は一瞬ためらって富久江を見た。富久江はちょっと眉根をよせ、
「あなた、出てくださいな」
 とうながした。康郎は何となく着物の襟を合わせてから、傍らの受話器を取り上げた。
 康郎は大学の自分の部屋にいても、電話のベルがなると、ためらいを覚える。家にいる時だけではない。どこにいてもそうなのだ。いつからそうなったのかはわからない。とにかく反射的に手が受話器にいくことはない。
「もしもし、わたし」
 娘のなぎさの声が耳に飛びこんできた。喧噪な音楽が聞こえている。
「なんだ、なぎさか」
 康郎は不機嫌な声で言った。今にも加菜子を迎えに来るかと思っていたなぎさからの電話だったからだ。
「なんだはないでしょう、パパ」
 なぎさは少し酔っているようだった。なぎさはふだん康郎を「お父さん」と呼ぶ。だが、康郎が「パパ」と呼ばれることを嫌っているのを知って、わざと「パパ」と呼ぶことがある。
「なぎさ、もう十時半を過ぎてるじゃないか。早く加菜子を迎えに来なさい。夕起ちゃんに加菜子を預けっぱなしにして、悪いじゃないか」
「あら、パパ、夕起子さんに気がねしてるの」
 小馬鹿にした笑い声が、少し長くつづいた。
「なぎさ!」
「なによ、パパ、大きな声を出したりして! いいじゃない、たまには加菜子を預かってくれたって。加菜子はあなたのお孫さんよ。かわいくはないの」
「かわいいから、早く迎えに来いと言っているんだ」
「でもねえ。今日は仕事で来てるのよ。今、大きな契約がまとまりそうなのよ。だから遅くなるの。ね、今夜は加菜子を泊めて。いいでしょうお父さん」
 なぎさはぐっと下手に出た。
「…………」
 なぎさは生命保険の外交をしていた。高校教師であるその夫佐山兼介に劣らぬほどの月収を得ている。
「ね、いいでしょうお父さん。加菜子を一晩泊めてよ」
「あのね、なぎさ。加菜子のほうが、仕事より大事なんだがね。お前にはそのことがわかっていないのかね」
「あっそう? 孫を泊めることもできないと言うのね。いいわよ、わかったわよ。もう頼まないわよ。きっと夕起子さんが加菜子を迷惑がっているのね。だからパパは……」
「何を言ってるんだ、なぎさ。おい富久江、お前少し言ってやりなさい」
 康郎は富久江をふり返った。富久江は、
「いやですよ」
 と頭を横にふったが、すぐ代わって、
「なぎさ、加菜子は外の物置に入れておきますからね。早く帰っていらっしゃい」
 と、大きな声で、おさえつけるように言った。それに対してなぎさが何か言っているらしく、少しの間富久江が聞いていたが、
「もちろんよ。なぎさの言うこともわかるわ。でもね、なぎさは仕事仕事って言うけど、その度に夕起子さんがかわいそうじゃない? ……ええ、ええ、そりゃあ加菜子はわたしの孫よ。でも、あの子は妙な子よ。わたしよりも夕起子さんになつくんだから」
 富久江は先程康郎に言ったことをなぎさにも言った。なぎさの電話を聞きながら、富久江は電話の台のメモ用紙に、「加菜子」「夕起子」「なぎさ」と書きながら、「だから……」とか「何を言ってんのよ」とか、相槌を打っている。聞いていて康郎は、自分となぎさとの会話より、富久江となぎさとの会話のほうが、ぐっと親密なものに思われた。同じ親でも、母親のほうがはるかに娘のそばにいるという感じがした。自分が遠く押しのけられたような、妙な気持ちだった。
 なぎさの話を聞いていた富久江が、
「わかった。わかった。じゃ、今夜は仕方がないから預かるけど、今度からは少し考えてよ。何せ、加菜子一人預かると、みんな疲れちゃうのよ。夕起子さんだって、お勤めがあるんですからね」
 と、受話器を置いた。遠慮会釈のない置き方であった。自分ならああはいかないと思いながら、康郎は、
「なぎさにも困ったものだ」
 と、富久江を見た。
「そうでもありませんよ。あの子はあの子で、一所懸命働いているんですからね」
「しかし、自分の子を放り出してまで働かなけりゃならない経済状態じゃないだろう。佐山君の働きだけで、充分食っていける筈だからね」
「あなた、なぎさがどんな性格か、わかってる筈じゃありませんか。あの子はじっと家の中に閉じこもっていられる子じゃありませんわ。ま、それはそれでいいのよ。ただね、うちには他人が入っていますからね。あの子も少しは考えなくちゃ」
 康郎は脱衣所のほうを見た。脱衣所はリビングキッチンとアコーディオンカーテンで遮られているだけだ。富久江がつづけて言った。
「加菜子が夕起子さんにばかりなつくから、結局あの人の負担になるわけね。ま、それだけのことなのよ。わたしたちだって、まだそれほどの齢じゃないんだし、加菜子一人ぐらい、見てやれないわけじゃないわ」
 なぎさは幼い頃から、激しい性格だった。長ずるに従って、その傾向がますます強くなった。高校を卒業する頃だった。なぎさが、康郎と富久江にこう言ったことがある。
伊藤野枝いとうのえって凄い女よね。わたし、伊藤野枝のように人生を送りたいわ」
「伊藤野枝? 伊藤野枝って誰? 小説家?」
 富久江はのんきに言ったが、康郎はぎくりとした。伊藤野枝は、明治の終わりから大正にかけて、婦人解放をとなえた無政府主義者であった。東京上野高等女学校時代、野枝の級友たちが、未来の外交官夫人や、実業家夫人を夢みて話し合っていた時、
「わたしは、そんな生活はまっぴらよ。板子一枚下は地獄という生き方が理想よ」
 と言って、あっと言わせた。そして野枝の一生はそのエピソードのとおり波乱に富んでいた。
 アメリカに住むという条件だけで、在学中に結婚し、すぐに見限って、同じく在学中に離婚した。その後、英語教師辻潤と恋愛した。在学中の教え子と恋愛した辻潤は教師をくびになったが、この二人は結婚し二児をもうけた。だが野枝は、大杉栄おおすぎさかえらの無政府主義運動に加わり、その大杉栄と三度目の結婚をした。大杉との中に五人の子があった。大正十二年、憲兵大尉甘粕正彦あまかすまさひこは、大震災のどさくさに紛れて、通行中の大杉栄と野枝を、その幼いおいと共に拘引こういん、直ちに扼殺やくさつした。正に野枝は、板子一枚下は地獄という一生を終えたのである。
 康郎は歴史の教授をしていて、その専門は中世日本史であったが、むろん大杉栄や甘粕大尉のことにも詳しかった。
「伊藤野枝か」
 その時、つくづくとなぎさの顔を見つめたことを康郎は覚えている。
 そんなことがあってから二年経ったある夏の夜、なぎさが食事をしながら、ふだんの語調で言った。
「お父さん、いくつ」
「何だ、親の年も知らないのか。四十六だよ」
「じゃ、お母さんは四つちがいだから四十二、というわけね」
「そうよ。それがどうかしたの」
「どうっていうことはないけど……お孫さんができるにしては、少し若過ぎて気の毒だと思って」
「え? お孫さん? 何をふざけてるのよ。なぎさも寛も、まだ学生じゃない。なぎさが二十、寛が二十一じゃない。孫ができるまでには、まだ三年や五年はあるでしょ」
「と、思いこんでいるでしょ。それがまちがいよ、お母さん」
 なぎさはその夜、妊娠していることを告げたのである。相手の佐山兼介さやまけんすけ釧路くしろ出身で、同じ大学の先輩であった。佐山はその春旭川の某高校に就職した。
 康郎と富久江は、なぎさの妊娠を知ってから二、三ヵ月、その処置に頭を悩まされた。が、結局なぎさは学校をやめ、相手の佐山兼介と結婚した。
 結婚式の日、康郎と二人の時になぎさが言った。
「こんなに早く結婚するつもりじゃなかったのよ、わたし。結婚するつもりなら、別の人を選んだのに」
 その時のなぎさの乾いたまなざしが、今も時折康郎の心にかかっている。
 その後間もなく、旭川に北斗医科大学が設立されることになると、富久江はなぎさのいる旭川に行きたいと言い出した。康郎もまたなぎさの乾いた目が気になって、北斗医科大学への転出を望んだ。長男の寛の就職を旭川に決めたのも、同じ頃であった。こうして邦越一家が住み馴れた札幌さっぽろから旭川に移ったのは、二年前の昭和四十七年であった。そして大学のある緑が丘のニュータウンにこの家を建てたのは、昨年のことだった。
「おばあちゃん」
 風呂から上がった加菜子が、赤い頬を光らせて富久江の膝に座った。と、今まで置物のように足を揃えてテレビの上に座っていた猫のドミーが、しなやかに身を躍らせると、康郎の膝の上に上がって来た。
 夕起子の、風呂を洗っているらしい音がした。
(そうか。寛は今夜も帰らないのか)
 康郎は思った。商社マンの寛は、昨日から稚内わっかないに出張していた。

   二

 大学は春休みに入っていた。が康郎は今日も研究室に半日閉じこもっていた。康郎の家から大学まで歩いて十分足らずだ。一日に一度は、研究室で本を開かなければ康郎は落ちつかなかった。
 四時を少し過ぎて、康郎は大学を出た。大学正門前は何万坪かの広い空き地で、所々に雪が消え残っている。東の空の下に白雪の大雪山だいせつざんが浮かび、その右手に十勝岳とかちだけの連峰が、これまた白雪に覆われてつらなっている。
(春だな)
 康郎はしばらく道に立って、山並みを眺めた。四月の初めにしては、日ざしが背にあたたかい。
 やがて康郎はゆっくりと歩き出した。ふきのとうの薄みどりが、道べに初々しかった。
 行く手に家並みが近づいてきた。医大設立と共に、ここ二、三年でにわかに家が建ち並んだ。ブロックの低い塀、鉄の柵などに囲まれたモダンな家が並んでいる。屋根の形、壁の色、玄関の構えなど、思い思いの趣向を凝らした真新しい家々は、モデル住宅展を見るようなおもむきがあった。
 ここ緑が丘のニュータウンは旭川市の西南に位置する低い丘の上にあり、ついこの間までは田畑であった。トウモロコシ、南瓜かぼちゃ西瓜すいか、そしてメロンなど、何れも出来のよい一帯であった。
 このニュータウンの東端に、康郎の家は建っていた。百坪余の土地を康郎は坪一万何がしの価格で手に入れた。康郎より先に入手した者は一万円に満たぬ価格だった。大学と共に新しい街を誕生させるための市の分譲価格であった。
 家々の庭木はこもをかぶり、縄で枝を吊るされたり、まだ冬囲いのままだ。どこの庭も、造成して二、三年だから、細く幼い木が多い。その幼い木々を見る度に、康郎はなぜか心が和んだ。
 家並みの外れに、道を隔てて柏やヤチダモの木立がある。すすけたような木の幹、一冬の間、枝から離れなかった赤茶けた柏の葉に風情があった。その木立の近くまで来た時、
「お父さーん」
 と、左手の通りから夕起子の呼ぶ声がした。幾度聞いても、若くして死別した妻の緋紗子にそっくりの声だと思う。ふり向くと、夕起子は買い物籠を下げて駆けて来る。夕起子は康郎と同じ北斗医大の医学部教授高原芳明たかはらよしあきの私設秘書を勤めていた。が、今日は夕起子も休みなのだ。
 駆けて来る夕起子の買い物籠に、長ねぎの先がのぞいて揺れている。康郎はその夕起子の姿を可憐だと思った。
「お帰りなさい」
「ああ、ただ今」
 二人は並んで、グリーンの鉄柵に沿って歩き出した。柵に並行して側溝があり、側溝の向こうは狭い崖縁になっている。鉄柵と側溝の間に、黒くちょりちょりに枯れたよもぎが、枯れあしにまじって突っ立っている。
「あすは四月四日ね。お父さんの誕生日ですわね」
「ほう、覚えていてくれたのか」
 わが家に来て半年も経たぬ夕起子が、自分の誕生日を覚えていてくれたことが嬉しかった。
「だって、四月四日って覚えやすいんですもの」
「きれいな水だね」
 康郎が側溝を流れる浅い水に目を注いだ。
「あら、お父さんには、水が見えますの。わたしには音しか聞こえませんわ」
 夕起子は柵に寄りかかって背伸びをした。
「まあ! きれいな水。雪どけの水ですのね」
 康郎を見上げて夕起子が言う。
「そうだろうね」
「背丈がちがうのね。お父さんには見えるものが、わたしには見えないことがあるのね」
 夕起子は丘の下にひろがる平地を見た。
「わたしには、あの緑の屋根が半分しか見えませんけど、お父さんには全部見えるのね」
「ああ、家の右手に子供が二人いるのが見えるよ」
「まあ、子供がいますの、わたしには見えないわ」
 夕起子の声ばかりか、言葉遣いまでが緋紗子に似ていると、またしても康郎は思った。不意に、夕起子が屈みこんだ。
「どうかしたの」
 気分でも悪くなったかと気遣う康郎に、
「加菜ちゃんはこの位の背丈ですわね。加菜ちゃんには、ここからわたしたちが見ている丘の下は、何分の一しか見えないわけね」
「なるほど、加菜子にはほとんど見えないか」
「見えませんわ。あの道路を走っている車も、こっちの家も。そう言えば、この間、加菜ちゃんを幼稚園につれて行った時、幼稚園の先生が言ってらしたわ。あの幼稚園の園長さん、毎年一度は、子供と同じ背丈に屈んで、先生たちに生活させるんですって」
「ふーん。それは卓見かも知れないね」
 康郎も言って、自分も屈みこんで見た。丘の下の田んぼが、急に見えなくなった。
「なるほどねえ。子供はこの景色を、わたしたち大人とは、ずいぶんちがった景色として見ているわけだね」
 それはそのまま、子供の視野と、大人の視野のちがいだと、康郎は思った。若い学生たちと、自分の視野とのちがいをも、康郎は思った。康郎は明日で五十歳になる。康郎はふと自分の人生をふり返る思いがした。五十の山坂に立ってふり返る自分の世界は若者たちの知らぬ世界であった。
「お父さん。わたし食事の支度がありますので、お先に」
 何か考えこんで動かぬ康郎を見て、夕起子が離れて行った。
 康郎は盆地の遠くに走る送電線を見た。幾つかの送電塔をつなぐ電線が、夕日を受けて輝いている。その電線から、カラスでもあろうか、無数に鳥の飛び立つのが見えた。が、すぐに再び、それらの鳥が電線に戻った。その鳥影を見ながら康郎の胸によみがえるものがあった。それは戦争中の体験であった。
 昭和十九年(一九四四年)海軍予備学生第十三期生として、康郎は横須賀よこすかの海軍兵舎にあった。二十歳である。北大ほくだいに入学した昭和十八年十九歳の九月、康郎は海軍を志願したのだ。
 康郎は札幌近郊の大地主の息子で、兄二人、姉一人、妹一人の五人兄妹であった。康郎が北大に入るや否や海軍を志願したのにはいくつかの理由があった。当時の若者たちは、誰もが国のために一命を捧げたいという熱情にかられていた。康郎もまたその純情な若者の一人であったのである。
 長兄も次兄も虚弱で、一家から一人の兵も出ていないということが、健康な康郎を戦争にかり立てずにはおかない最大の理由であった。
 海軍に入って九ヵ月目の昭和十九年五月、康郎たちは突如一時帰郷が許された。それが、どんな意味を持つものか、若い康郎たちにもわかった。一時帰郷は戦場におもむく前に、家人に別れを惜しんで来いということであった。
 康郎は横須賀から汽車に揺られて、三日目にようやく札幌に辿たどり着いた。康郎は札幌近郊の実家に帰る前に、恋人の香川緋紗子の下宿を訪れた。家にいる時間は五時間とない中で、先に父母の家に帰れば、到底緋紗子に会う時間はない。緋紗子は札幌の女子医専に在学中であった。
 予告もなく夜遅く訪れた康郎を見て、緋紗子は息をのんだ。康郎は部屋にも入らず、廊下に突っ立ったまま、緋紗子を只食い入るように見つめた。緋紗子の顔を、自分の胸に刻みこむかのように見つめた。その康郎を、涙の盛り上がる目で緋紗子も見つめた。
 その間、五分であったろうか。七分であったろうか。康郎は緋紗子の小柄な体を抱きよせたい衝動にかられながら凝然と突っ立っていた。
「さようならを言いに来た」
 ようやくの思いで、たった一言、康郎は言った。緋紗子はしっかりとうなずいて、
「康郎さん! たとえ手一本、足一本になってでも、必ず生きて帰ってきて」
 康郎はうなずき返すことができなかった。生きては帰れぬと思っていたからだ。
 康郎はいきなり身をひるがえすと、下宿の階段を駆け降りた。もやの立ちこめている外に飛び出した康郎を、緋紗子は追って来た。康郎はその姿をふり切るように夜の道を駆けた。そして駆けながら戦友たちを思った。
(誰もが、こんなつらい別れを経験しているのだ)
 父母の家にいたのは、真夜中の三時間であった。康郎は朝一番の汽車に乗り、あわただしく期限内に横須賀の兵舎に帰った。
 それから一週間程経った早朝、全員集合の命が降った。康郎はかつて人に後れを取ったことがなかった。軍隊の集合は横隊二列の第一番に並んだ。
 この朝も、集合ラッパと共に素早く服装を整え、真っ先に兵舎を飛び出した。と、どうしたことか軍靴のひもがほどけた。編み上げの靴は紐を結ぶのに時間がかかる。康郎は舌打ちしながら身をかがめた。
 こうして康郎は後れを取り、前列に並ぶことができずに、後列に並んだ。いつもは、滅多に前列に並ぶことのない親友の角多利雄が前列にいた。
「各隊前列、一歩前に進め!」
 号令がひびいた。前列は一斉に一歩前に進んだ。
「前列は、本日これより某方面に向かって出動する。後列は第二隊として、数日後に出動する」
 兵たちは微動だにせず、その命令を聞いた。
 角多利雄と、握手をする暇もなかった。角多たちの船が出た数日後、康郎たちの船も横須賀を出た。日本の国が次第に遠くなるのを眺める頃、自分たちの船がサイパン島に向かっていることを康郎たちは知らされた。康郎は改めて身のひきしまるのを感じた。
 昨年二月、ガダルカナル島において日本軍の敗退があり、五月の末にはアッツ島の守備隊二千五百名全滅が報ぜられ、更に七月にはキスカ島より退却、そしてまた十一月にはタラワ島マキン島の守備隊三千人軍属千五百人全員の玉砕があった。更に今年の二月、クエゼリン島ルオット島の六千五百人が死んでいた。
 康郎は、船に揺られながら、自分がサイパン島の一画で死んでいる姿を幾度も思った。そしてそれは、全員の思いでもあった。そんな中で、兵隊たちはつとめて明るくふるまっていた。
 サイパン島を目ざして南下しているとばかり思っていた船は、気がついた時には横須賀に舞い戻っていた。夢にも思わぬことであった。なぜ戻って来たのか、上官ははっきりとは言わなかったが、事の真相は口から口に語りつがれた。第一便がサイパン島に至る直前、米軍に撃沈されたということであった。親友の角多利雄はこうして死んだ。
(もしあの時、軍靴の紐がほどけなければ……必ず自分は死んだのだ)
 角多利雄が自分に代わって死んでくれたと康郎は思った。なぜあの時に限って紐がほどけたのか。それは康郎にもわからぬことであった。しかし、紐がほどけるという、極めて些細なことが、自分の生死を決定したという一事に、康郎はおそれを感じた。
(角多が代わって死んでくれた)
 以来康郎はこの思いから逃れることができなかった。敗戦後、康郎は角多利雄の家族を探した。が、東京にあった角多の家は、空襲にあって跡形もなかった。その両親も焼け死んだことを、角多の近所の人たちの話で知った。そのことも康郎の心の中にいまだにしこりとなっている。その角多と共に、緋紗子もまた康郎の胸の中に生きていた。
(緋紗子)
 心の中に、そっとその名を呼んだ時、家のほうから、妻の富久江の声がした。
「あなた、何をしてらっしゃるの」
 康郎は、たちまち三十年後の現実に引き戻された。

   三

 四月二十九日、天皇誕生日のその日の午後、邦越康郎は旭川市内のニュー北海ホテルで講演をした。ある婦人団体の主催で、演題は「戦国時代に生きた女性たち」であった。題名は康郎が決めたものではなく、依頼者側の婦人団体が決めたものであった。
「四、五十名位の小さな集まりですけれど……」
 講演依頼の電話が大学の研究室にきた。その時婦人団体の事務局の者はおずおずと言った。
「いや、小さな集まりのほうが気楽でありがたいです」
 と、康郎は引き受けた。が、実際に集まったのは、小雨が降るというのに、百五十名を超えていた。毎月講演会を持って、意欲的に運営しているらしい気魄きはくが、会場にみなぎっていて、康郎も話に熱が入った。
 康郎は織田信長の妹「おいちかた」と、その娘「淀君よどぎみ」を中心に、明智光秀の娘「細川ガラシャ」や、秀吉の妹「旭姫あさひひめ」などの悲劇を、心をこめて語った。
 婦人たちはしきりにうなずき、時には涙をぬぐいながら話を聞いた。語り終えた時、訴えたいことを充分に訴え得たような満足感を康郎は久しぶりに感ずることができた。
 講演が終わって質疑応答に入った。三、四人の手がすぐに上がった。司会者が、
「そこの一番前の和服を召された方」
 と言いながら、素早くマイクを持って行った。立ち上がってマイクを受けとったのは、一見、四十五、六に見える背のすらりとした女性であった。
「あの……」
 その女性は涙ぐんでいた。感動したのか、言葉をとぎらせた。次の言葉が出るまでに少し間があり、会場はしんと静まり返った。明らかに、感動に堪えているように康郎には思われた。
「失礼いたしました。大変感動的なお話で、胸を打たれたものですから。……戦国時代の女の人たちの生きざまというのは、実は第二次大戦を経験したわたくしには、よそごとではございませんでした。……それで、ちょっとお伺いしたいのですけれど、歴史学者であられる先生の奥さまは、第二次大戦をどのように受けとめて生きていらっしゃるか、差し支えなければお聞かせいただきたいのです」
 康郎はぎくりとした。まさか、こんな質問を受けようとは、康郎は予期していなかった。質問は当然戦国時代に集中されると思っていた。
 康郎は緋紗子の死に顔を思い浮かべた。緋紗子のことは、今の妻富久江にも詳しく話したことはない。富久江もまた、根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。康郎の胸の奥深くに、緋紗子は三十年近くも、ひっそりと安置されてきたのだ。
 康郎は一瞬言葉を失った。が、康郎は、額にかかる髪をき上げて質問の女性を見、マイクの前に立った。
「わたしの妻緋紗子は……この緋紗子は一度目の妻ですが、緋紗子は戦争で死にました。二十でした。従って、彼女の声を聞くことはできません。二度目の妻は、戦争中まだ少女でした。戦争について、あまり語ったことはありません」
 会場がざわめいた。が、それは水の面を走るさざ波のようにすぐに消えた。一時間半の講演で、婦人たちは明らかに康郎に親近感を抱いたようであった。つづいて質問が二、三あり、講演会は終わった。
 控室で、事務局の女性たちと少し雑談をかわし、康郎はエレベーターに乗って、一階のロビーに出た。先程の和服の女性がコートを手に抱えて康郎に近づいてきた。
「先程は失礼申し上げました」
 女性はていねいに頭を下げ、じっと邦越康郎の顔を見つめた。
「いや、こちらこそ……」
 康郎は軽く頭を下げ、行き過ぎようとした。と、女性は言った。
「あのう……失礼ですけれど、先生は終戦の頃、江田島えたじまにおいでではございませんでしたか?」
 江田島と聞いて、康郎ははっとした。緋紗子は江田島で死んだのだ。
「はあ、おりましたが、あなたは?」
「やっぱり、あの時の邦越さんでしたか。わたくし、お隣に住んでおりました松村公一まつむらこういちの……」
「えっ!? 松村公一? ではあなたは松村大尉の?」
 驚く康郎に、
「思い出してくださいましたか。松村の家内秋子あきこでございます」
 改めて松村秋子はていねいに頭を下げた。
「いやあ、これは驚きました。奇遇ですね」
 松村公一は隣に住む上官であった。康郎より確か五つ年上の明朗な男であった。が、終戦一ヵ月前に戦死していた。
「実は……わたくし、この会の会員じゃございませんの。今日、知人の家で、講演会の案内状を見せていただきましたのよ。講師が邦越康郎教授となっておりましてね、もしや江田島でお隣だった邦越さんではないかと、只それだけで飛んで参りました」
「そうでしたか。しかし、それにしても奇遇ですねえ」
「ほんとうに……。わたくし、一刻も早く奥さまのご様子を伺いたくて場所柄もわきまえず、あんな質問をしてしまいまして、申し訳ございません。緋紗子さんは亡くなられたのでございますね」
 康郎を見送りについて来た二、三人の事務局の者がいた。
「ここで立ち話も何ですから……」
 康郎が言うと、事務局の者が気を利かしてこもごもに礼を言って立ち去った。
 康郎は松村秋子を誘って、ロビーのすぐ傍のコーヒーラウンジに入った。婚礼でもあったのか、振り袖の着物を着た若い娘や、カクテルドレスを着た女性たちが、白いビニールの風呂敷包みを持って幾つかのテーブルに向かっていた。その女性たちの賑やかな話し声の中に、康郎と秋子の二人はひっそりと片隅のテーブルに向かい合った。
「ほんとにお久しゅうございます」
 再び秋子が挨拶をし、康郎もまた、
「その節は何かとおせわになりました」
 と礼を返した。二人はちょっと黙った。康郎は腕時計を見た。三時を過ぎていた。
「あの、時間はよろしいですか」
「よろしゅうございます、わたくしは」
 康郎はうなずき、
「昭和も四十九年ですものね。あれから、かれこれ三十年ですか。早いものですね」
 と、秋子を真っすぐに見た。目尻に小じわが二、三本あり、額にも小さなしわがあった。額のあたりはまだたるみのない皮膚であった。なぜ会場で、この女性が松村秋子だと気づかなかったか、不思議なほどに秋子は変わってはいなかった。只、江田島の海軍学校の官舎に居た頃の秋子は、死んだ緋紗子と確か同じ年齢で、まだ幼いほどに若かった。その幼さが今の秋子にはない。中年の落ちつきを秋子は見せていた。緋紗子も生きていたら、この秋子と同じ四十九歳、まだまだ若いのだと、康郎は秋子の顔の上に、緋紗子の顔を重ねた。
「あの……お差し支えなければ、奥さまの亡くなられた時のことを……伺わせていただきたいのですけれど」
 秋子は一刻も早く緋紗子の死の様子を知りたいようであった。
 緋紗子と康郎が結婚を約束したのは、康郎が北大予科在学中のことだった。その緋紗子を置いて康郎は昭和十八年秋、海軍予備学生を志願した。そして千葉県館山たてやまの砲術学校に入り、十九年五月には卒業して少尉となった。ここで召集令状を受け、康郎は正規の海軍軍人となった。それから間もなく横須賀からサイパンに向かって出航したが、康郎の乗っていた船は、危険を避けて横須賀に戻った。その後再び、館山に戻り、昭和二十年二月、江田島の兵学校砲術科の教官として赴任した。
 その頃、婚約者を持つ者は結婚せよとの命令が出た。が、康郎は既に緋紗子との結婚を諦めていた。戦局は日に日に苛烈となり、自分自身いつ戦死するか予測できなかったし、緋紗子が身一つで北海道から江田島に来ることさえ命懸けの情勢であった。しかも康郎には、官舎は与えられてはいても、鍋一つ、茶碗一個さえなく私物の布団もなかった。砲台の台長をも兼任していた康郎は、止むなく隊内に寝泊まりしていた。
 ところが康郎に婚約者がいると聞いて、同情してくれたのは、江田島のすぐ近くのくれ市で、「もみじ」という旅館を営む女主人であった。「もみじ」の女主人は、夜具と鍋釜一式を康郎に贈った。そのことを緋紗子に知らせると、緋紗子は直ちに札幌から駆けつけた。四月であった。当然、日本の各地には間断なく空襲があった。緋紗子の乗っていた汽車も、燃えさかる姫路ひめじの駅を突き抜けて来たのだった。緋紗子は、着替えを入れたリュックサック一つを背負い、江田島に着いた。その中には、わずかな乾パンと、国木田独歩くにきだどっぽの著書『武蔵野むさしの』一冊、そして小さな聖書があった。
「来たわよ。火の中をくぐりぬけて」
 小柄な緋紗子は康郎の胸の中で、幾度も幾度もそう言った。鏡台もなければタンスもない。むろん茶ダンスもテーブルもなかった。まな板と包丁と、釜と鍋と僅かに茶碗と箸ぐらいの新世帯であった。だが緋紗子は、そんな物のない生活に只の一度も愚痴をこぼしたことがなかった。
「人間って、何もなくても、生きていけるのね。これは大変な発見よ」
 緋紗子は言い、子供のようにいつも窓から小用こようの港を眺めていた。海軍官舎は、海まで百メートルのひな段状になった丘の中腹にあった。この二人のために、ささやかながら式を挙げさせ、披露宴をひらいてくれたのが、隣家に住む松村夫妻だった。
 だが、緋紗子は、日本の滅びを見に江田島に来たようなものだった。重油がなくなって動きのとれなくなった日本艦隊は江田島に集結された。その中に軍艦榛名はるな大淀おおよどがあった。アメリカ空軍は、この動くに動けぬ日本艦隊に向けて襲来した。暑い七月のことであった。空も暗くなるほどの大空襲が、朝からくり返された。軍艦榛名は夕刻まで持ちこたえたが、日の暮れる頃に、遂に撃沈された。その一部始終を、緋紗子は防空壕ぼうくうごうからい出て、松の根方に座りこみ、じっと見つめていた。
「ギャーっと、凄い声を出して、水兵が甲板から海に弾き出されたのよ」
 百メートル離れた松の根方まで、その声は大きく聞こえたと、緋紗子は言った。
「軍旗がわかめのようにズタズタになって……あれが戦争なのね」
 軍艦榛名の沈没を目のあたりに見た日から、緋紗子は口数が少なくなった。この時の大空襲で、松村大尉は戦死した。その骨箱を抱えて、秋子が江田島を去って間もなく、広島ひろしまに原子爆弾が落ちた。江田島から第一便で広島に出勤した人々が、べろべろに焼けただれた皮膚で、幽鬼のように帰って来たその日、緋紗子は余りの痛ましさに貧血を起こして倒れた。
 緋紗子の胸に、更に激しい憤りが渦巻いた。緋紗子はしきりに、美しいものを見たいと言い始めた。
「美しいものって何だね」
 康郎が尋ねると、
「海でもない、山でもない、川でもないわ。わたしはこの目で、今、日本の滅びを見ているような気がするの。ね、この戦争を起こしたのは誰なの? ね、誰なの?」
 緋紗子はひたすらなまなざしで康郎に迫った。
 八月十四日、夕刻、五時の便で緋紗子は呉に行った。が、その船から降りずに、緋紗子は江田島七時着の船で戻って来た。その途中、船が機雷に触れ、緋紗子は死んだ。なぜ呉に行ったのか、康郎にはわかっていた。緋紗子は、夜光虫やこうちゅうを見たかったのだ。以前に、呉からの帰り、舷側から一面に夜光虫を見たことがあった。
「あんな美しいものが、この世にあるなんて……」
 緋紗子はそう言っていた。美しいものを見たいと言っていた緋紗子は、美しいものを見たさに死んだ。美しいものがなければ、緋紗子は生きられないほどに、戦争の持つ凄まじさと残酷さにしひしがれていたのだ。緋紗子との結婚は僅か四ヵ月であった。この翌日昼、敗戦の報が全国民に、ラジオを通して告げられたのである。
「まあ? そうでしたの。機雷に触れて……」
 秋子は目頭を押さえた。緋紗子のために涙をこぼしてくれる人間を、康郎は久しく知らなかった。俄かに康郎の胸が熱くなった。二人はしばらく押し黙った。
「すてきな方でしたのに……」
 ハンカチで涙を拭い、秋子が顔を上げた。
「ありがとうございます。しかし……三十年前のことが、わたしにはいつも昨日のことのように思われましてね……」
「おなじですわ、わたくしも。松村の死んだ日のこと、一部始終鮮やかに覚えていますわ。恐ろしい空襲でした」
「そうでしたね。二、三日前のことはすぐ忘れるのに、三十年前のことが脳裏にこびりついて離れない。記憶というものは、年月の長さによらないのですね」
「ほんとうに、年月にはよらないのですわ」
「ところで、自分のことばかり話しましたが、その後、奥さんは……」
 確か秋子の故郷は静岡しずおかだと聞いたはずである。北海道ではなかった筈だ。
「ご存じのように、あの終戦の年の一月、東海地方に大地震がございましたわね。わたくしの実家も被害を受けましてね。それで北海道で農家をしていた遠戚を頼って渡って参りましたの」
 そう言えば、秋子の実家が地震に遭った話は聞いたことがあったと、康郎は思い出しながら、
「それは大変でしたねえ」
 再婚したのかと尋ねたかったが、康郎は無難な相槌を打った。
「邦越さん、わたくし、あれからずっと一人ですのよ」
「一人? そうですか……」
「あの時、わたくし実は息子をみごもっておりましてね。それで、母のいる北海道に参りまして……。でも、農家の手伝いなんか、くわを握ったこともないものには、できませんでね。まあ何とか生きて参りましたけれど。わたくし、今、旭川でこんなことをしておりますの」
 秋子はそう言って、ハンドバッグから小さな名刺を差し出した。康郎はその名刺を見た。「食事の店まつむら」という字が、松村秋子の名の右肩に刷られてあった。康郎は、近いうちに、自分はこの店に訪ねて行くだろうと思った。

「芽吹き」

   一

 昼食の後始末を終えた夕起子は、自分たちの十畳間の鏡台の前に座って、ハンドクリームをつけていた。隣の居間でテレビを見ていた寛が入ってきてふすまをしめた。と、すぐに寛は夕起子の肩をうしろから抱いた。
「あら」
 夕起子は襖のほうを見て、ちょっと身をよじった。隣の居間にはしゅうとめの富久江がいる筈である。
「おふくろは二階に上がったよ」
 寛は言いながら、夕起子のうなじに唇を押し当てた。寛はいつもこうなのだ。隣室に人がいようがいまいが、不意に夕起子を抱きよせたり、足に抱きついたりする。結婚してまだ半年余りの、これが若夫婦の自然な姿かも知れなかった。夕起子もそんな寛を子供のようだと思いながらも、強く拒みはしなかった。
「困った坊やね」
 夕起子は寛のするままに委せた。寛は夕起子のうなじに唇をふれただけで満足したのか、あとはそのままじっと夕起子を抱きしめていた。
 夕起子を寛に紹介したのは、夕起子が私設秘書を勤めている高原教授であった。高原教授は邦越康郎と旧制中学が同期で親しい仲であった。康郎が北斗医大に来るについても、高原教授の力があった。そんなこともあって、高原教授は自分の気に入りの夕起子を、寛に紹介する気になったのである。が、その時高原教授は条件をつけた。
「望月夕起子はいい子でねえ。あれの代わりはすぐには見つからない。だから結婚しても、二年や三年は勤めさせて欲しい。それが承知なら、寛君に紹介してもいいがね」
 寛はその話を聞いて言った。
「高原教授は、その子にほれてるんじゃないのかな」
 康郎はそうかも知れないと思った。自分の気に入っている女性を、どこの誰とも知れぬ男に手渡したくないという思いは、男にはままあるものだ。だから、せめて自分で相手を決めたいという気持ちになる。
 見合いは、昨年の春、白金温泉しろがねおんせんへのドライブという形で行われた。白金温泉は、教授たちの研究室の窓から望める十勝岳の山麓にあった。途中、美しい白樺林しらかばばやしが何キロもつづく。その林の尽きたあたりに温泉街がある。そこまで、大学から一時間余りで行くことができた。
 その時車を運転したのは寛で、高原教授が夕起子と並んでうしろの座席に乗り、寛の横に康郎が座った。
 寛は運転しながら大きな声で歌をうたったり、口笛を吹いたりした。そんなあけっぴろげな態度に夕起子は好感を持った。が、結婚してから、自分が寛との結婚を決意したのは、寛が邦越教授の息子であったからのような気がした。康郎は教官たちにも、学生にも評判のよい教授で、夕起子自身も、廊下ですれ違う時など、憧れに似た気持ちで康郎を見たものだった。
 寛は仕事熱心な健康な青年だった。商社マンとしての毎日が楽しくてならぬような、そんな活気が寛には満ちあふれていた。マージャンやゴルフの接待もあるらしく、留守勝ちではあったが、夕起子には幸せな新婚生活がつづいていた。
「あら、どなたかいらしたわ」
 玄関のブザーの音に、夕起子はあわてて髪をで、寛の外したブラウスの背にファスナーをかけて立ち上がった。寛は大きく舌打ちをし、
「また、なぎさじゃないのか」
 と、横になった。
 玄関のドアをあけると、案の定なぎさだった。なぎさは淡いグリーンのパンタロン姿で加菜子の手をひいて立っていた。
「ここの家ったら、昼間でも鍵をかけておくのね。泥棒に入られて、盗られるものもないのに」
 なぎさは言いながら、さっさと靴を脱ぎ、家の中に入って来た。
「ごめんなさい」
 夕起子は姑の富久江が、昼でもじょうをおろしておくようにと言っていることは告げずに言った。
「何も夕起子さんが謝ることはないわよ。どうせお母さんの言うとおりにしていることでしょうから」
 なぎさは心得ていて、
「何せうちのお母さんときたら、健康の本を何十冊も買いこむことと、泥棒を警戒することだけが特技なんだから」
 と、遠慮なく大きな声で言って笑った。加菜子が、
「ニャンコのドミーは?」
 と、突っ立ったまま部屋の中を見まわした。
「ああドミーはね、どこかに遊びに行ったわよ、加菜子ちゃん」
 夕起子は加菜子の頭に手を置いて言った。
「お母さんは二階?」
「ええ。お呼びしてきます」
 夕起子が階段のほうに行きかけると、
「いいわ。加菜子を二階にやるから。それより、のどがかわいたわ。今日は急に暖かくなったみたい。この分だと次の日曜日は桜が満開ね。あら、このつつじも咲いたじゃない」
 言いながら冷蔵庫をあけ、なぎさはジュースを一本取り出した。夕起子はあわててせんぬきとコップを盆にのせて持ってきた。
「お兄さんはいないの? 日曜日だというのに」
 なぎさはソファに腰をおろしてジュースをひと口のんだ。
「いるぞ」
 寛が襖をあけずに大声で言った。
「いるんなら出ておいでよ。只一人の妹が来たというのに」
「只一人の妹さまか。おそれ多くて顔も拝めないよ」
 寛がさっと襖をあけた。
「あら、お兄さん、少し見ない間にふとったじゃない。うちの課長がね、二十代にふとる奴なんて信用しないって言っていたわよ」
 なぎさはずけずけと言った。
「それが信用あるんで困っているんだよ。夕起子と仲よくする暇もないものな」
 夕起子は赤くなって、
「あなたは何を召し上がる? サイダー?」
 と、低い声で言った。
 加菜子と富久江が話をしながら二階から降りてきた。
「加菜子が言ってましたよ。ママはこの頃朝寝坊だって」
「まあ! 加菜子は誰に似ておしゃべりなんでしょう」
 なぎさは豊かな胸を突き出すようにして笑った。
「笑ってごまかしても駄目ですよ。ね、加菜子、ママの悪いところは、何でもおばあちゃんに言うのよ、おばあちゃんが叱って上げますからね」
 加菜子がこっくりとうなずくと、なぎさが別のことを言った。
「あ、お母さん。この間札幌へ行って、さあちゃんの家に泊まってきたのよ。そしたらね、目黒めぐろ叔母おばさんが具合が悪いって言ってたわよ」
「へえー? 目黒の叔母さんって澄子さんのことかねえ。とし子さんのことかねえ」
「あ、二人とも目黒だったわね。澄子叔母さんのことよ」
「一体どこが悪いの」
「わからないけど、心臓が悪いみたい」
「心臓? 心臓病も怖いわよ」
 富久江が眉根をよせた。寛が、
「ま、癌よりはましだな。ところでさあちゃんとこの坊主は、この頃おとなしくなったのか」
「相変わらずよ。さあちゃんもあの腕白には甘いし」
 夕起子はお茶をいれながら、自分だけが話の圏外に置かれたような淋しさを感じた。結婚してまだ半年の夕起子には、さあちゃんなる者が何者か、その息子が幾つなのか。澄子、とし子がどんな関係なのか、皆目見当がつかない。ふっと夕起子は、康郎を思った。こんなとき、康郎がいると、必ず、
「さあちゃんというのはね、富久江のほうの親戚でね、兄の娘なんだ」
 などと、さりげなく説明してくれる。それが今日は、誰も夕起子の疎外感にまで思いをせてくれる者がいない。富久江も寛も、なぎさも、楽しそうに親戚知人の誰彼の噂話をしている。夕起子がお茶を出し、羊羹を切って出しても、それはあたかも、喫茶店のウエイトレスが運んできたかのように、無関心に見えた。
「おばちゃん。加菜子に折り紙を教えて」
 小さな赤いバッグからいろ紙を出して加菜子が傍に来た時、夕起子は危うく涙がこぼれそうになった。
 三十分程、夕起子を圏外に置いた話がつづいてから、
「お父さんは?」
 と、なぎさが尋ねた。
「研究室よ」
「へえー。日曜日でもねえ。どこの研究室かわかったもんじゃないわよ、お父さんも」
 なぎさがにやにやした。
「何のこと、それ?」
「この間、ニュー北海ホテルの前で、お父さん、きれいな和服姿の女の人と、一緒に車に乗ったわよ」
「この間? この間っていつ?」
「確か、天皇誕生日の日よ」
「ああ、あの日はね。ホテルに講演に行ったのよ。何とかいう婦人の会の」
 富久江はこともなげに言った。

   二

 猫のドミーに顔を掻かれて、邦越康郎は目をさました。掻かれたと言っても、むろん爪を出すわけではない。ひんやりとしたドミーの足の感触が今朝は妙に快かった。
「ああ、起きるよ、起きるよ」
 声をかけると、ドミーはいつものようにひと声鳴いて、襖のくぐり穴から出て行った。階段を駆け降りるリズミカルなその足音を聞きながら、康郎はうす目をあけた。傍らの富久江の布団が、いつの間にか片づけられている。
(そうか、富久江は今朝、札幌に行ったのだったっけ)
 富久江は、女学校時代の同期会があって、札幌に出かけた。十年ぶりの同期会とかいうことで、富久江はかなり前から楽しみにしていたのである。
 富久江の実家は札幌の豊平とよひらにある。前日のうちに行って、実家に泊まればよいと、この間から思っていたが、康郎は黙っていた。息子の寛が一週間の予定で出張していたからである。もし富久江が泊まりがけで出かければ、この家には、嫁の夕起子と自分の二人だけになる。が、そんなことにこだわっているのは康郎だけで、富久江も寛も、そして夕起子も、全く気にとめていないようであった。寛は出張する朝、
「母さん、ゆっくり札幌に泊まってくるといいよ」
 と言っていたし、夕起子もまた、
「ほんとうに、そうなさるといいわ」
 と、勧めていた。が、富久江は、
「いやですよ。実家と言っても、小さくなっていなければならないんだから」
 と、顔をしかめて見せた。
 富久江の両親は八十に近かった。家業の時計商を継いだ富久江の長兄と、その両親は同居していた。が、気のいい長兄は、どうやらことごとく妻に牛耳られているらしい。富久江のあによめは、この二、三年来、時計商だけでは立ち行かぬと言って、宝石を扱い始めたが、それが当たって急に金回りがよくなったようであった。瞼の青いアイシャドウや真っ赤に染めた爪が妙に似合う女だった。外交の才もあるらしいことは、華やかなその雰囲気だけで幾度か会った康郎にも察せられた。
 富久江の実家は、富久江にとって、既に父母の家と言うより、嫂の家となっていた。かなりのん気な富久江が行きづらくなったほどだから、富久江の父母も、さぞ小さくなっているのだろうと、康郎も想像する。だからこそ富久江は泊まって来たほうがよいとも思ったのだが、康郎は康郎で、夕起子と二人だけになることを思って、言い出せなかった。
 家の上を飛行機の過ぎて行く音がした。大学の研究室で聞く音とはちがって、いやに大きく聞こえた。日に三往復しか飛ばない東京からの第一便が、旭川空港に着陸しようとしているのだ。空港は康郎の住む丘のつづきにあった。康郎は飛行機の音を聞いて、両目をはっきりとあけた。パジャマのまま布団をたたみ、押し入れの中に押しこんだ。康郎が自分の布団を自分でたたむのは、滅多にないことであった。それはいつも富久江のする仕事だった。そのせいか改めて富久江の留守を実感した。
 押し入れの戸を閉めながら、康郎はふと、大学時代の友人のことを思い出した。その友人は、寛と同じ系統の会社に働く商社マンだが、その友人がある明け方目をさますと、妻の布団が空になっていた。トイレに立ったのかと思ったが、なかなか妻は戻らない。友人はその妻の名を呼んでみたが、うす暗い家の中はしんと静まり返っていた。不安になって友人は家中を探した。しかし妻はいなかった。ふと気がつくと、鏡台の上に書き置きがあった。
 康郎はその話を、なぜか今不意に思い出した。そんな夫婦が、近頃は珍しくないと聞いている。もし、ある日突然、富久江が失踪しっそうしたとしたら、自分は一体どうするのだろう。あり得ないことではないような気もする。
 厚い緑のカーテンをあけると、窓とカーテンの間の空気が、五月の日射しにぬくもっていた。二重窓を康郎はあけ放った。家の中の空気より、外の空気が暖かかった。旭川の五月にしては珍しい暖かさだ。大雪山と十勝連峰の中間にあるトムラウシ岳が、今日はかすみの中におぼろに見える。康郎は青く柔らかい五月の空を見上げた。白い雲が二つ、ゆったりと浮かんでいる。康郎は何とはなしに吐息をついて、富久江の鏡台の前にあぐらをかいた。引き出しの中から電気剃刀かみそりを出し、コンセントにコードを差しこんだ。
「よく眠ったものだ」
 富久江が出かける時にちょっと目をさまして、三十分ほど眠りを中断されたが、それにしてもよく眠ったものだと、康郎は苦笑しながら電気剃刀のスイッチを入れる。軽やかなひびきを楽しみながら、康郎は先程のつづきを思った。
(富久江に去られることは想像できても……)
 自分がこの家を出ていくことは、結婚このかた想像したこともない。それを思って、康郎は再び苦笑した。誰かが随筆の中で書いていた。
「決裂の危機を秘めていない人間関係はない」と。
 考えてみれば確かにそのとおりだった。親子にしても、夫婦にしても、友人にしても、恋人同士にしても、常に危機ははらんでいる筈である。しかし自分は、わが家を出ることを、結婚以来一度として思ったことがない。それは康郎にとって、富久江との結婚が幸せだったということになる。
(……ところで、富久江に、家出を考えたことが果たして一度もなかったろうか)
 なかったと自分は信じているが、しかし自分にはわからぬ思いが富久江にはあるかも知れない。こんな想像をしたと話して聞かせたら、
「テレビの見過ぎね。何をつまらぬことをおっしゃるの」
 と、肉づきのよいのどを見せて、笑うような気がした。
 ひげを剃り終えてから、康郎はまだ洗面をしていなかったと気づいた。
としかな」
 康郎は声に出して呟いた。洗面を忘れて、電気剃刀を顔に当てることなど、今までしたことがない。富久江が、朝早く旅行に行ったぐらいのことで、洗顔を忘れたでは、少し情ないような気がした。
「齢かな」
 と、今言った言葉にこだわって、康郎は鏡の中の自分を見つめた。髪の毛はまだ黒々として、うすくもなってはいない。真っ白くなっている同期の友人たちとくらべると、自分は十も若いように康郎は思う。笑いじわはできても、老いを感じさせる皮膚でもない。康郎はちょっと横を見て、自分の右頬を見、更に首を曲げて左の頬を見た。のどにはたるみもない。康郎は鏡台から少し離れてなおも鏡の中の自分を見た。贅肉ぜいにくがついていないせいもあって、鏡から離れると、一層若く見えた。ついこの間、ある宴会で、
「こちらお若いのに、もう教授になられたのですか」
 と、料亭のおかみに言われた。年齢を言うと、
「五十ですって? そんな、これでもわたくし、人の齢はすぐわかりますのよ」
 その言葉を今康郎は思い出した。
「五十か」
 年齢というものが、何か不思議に思われた。自分が二十の時には、三十歳の先輩が大変な年上に思われたものだ。五十代などと聞けば、全く別の世界に生きている人間のようにすら、思ったものだ。しかし、自分自身が五十代となっても、格別に老いたとは感じられなかった。二十代の時の若々しい思いがまだ胸の中に燃えているような気がする。
(一体、人間はいつの日を境に年を取っていくのだろう)
 昨日と今日と、さして人は変わらぬと思う。昨日と変わらぬと思っている日が、幾百日も幾千日も重なって、年を取る。そのことが康郎には今不思議に思われたのだ。世界の歴史も、日本の歴史も昨日と今日の姿が、特にきっかりと変わることは滅多にない。が、いつの間にか時代は移り変わっていく。それに似ていると、康郎は自分の片頬を、鏡の中になでてみた。
 階下から夕起子のうた声がした。夕起子がうたうのは珍しいことだ。歌声も死んだ緋紗子に似ている。やはり富久江がいないからだろうと、康郎はうたっている夕起子をふっと哀れに思った。康郎と富久江は、寛夫婦と住むことに満足しているが、夕起子の歌声を聞くと、康郎は、夕起子と寛に二人だけの生活をさせてやるべきではなかったかと思った。
 夕起子が、自分の起きるのを待って、朝食を既に調えている筈だ。康郎はいつものようにパジャマのまま洗面に降りて行こうとして、ためらった。夕起子一人の所に、パジャマのまま降りて行くことがためらわれたのだ。ガウンを重ねようと手に取ったが、ガウンを重ねるには、今日は暖か過ぎた。思いきって和服に着替えてしまおうと、康郎は衣桁いこうに近寄った。が、
(今日だけ着物を着て顔を洗うのもおかしい)
 康郎は思い返してガウンを羽織り、スリッパの音を少し高く鳴らしながら、階段を降り始めた。いつも富久江に、スリッパの音が大き過ぎると、康郎は注意される。けれども、これは康郎のひとつの礼儀であった。
 去年夕起子が、この家に来て、どれほども経たぬ頃、康郎はひっそりと音もなく階段を降りて行ったことがある。まだ康郎の起きる時間でないと安心していたのか、夕起子はソファに横になって新聞を見ていた。降りて来た康郎を見て、夕起子はあわてて立ち上がり、
「すみません、お行儀を悪くして……」
 と顔を赤らめた。
 そんなことがあって以来、康郎はスリッパの音を立てて階段を降りることにした。特に今日は、大きな音を立てて降りて行った。

   三

「鬼のいない間に、命の洗濯ね、夕起子さん」
 なぎさは焼けたマトンを、鍋から自分の皿に移しながら言った。
「おいおい、鬼とは誰のことだ」
 康郎はわざととがめる顔をして、
「お母さんが札幌から帰って来たら、なぎさが鬼だと言っていたと言ってやるぞ」
 と笑った。なぎさの夫の佐山兼介はにやにやしながら、コップのビールを飲んでいる。
 ここは神楽岡公園かぐらおかこうえんである。公園には、花見に来ている人たちが幾組かあった。康郎たちと同じように、ジンギスカン鍋を囲んでいる者、紅白の幔幕まんまくを張りめぐらして、踊ったり、歌ったりしている者、様々である。この公園には小運動会ができる程のグラウンドと、それに接して、ニレ、ナラの大樹や数多くの桜があった。旭川の花見の名所の一つである。桜に交じって、コブシの花も、白く清い。
 この公園は、康郎の住む緑が丘の西の外れにあって、こんもりと木々の茂る丘の下にあった。まるで丘の一部を削り取ったかのように、この公園のある平は大きく湾曲していた。公園に沿って、水の清い忠別川ちゅうべつがわが流れ、遠く彼方には頂に雪を置く大雪山が青空の下にくっきりとそびえていた。
「ここから見る大雪山もいいですね」
 兼介が大きな目を細めて言った。
「ほんとだね」
 康郎も肉を焼く手をとめた。夕起子は体をねじってうしろを見、
「ほんとね。木立越しの大雪山って、素敵だわ」
 と言ったが、なぎさはふり向きもせずに、
「花見と言い、旭川と大雪山と言い、どうも陳腐だわ」
 と鍋を突ついた。
(陳腐か)
 康郎は、今朝のなぎさの電話を思い浮かべた。康郎からなぎさに電話をすることは滅多になかった。が、今朝は珍しく康郎から電話をかけた。花見時の天気のよい日曜日に、嫁の夕起子と二人家にこもっているのも、夕起子に気の毒だと思った。なぎさたちは康郎の家から車で五分程の、大正橋たいしょうばしを渡ったすぐ傍に住んでいた。夕起子と二人で花見に出かけるのもおもゆかったから、近くに住むなぎさに電話をかけたのである。
 康郎が電話をかけたのは、遅い朝食をすませた十時半頃であった。ダイヤルを廻すと、コールサインが一度鳴っただけで、すぐに加菜子が出た。
「ハイ、さやまです」
 加菜子は大人っぽい声を出した。
「加菜子? ほんとに加奈子かね」
 なぎさがふざけているのかと、康郎は聞き返した。
「うん、かなこ。おじいちゃん?」
 加菜子の声が幼い声になった。
「なんだ、加菜子か。何をしてた?」
「なんにもしていない」
「なんにもしていない?」
「うん、おなかがすいた」
「おなかすいた? まだ朝ご飯を食べないのかね」
「うん、たべない」
「ママはいないの」
「ママ? ねてる」
「なんだ、まだ寝てるのか。困ったママだな。パパはどうした?」
「ママとだっこしてねてるの」
 康郎はちょっと狼狽したが、
「ママにだっこして寝てたのは、加菜子だろう」
 と笑った。
「ううん。かなこはね、ひとりでねるの。パパとママはいつもだっこしてねるの」
 加菜子は乾いた声で言った。そう言えば、なぎさたちは大きなダブルベッドに寝ているのだと気づいて、康郎は苦笑した。幼い加菜子が「パパはママとだっこしてねている」と言った言葉に、勝手な推量をしたことが、自分でもおかしかった。加菜子には、人形を抱いて寝るのと同じ気持ちなのだと、康郎は思いなおした。
「あのね、加菜子、ママにもう起きなさいと言っておいで」
 言った時に、不意に加菜子からなぎさの声に変わった。
「もしもし……あら、お父さん? 珍しいわね、朝早くから」
 眠そうな声だった。
「朝早くからはご挨拶だな。もう十時半じゃないか」
「え? 十時半? ほんと。でもね、眠ったのが今朝五時なのよ」
「五時? どうせまたマージャンだろう」
「そうよ、テツマンよ。わたしちょっと儲けちゃった」
「徹夜して三千や五千もうけたって、仕方ないじゃないか。どうもなぎさの生活は感心しないな」
「あらいやだ。今時の若い者が、テツマンもしないなんて言ったら、それこそ気味が悪いわ。なんならお父さん調べてごらんなさい。昨夜旭川でテツマンをした者がどの位いるか。わたしたちの年代なら、七割や八割やってるわ。昨夜は土曜日なのよ」
「困ったものだな、なぎさにも」
「あら、でも、覚醒剤はまだやってはいないわよ。そろそろ試してみようとは思ってるけど」
「おい! なぎさ! 覚醒剤はいかん、覚醒剤は」
 なぎさの笑う声が長々とひびいて、
「世話が焼けるわね、お父さんも。今のは冗談よと、一々言わなければ冗談もわからないんだから」
「つまらん冗談はやめなさい」
「それよりお父さん、何の用なの、朝から」
「先ず加菜子に朝飯を食べさせなさい」
「あら、内政干渉? それから?」
 なぎさはさらりと体をかわした。
「実はね、お前たちと桜でも見に行こうかと思ってね」
「ああ、わかった。お母さんが札幌に行ったから、夕起子さんをつれてってあげたいのね」
「…………」
「でも、夕起子さんと二人で行くのは、何となく妙な心地なんでしょう。それでわたしたちをダシにするというわけ。ね、そうでしょう」
 なぎさは頭の回転が早い。康郎には苦手な娘だった。
「ま、何とでも言いなさい。とにかく、今日あたり桜が満開だろうと思ってね」
「お花見か。陳腐なことが好きなのね、お父さんも」
「陳腐かね。年々歳々花また同じでもね、歳々年々人同じからず、と言うじゃないか。花見が陳腐になるかならないかは、その人の心次第だな」
「なるほどね、来年の今頃は、お父さんがあの世に行ってるかも知れないし、わたしがお先に失礼しているかも知れないわね。一期一会の花見と行きましょうか」
「なぎさ!」
「ほら、また本気にする。ジンギスカン鍋はわたしが用意して行くわ。おにぎりだけ作って来てって、夕起子さんに言っておいて。そして、ハイヤーで迎えに来てね。お酒を飲むから、わたしも兼介も運転はしないわよ」
 電話を切ってから、康郎は妙に不安な思いに襲われた。なぎさと言葉を交わすと、いつもどきりとするような思いをさせられる。それが今日は、なぜか特にこたえた。富久江が札幌に行っているためかも知れなかった。来年の今頃は、確かに誰かが一人欠けていそうな、いやな気持ちだった。
 今、なぎさが、花見を陳腐だとくり返したので、今朝の電話を思い出して、康郎の心はかげった。
「そうかね。旭川に大雪山は陳腐かね」
「陳腐よ。旭川と原発なんて言うのと、ちょっとちがうわ」
 兼介は康郎の顔を見て苦笑したが、
「なぎさ、大雪山は絵になる山だよ。どこから見てもね。絵になる存在はね、これは永久に陳腐にはならないんだな」
「あらそうかしら。絵に描かれる回数の多いものほど、陳腐だとわたしは思うのよ。富士山を見てごらんなさい。わたし富士の絵を見て、心を突き動かされたことなんか、ないわ。ね、夕起子さん」
 加菜子のために、にぎり飯を二つに分けたり、加菜子の好きな物を鍋の上から取ってやったり、加菜子のために何くれとなく面倒を見ていた夕起子が顔を上げて、
「わたし、むずかしいこと、何もわからないのよ。富士山も大雪山も好きですけど」
 と、にっこり笑った。兼介が、
「夕起子さんは素直でいい」
 と、やさしく夕起子を見た。
「お父さん、兼介の今の言葉に怒らないの。夕起子さんが素直でいいと言うのは、なぎさはしょうのない女だと言ってることなのよ。あなたの娘は、しょうのない女だと、こきおろしていることなのよ」
 言いながら、なぎさが康郎のコップにビールを注いだ。康郎と兼介が声を上げて笑った。加菜子までが笑った。が、夕起子はうつ向いて困った顔をした。
「それはそうと、この公園はなかなかいいですね」
 あぐらをかいていた兼介が片膝を立てて、光にけぶる木立を見渡した。釧路に育ち、札幌の大学に学んだ兼介は、この公園に来たのは初めてのようだった。
「ああ、なかなかいいね。特にここの木立がいい」
 と、康郎は芽吹き始めた木々の枝に目をやった。
「あの丘のすぐ下には、水芭蕉みずばしょうまで咲いていますしね」
 兼介は立て膝をしたまま、丘の下を指さした。そんな姿も、ものの言いようも、どこか野性的な男を感じさせた。なぎさのような激しい気性の女が、なぜこのような男っぽい男に惹かれたのかと、改めて康郎は思いながら、
「水芭蕉というのは、妙に心にみる花だね。あの青みを帯びた白さのせいかね」
 と、相槌を打った。
「この公園は、わたしたち幼稚園の頃から、少しも変わっていませんわ」
 夕起子が誰にともなく言った。
「ほう、そうですか。それはいい」
 兼介が大きくうなずいた。
「母も言ってますけど、神楽岡は母の小学校時代からおんなじですって、只、木が太くなり、伸びたりはしていても、ほとんど風情は変わっていませんて」
「夕起ちゃんのお母さんはそろそろ六十だったかね。すると、五十年近くこの公園は変わらないというわけか。五十年経って訪ねて行って、少しも変わらないというのは、うれしいことだね」
 康郎はうなずいた。
「そうですよ、お父さん。こっちのほうで懐かしがって訪ねて行っても、昔遊んだ野っ原にビルが建っているなんて、全く味気ない。ところでこの、神楽岡の森は、どのぐらいの広さなんですか」
「確か、五十ヘクタールはあるって聞いたわよ」
 なぎさは数字に強かった。
「へえー、五十ヘクタールか。街の中からこの丘の森を抜ける時はねえ、どんな山の奥に行くのかと思うほどだよ。それが、突き抜けると、また新しい街がある。街の中にこんな大きな森があるというのは、大したもんだね」
「うん。そうだね。この緑だけはぜひ残しておいて欲しいものだね。パリのブローニュの森のようにね」
「それにはわたしも素直に賛成するわ。ね、夕起子さん」
 なぎさが夕起子のコップにサイダーを注いでやった。
「あら、すみません」
 夕起子がビールをなぎさに注いだ。
「話は変わりますがね、お父さん。この間生徒たちに明治維新の話をしたんですが、もし幕末に生きていたとしたら、自分は開国側についたか、尊皇攘夷そんのうじょうい側についたかと思いましてね」
「なるほど。わたしは多分尊皇はともかく、攘夷の側についたかも知れないね。見たこともない外国というものに、只おびえてね。兼介君なら、ためらわずに開国というところだろうがね」
「いやいや、それほどぼくは先を読める人間じゃありませんよ。やっぱり、攘夷党だったでしょうね」
「そうかね、君も攘夷派かね」
「お父さん、兼介にはまだその先があるの」
「その先?」
「そうよ。兼介はね、自分が先を読める人間だったら、こんな女など、女房にしなかったって、言いたいのよ。それが兼介のおちよ」
 なぎさがにやにやした。夕起子が加菜子にねだられて、川のほうに立って行った。と、なぎさがその二人を見送りながら、
「お父さん、お母さんが言ってたでしょ」
 と尋ねた。
「何をだい」
「ニュー北海ホテルの前から、お父さん女の人と車に乗ったでしょ」
 松村秋子のことだとすぐに気づいたが、康郎はとぼけて見せた。
「ニュー北海ホテルから?」
「ほら、天皇誕生日の日よ」
「ああ、講演会に行った日だね」
「わたしお母さんに言ったのよ。お父さんだってもてるタイプだから、気をつけなさいって。お母さん何も言わなかった?」
「ああ、何も言わないね」
「あら! 言わなかった? どうしてかしら」
「気にもとめていなかったんだろう」
「お父さん、意外と、気にとめたから言わないということもあるのよ。女にはね」
 兼介は二人の話を聞かないような顔で、ビールを飲んでいた。

「ブザー」

   一

 富久江を乗せた寛の車が見えなくなると、夕起子は玄関に入ってじょうをおろした。
「忘れずに鍵をかけてくださいよ。この頃は物騒なんですから」
 富久江が念を押すように言った言葉を、夕起子は素直に守ったのである。が、あけ放ったテラスを見て、夕起子は思わず微笑した。庭に面したテラスはあけ放っておきながら、玄関の錠だけは日中でもおろす。そのあり方に、夕起子は富久江のいとけなさを感じていた。
 夕起子はサンダルを履いて庭に出た。
(おなかが痛いって……食当たりかしら)
 急に腹痛を起こしたので、すぐ来てほしいとなぎさが電話をよこした。
「また、アイスクリームか何かの食べ過ぎでしょう。おなかをあたためて寝ていればなおるわよ」
 口ではそう言ったものの、富久江は寛の車であわてて出かけて行った。
 夕起子はふくらみかけた芍薬しゃくやくの赤いつぼみにかがみ込みながら、なぎさをうらやましいと思った。なぎさは、夫の佐山兼介と、娘の加菜子との三人暮らしである。しゅうとや姑への気兼ねもなく、いつでも実家の母を呼びつけたり、自由に訪ねて来たりする。
 しかし夕起子にはその真似はできなかった。親を家に呼ぶのはむろんのこと、実家に電話をかけることさえ、富久江の目をはばからなければならない。誰もいない時に急いでかけるか、勤め先の電話を使うか、いずれにしても、罪を犯すような思いで実家と関わっている。
 一ヵ月程前のことだった。
「わたし、もう一人子供をつくろうかな」
 と、なぎさがにやにやして、
「夕起子さんはまだ子供をつくらないの」
 と尋ねた。夕起子は高原教授から、結婚後三年は勤めてほしいと言われていた。だから、子を産むのは三年後と決めていた。それだけに、もう一人産もうかと言ったなぎさの自由さが、夕起子には羨ましかった。
 ライラックの紫が、夕色の中に気品を見せて匂っている。今、夕起子は、この家に一人だった。舅の康郎は、研究室にいる筈だった。昼食の時、大学の食堂で、今日は少し遅くなると言っていた。一人の時が滅多に与えられない夕起子にとっては、正に価千金あたいせんきんのひと時であった。
(もうじき夏至だわ)
 まだ明るい空を夕起子は見上げた。庭の片隅に夕色は漂っていても、北国の六月の空は明るい。八時過ぎまで空は暮れ残っている。そして午前三時には、もう夜は明ける。夜の短いこの季節が、夕起子はもっとも好きであった。
 垣根に近くアヤメが咲いており、黒味を帯びた庭石の前には、白い牡丹ぼたんが二つ見事に咲いている。夕起子は胸一杯に息を吸った。実家の庭にも、白い牡丹が咲いている筈だ。元営林署長だった夕起子の父は庭の手入れが好きで、木材会社の社長になった今は、朝に夕に庭の手入れを怠らない。まだ年数の経たないこの邦越家の庭とはちがって、夕起子の実家の庭は庭木も花も比較にならない。比較するつもりはなくても、夕起子はつい実家の庭を思い出す。
(そうだわ。お母さんに電話をしてみようかしら)
 しばらく庭にいた夕起子は、思い立って家に入り、電灯のスイッチを入れた。途端に電話のベルが鳴った。
(まあ! 電話のスイッチを入れたみたい)
 微笑しながら夕起子は受話器を取った。富久江の声だった。
「もしもし、夕起子さん。ちょっとメモをして」
 急き立てるような富久江の語調に、只ならぬものを感じて、夕起子は電話台の鉛筆を握った。
「ハイ、どうぞ」
「兼介さんの、今日泊まる熱海あたみの宿の電話番号よ」
「あの……もしかしたらなぎささんに何か……」
「そうなのよ。まだはっきりわからないけど、只の腹痛じゃないのよ。今、山部産婦人科に来ているの。すぐに手術らしいのよ。兼介さんは昨日で研修会が終わっている筈だから、悪いけどすぐに帰るように連絡して。こっち赤電話だから」
 いつもの富久江の語調ではない。
「わかりました。で、あのう……お父さんには」
「あ、お父さんにも一応電話しておいてちょうだい」
 電話が切れた。
(流産かしら?)
 流産ならば、手術の必要はない。
(もしかしたら……)
 一命に関わるという「子宮外妊娠」を夕起子は思った。子宮外妊娠で、夕起子の実家の近所の若い主婦が、去年死んでいる。その日はちょうど日曜日で、夕起子は午前中に、その主婦とスーパーマーケットで顔を合わせていた。それが夕刻には死んでいた。子宮外妊娠の恐ろしさは、その時夕起子の胸に刻みこまれた。
 夕起子は体のふるえるような思いで、兼介の宿のダイヤルをまわした。兼介は社会科の研修で東京に出張していた。研修は昨日で終わった筈であった。今日の土曜は熱海に一泊の予定だった。今連絡を取れば、明日の一便で羽田はねだってくることができる。コールサインが少し長くつづいて若い男の声がした。交換手もいない小さな宿らしい。佐山兼介の名を告げると、
「あ、佐山様でいらっしゃいますか」
 と、妙に機嫌のいい声で、
「只今夕食を終えられて奥さまと街にお出かけになりました」
(奥さま!?)
 夕起子は耳を疑った。
「多分十時頃にはお帰りになると思いますが」
 相手は、夕起子の驚きに気づかぬようであった。夕起子は、電話番号を伝え、帰り次第電話をするようにとの伝言を頼み、受話器を置いた。
 しばらくの間夕起子はその受話器から手を離すことができなかった。
(奥さまとご一緒に!)
 電話の男は、佐山兼介と、そしてもう一人の女を、夫婦と信じて疑ってはいないようである。
(あの兼介さんが……)
 兼介はかげりのない男らしい男だと、今の今まで思っていた。磊落らいらくな笑い声が明朗な人間性をそのまま表していると思っていた。その兼介に女がいた。一夜だけの遊びの相手であれば、夫婦という雰囲気は出ない筈だ。
(それとも……)
 きずりの間であっても、男と女というものは何年もつれ添った夫婦のような雰囲気を持つことができるのか。
(もしかしたら、寛も……)
 出張の多い寛を思って、夕起子は恐ろしい気がした。が、はっとして、夕起子は大学に電話をかけた。康郎の声を一刻も早く聞きたい思いだった。
 しかし、康郎はいなかった。今、帰途についているのかと、夕起子は受話器を置いた。いつの間にか、外は暮れていて、向かいの家の門灯がまばゆいばかりに明るかった。
 立ち上がった夕起子は、テラスのガラス戸を閉め、厚手のカーテンを引いた。不意に夕起子は孤独を感じた。と、猫のドミーがソファに座りこんだ夕起子の膝の上に、ひっそりと上がって、一声鳴いた。
「ドミー、いてくれたのね」
 夕起子はドミーを胸に抱いた。ドミーが再び鳴いた。
「わかる? わたしの気持ちがわかる? ドミー」
 ドミーは鼻を鳴らして、夕起子の顔を見守った。
「なぎささんがね、おなかが痛いのよ。手術するのよ」
 子宮外妊娠なら、手術室に入っている筈だ。ふだんは自分勝手ななぎさだが、しかし夕起子はなぎさを嫌いではなかった。底意のないものの言い方が、夕起子をかえって気楽にさせていた。
「ドミー、ちょっと待って。大学にもう一度電話をしてみるわ」
 ソファの上にドミーを置いて、夕起子は守衛室に電話をした。
「ああ、邦越先生ね。先生は確か二時間くらい前に帰りましたよ」
 顔見知りの守衛が事もなげに言った。
(二時間も前に!?)
 夕起子は複雑な思いで礼を言った。守衛の受話器を置く音を聞いても、夕起子はまだ受話器を耳に当てていた。康郎は確かに、調べ物があるから今日は遅くなると言った筈だった。夕起子は、電話が切れていることに気づいて、のろのろと受話器を置いた。
 不意に、野中で、四囲しいに風のざわめきを聞いたような不安が、夕起子を襲った。突然のなぎさの手術と言い、佐山兼介の行為と言い、康郎の不在と言い、すべてが夕起子の不安をかき立てた。
(いったい、どうしたらいいのかしら)
 夕起子は先程聞いたなぎさのいる病院に、ひとず電話をかけなければならないと思った。が、それがひどく苦痛だった。
 夕起子は、病院の電話を一度かけちがって、再びかけた。夕起子は寛を呼び出した。が、寛が出ずに富久江が出た。
「あの、夕起子ですけど、なぎささんはいかがですか」
「やっぱりね、子宮外妊娠だったのよ。危なかったわ」
「まあ! 子宮外妊娠! それは大変ね、お母さん」
「でもね、夕起子さん。なぎさは運がいいんですよ。土曜日だというのに、先生がいてくださってね。しかもすぐご近所でしょ。今、手術室に入ってるわ。もう大丈夫だと思うけど、輸血しなくちゃならないし、大変なのよ」
「まあ! 輸血!」
「で、兼介さんに連絡が取れた?」
「それが……」
 用意していた言葉が、なめらかに出なかった。
「それが? それがってどうしたの。留守だったの?」
「ええ、街にお出かけになっていて、十時か十一時でないとお帰りにならないんですって」
「仲間同士の旅行だからねえ。……女房が病気だって言うのに、のんきな話だわねえ」
「申し訳ありません」
「あら、あんたがあやまることはないわよ。いやな人」
 最初の電話より、富久江はかなり落ち着いていた。
「あのう……それから、お父さんは急に、ほかの先生がたと、何かお仕事でお出かけになったようなんですけど」
「まあ! お父さんまで? これだから男はいやになるわ」
「いいえ、お父さんはお仕事だと思います」
「何もかばわなくていいわよ。ま、手術さえすれば、なぎさの命には別条がなさそうだから……。夕起子さん、わたしほんとになぎさが死ぬかと思ったのよ」
 富久江は、なぎさが助かったということで、寛大になっていた。
「あの、加菜子ちゃんは、お夕食終わってるんでしょうか」
「それでね、寛が近くのラーメン屋につれて行ったわよ。しばらく加菜子は、うちに預かりますからね」
「はい、そのつもりでおりますけど。お母さんは……」
「仕方がないわ。わたし付き添わなくちゃ。わたしの着替えや布団を、寛に持たせてくれない。詳しくは寛に言ってありますからね」
 受話器を置いて、夕起子は少し自分を取り戻した。することの多いのが救いだった。夕起子は洗面道具の用意から、手をつけ始めた。と、不意に、いつか聞いたなぎさの言葉を思い出した。康郎がニュー北海ホテルの前で、和服姿の美しい女性と一緒に車に乗ったという話である。夕起子は富久江の洗面道具を持ったまま、部屋の中に立ちすくんだ。

   二

 邦越康郎は、高原教授と酒房「あつ」の前で別れた。活きのよいソイの刺し身も、おでんもうまかった。銚子二本で、康郎はほどよく酔っていた。
 実のところ、今日は研究室で本を読む予定であった。が、六時頃高原教授から電話がかかってきた。
「今夜久しぶりにどうですか」
 高原教授の体があいている時と、康郎が時間に余裕のある時とは、滅多に一致しない。
「ああ、いいですね」
 夕起子には、仕事で遅くなると、昼のうちに言ってある。本を読むのは、必ずしも今日でなければならぬことはない。高原教授の誘いに康郎は応じた。
 同じ大学でも、臨床医学の教授である高原芳明と、歴史の教授である康郎とは、研究室の階がちがっていて、顔を合わせることがまれであった。廊下ですれちがうこともほとんどない。今夕、康郎は、高原教授のゴルフの話や、学生時代の話などを聞いているだけだったが、それでも友人同士で酌みかわす酒は楽しかった。高原教授に世話をしてもらった夕起子の性質のよさも、別れる間際に康郎はほめて、気持ちのよいひと時だった。
 去って行く高原の、少し丸くなった背を康郎は見送っていたが、人群れの中に高原教授の姿が消えた時自分の立っている地点がどこであるか、わからなかった。酒のせいでも、齢のせいでもない。若い頃から康郎には方向音痴のところがあった。学生時代、映画館を出て、帰る方向とは逆の方向に歩き出したことがよくあった。
 苦笑しながら康郎は、赤や青のネオンの点滅する看板を見上げた。が、旭川に移って来て日の浅い上に、飲み歩くことの少ない康郎は、盛り場の地理に不案内だった。康郎は、ネオンの看板から目を上げて、暗い空を見上げた。星がいくつかまたたいていた。それを見ながら、なぜか康郎はふっと孤独を感じた。何の脈絡もなく、若い日に戦艦の上で見た夜空を思い出した。海のまっ只中には、ネオンサインの看板など、ある筈はない。只々暗い空がひろがっていた。そこに光る星は、ひどく康郎の心にし迫るものがあった。
 康郎は、高原の去った方向とは反対のほうに歩き出した。と、傍らの小路に、「食事の店まつむら」という軒灯けんとうのあるのが目に入った。康郎は、はっとしてその軒灯に目をとめた。確かに松村秋子の店の名の筈であった。
 康郎の胸がとどろいた。それは、秋子に対する感情の故ではない。緋紗子につながる思い出の故であった。自分の講演を聞きに来てくれた秋子の店に、すぐにも返礼に訪ねたいと思っていた。形式だけの仲人とはいえ、隣人として尽くしてくれた松村秋子への、それは当然の礼儀でもあった。にもかかわらず、康郎は今日まで電話すらかけていなかった。決して忘れていたわけではない。むしろ、絶えず心にかかっていたことであった。
 康郎は、「食事の店まつむら」と筆太に書かれた白い軒灯を見つめながら、逡巡しゅんじゅんした。秋子を訪ねることは、緋紗子の思い出を訪ねることであった。少しためらってから、康郎は思い切って狭い小路に足を踏み入れた。店に入ろうとすると中から、若い男が二、三人、元気な笑い声と共に出て来た。客種は悪くはなさそうであった。白く染め抜かれたのれんをくぐって、康郎は店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
 気持ちの良い男女の声が二つ三つ同時に飛んだ。が、その中に秋子はいなかった。奥行きの深い店で、左手のカウンターには、七、八人の男たちが座っていた。それでも椅子はまだ三つ空いていた。右手に小上がりが五つ程あって、どの部屋の前にも男や女の靴がひしめくように並んでいた。従業員たちは、それぞれ小ざっぱりした白い半纏はんてんを着、健康な雰囲気であった。カウンターの前に腰をおろし、オンザロックを頼んだ時だった。
「あら! いらっしゃいませ」
 驚く声がして、秋子が調理場の奥から姿を見せた。
「いやあ、その節はどうも」
 康郎は思わず首をなでた。と咄嗟とっさに秋子が言った。
「邦越先生、お約束の部屋、取ってございます」
 康郎は秋子の意を察して、
「それはありがとう」
 と立ち上がった。
「十一番にご案内」
 秋子の涼しい声が店の中にひびいた。
 通された部屋は、二階の一番奥にある四畳半の部屋だった。置き床の水盤にアヤメがすっきりと活けられてあった。
「まあ、本当によくお出でくださいましたわね。あれ以来、今日か、明日かとお待ちしてましたのよ」
 氷とウイスキーを盆に載せて入って来た秋子がそう言いながら座って、両手をぴたりと畳につき、
「先日は失礼いたしました」
 と折り目正しく礼をした。
「いやいや、こちらこそ」
 康郎も改まって頭を下げた。
「お出でくださらないのかと、諦めかけておりましたのよ」
「いやあ、そんな……」
 言いかけて康郎は、講演の日から一ヵ月半経っていることに気づいた。
「ふしぎですわ」
 秋子はまじまじと康郎の顔を見つめながら言った。
「邦越さんのお顔を見ていたら、たちまち三十年前に戻ってしまったような気がするんですもの」
「わたしも今それを言おうとしたところですよ。まるでタイムマシンのようですね」
「ほんとうに」
 二人はお互いにお互いを見た。康郎は視線を外すと、造作のいい部屋を見まわしながら、
「それはそうと、よくこんな立派なお店を……。偉いですねえ」
 女手ひとつで、と言おうとして、康郎はその言葉をのみこんだ。ずっと独身で来たと聞いてはいたが、どんな道筋を通ってこの店を築き上げたか、わからないことであった。が、秋子は、
「息子がいたからでしょうね。女って、子供がいると、本当に強くなれるものですのね。子供がわたしを支えてくれたのですわ」
「女性のほうがその点偉いですね。いや、女性の中でも、奥さんのような人は珍しいと思いますよ」
 昔呼んでいたように、康郎は秋子を「奥さん」と呼んで、コップに口をつけた。
「あら、店で奥さんなんて呼ばれるの……珍しいことですわ。いつもママとか、おかみとか、言われてばかり……」
「失礼。つい昔の癖が出て」
「いいえ、たまには奥さんと呼ばれるのも、悪くはありませんわ」
 運ばれてきた毛蟹けがにの身を、細いフォークで器用に引き出しながら、秋子はにっこり笑った。
 話はしばらく江田島当時に移り、やがて秋子は言った。
「わたしやっぱり、今でも松村の妻だと思っていますのよ。わたしの目の前で、松村の乗っていた軍艦が沈没したんですもの。二十のわたしには、あの榛名の沈没は、言葉に表せない大きなショックでしたわ。自分の夫の乗っている船が目の前で沈むのよ。それを、沈み終わるまで、松の木にしがみついて泣きながら見つめている。駆け出して行くこともできない。助け出すこともできない。戦争って……もういや、いやよ邦越さん」
 康郎は深くうなずいた。その秋子の傍で、緋紗子も軍艦榛名の沈没を見つめていた筈だった。砲台長である康郎は、あの日陸上にあって、死をまぬがれたのであった。
「ねえ、どうして松村たちは軍艦と運命を共にしなければならなかったんでしょう」
 康郎は、半分になったウイスキーを手に持ったまま、自分が責められているような気がした。
「全くですねえ。残酷なことです」
「そうよ。海の真っ只中ならともかく、榛名は岸壁に横になっていたのよ。どうして艦だけ沈んじゃいけないの。なぜ、人も一緒に死ななければいけないの。それがわからぬうちはわたし、松村以外の人と結婚する気にはなれませんの」
 康郎は、空が暗くなる程の、あの日の空襲を思い浮かべた。あの日のあと、緋紗子もくり返し言っていた。
「わたし、日本の滅びを見たのよ。そして胸がずたずたに切り裂かれたのよ。人がたくさん死んだのよ。わたしの目の前で。ね、この戦争を起こしたのは、一体誰なの。ね、誰なの」
 あの日から緋紗子は、無気力になっていったような気がする。そして、美しいものが見たいと、うわごとのように言い始めた。その美しいもの、夜光虫を見に行って、その船が機雷に触れて緋紗子は死んだ。
「どうぞ、召し上がれ。こんな話をして、お酒まずくなるかしら。でもね、あの日のことを記憶している者が思い出してあげなければ、誰が思い出してあげることができるでしょう」
 秋子は目頭をおさえたまま、
「わたし、本当に緋紗子さんて好きな方でしたわ。空き家のように、ほんとうに何もないお家の中で、とても意欲的に生きてらしたわ。誰にでも力を与えることのできるような、そんな方でしたわね」
「しかしね、奥さん。緋紗子がそうだったのは、あの空襲の日までですよ。あの頃の日本人の誰もが、戦争に勝つと思っていた。若い緋紗子も、無邪気にそれを信じていました。けれども、その後の緋紗子を奥さんはご存じないでしょう。緋紗子はあの空襲の日に死んだも同じです」
 秋子は深くうなずいた。
(あの日……)
 緋紗子の死んだ八月十四日を思い出しながら、康郎は秋子の取り分けてくれた毛蟹を口に運んだ。当時江田島では米は一粒も手に入らなかった。しかし軍隊では麦飯の食事が出た。その与えられた麦飯の半分を残して、時折康郎は緋紗子に届けた。あの八月十四日の夕べも、康郎は麦飯を家に届けた。小さないわしが二匹と、二切れの沢庵たくあん漬けがおかずだった。その鰯一匹と沢庵漬け一切れと、麦飯半分とを残して、康郎は家に届けた。が、緋紗子は家にいなかった。軍務に忙しい康郎は、麦飯の入った飯盒はんごうを玄関の敷台に置いて、急いで砲台に戻った。が、あの飯は、遂に緋紗子の口に入ることがなかった。
「ね、邦越さん。わたし、何だか、あなたが今でも緋紗子さんと住んでいらっしゃるような気がするわ。緋紗子さんと只二人で」
 康郎はちょっと黙ってから言った。
「緋紗子との生活は、もう前世のことと思っています。今は、富久江という、気のいい女房と、寛という、やや無鉄砲な息子と、なぎさという手のつけられない娘と、それが今のわたしの生活です」
「それでいいのよ。それでわたしも安心ですわ。でもね、わたしには、邦越さんと緋紗子さんを分けては考えられませんの」
「……ああ、言い忘れましたがね。息子の嫁が夕起子というんですがね。この娘の声が、恐ろしい程緋紗子に似てるんです」
「まあ! それは……複雑なお気持ちね」
 秋子はまっすぐに康郎を見た。康郎はその視線を受けとめかねて、
「ちょっと電話貸してください」
 と立ち上がった。
「あ、部屋の前に電話がありますわ。まさか、もうお車をお呼びではないでしょうね」
 見上げる秋子に、
「少し遅くなると、家に電話を入れようと思いましてね」
 と、康郎は廊下に出た。

   三

「やあ、参った参った」
 ぐったりと腕の中に眠りこんでいる加菜子を、ソファの上に寝かせながら、夫の寛が言った。
「で、なぎささんはどうなの」
「もう大丈夫だ。すっかり驚かされたけどね」
 寛は、用意してあった富久江の布団や着替えや洗面道具などを車に運びこむと、夕起子の頬を運転席から手を伸ばしてちょいと突ついた。夕起子の頬を突つくことによって、夕起子の労を寛なりにねぎらったのだ。
「あの……」
 夕起子が言いよどんだ。夜と言っても、まだ九時半を過ぎたばかりだが、この辺りは深夜のように静まりかえっている。人声もなく、通る車もない。蛙の声が聞こえるばかりだ。
「あの? 何だい?」
「ううん、何でもないの。寛さん、あなた何時頃お帰りになる?」
 なぎさの夫佐山兼介のことを言おうとして、夕起子は言葉をのみこんだ。言うには時がある。が、夕起子はたった今言いたかった。妻のなぎさが子宮外妊娠で手術台にせっている時、その夫兼介がどこかの女と、熱海の夜を楽しんでいるのだ。若い夕起子は許せない気がした。
「今夜はおふくろさんと交替でついていなければならんかも知れんな」
 言いよどんだ夕起子の胸のうちには気づかずに、寛はもう一度手を伸ばして、今度は夕起子のあごをなで、ギアを入れた。
 寛の車が暗い夜道に、赤い尾灯を見せ、百メートル程の先を曲がって消えるまで、夕起子は家の前に立って見送っていた。何かひどく心ぼそかった。
 部屋に戻った夕起子は、ひと先ずソファの上に寝かされていた加菜子の傍に寄って行った。唇の端を少し汚して、加菜子は口をかすかにあけ、無心に眠っていた。
(加菜子ちゃん、かわいそうね)
 夕起子はそっと加菜子の頭をなでた。加菜子の髪が柔らかくあかかった。夕起子は本当に加菜子が哀れだと思った。たった今母親は、病院にあり、父親は妻のことも子供のことも忘れて、他の女と自分一人の楽しみにふけっている。それは一夜の遊びかも知れない。が、もしかすると、もう長いつきあいの相手かも知れないのだ。そしてある日、その女に子供が出来、兼介が気の強いなぎさに飽き、幼い加菜子も共に捨てて、その女のもとに去って行くかも知れないのだ。夕起子は何となく、その女はなぎさとは反対に、兼介の言いなりになる女のような気がした。
(大丈夫、そんなことにはならないわね)
 夕起子はそっと加菜子を抱き上げて、自分たちの寝室に運んで行った。眠っている加菜子の体が今日はひどく重く感じられた。
(この加菜子ちゃんができたのは……)
 確かなぎさが結婚する前だった。なぎさは兼介の激しい情熱にまきこまれるように、この加菜子をみごもったにちがいない。
(でも……人間の愛なんて、いつまでも変わらないというわけには、いかないんだわ)
 夕起子はやりきれない気がした。寛と結婚して、まだ一年と経たない夕起子には、今の寛の愛に不足はなかった。だがそれだけに、兼介の裏切りはひどく身にこたえた。なぎさは少々気が強いとはいえ、よそ目には兼介との仲もむつまじかった。
(おやすみ、加菜子ちゃん)
 スモール・ライトに切り替えながら、夕起子は加菜子のために、先程の電話が、何かのまちがいであってほしいと、ねがわずにはいられなかった。
 居間に戻って、夕起子は受話器を取った。なぎさの入院を、実家に知らせておかなければならないと思った。ダイヤルをまわすと、珍しく父が出た。
「何だ、夕起子か。元気かね」
 柔和な父の声が、夕起子を包みこむようであった。
「元気よ。お父さんは?」
「ああ、お父さんもお母さんも元気だ」
「そう。今、テレビを見ていたの?」
「いや、詰め将棋を考えていた」
 父の望月由夫は将棋三段の腕前である。
「あら、ごめんなさい」
 夕起子も父に習って、駒の動かし方ぐらいは覚えている。だが、この家に来てからは駒にさわったこともない。寛と舅の康郎がたまに指すのを、さりげなく眺めているだけだった。
「いや、将棋よりお前の声を聞くほうが楽しいよ。何か用事だったかね」
「ええ、あの……なぎささんがね。子宮外妊娠で、今夜手術したのよ」
「何!? 手術? そりゃ大変じゃないか」
「でも、無事に手術が終わったから、大丈夫なんですって」
「大丈夫なんですってなんて、まだお前、病院に行ってないのか」
「だって、加菜子ちゃんを預かってるし、こちらのお父さんはまだお帰りにならないし……」
 夕起子はあいまいな語調になった。舅の康郎が研究室にいる筈なのに、三時間も前に大学を出ているとは言えなかったし、熱海にいるなぎさの夫兼介への電話の件も、語れることではなかった。
「お母さん、お母さん。夕起子から電話だよ」
 母を呼び立てる大きな声が、受話器にひびいた。婚家に関わる一大事を、己がこととして、律儀に受けとめている父親の声であった。
「今、お母さんが出るからね」
「お母さん、おふろか、おトイレ?」
「ふろだよ」
「あら、それなら後でかけるわ」
「いや、出て来たよ」
 言うまもなく、母の声に変わった。
「なぎささんが、手術なさったって?」
「ええ、でもお母さん、おふろに入ってていいのよ。裸でしょ」
「大丈夫よ。大事なところには、ちゃんとバスタオルを巻いてますからね。そんなことより、大変じゃないの。子宮外妊娠ですって?」
「そうなの。すごく急なのね」
「で、どこの病院? 母さん明日すぐにお見舞いに伺うわ」
「大正橋のすぐ傍の山部産婦人科よ。なぎささんの家のすぐ近くなの」
「ああ山部病院。あそこは評判がいいから、きっと大丈夫だわ。うちの近所でも、子宮外妊娠で死んだ人いるでしょ。夕起ちゃん覚えてる?」
「うん、覚えてる。わたしも、あの人のことすぐに思い出したのよ。……ねえ、お母さん、なぎささんのご主人がねえ……」
 夕起子は母にだけは兼介の不行跡を言っておきたいような気がした。
「なぎささんのご主人がどうしたの?」
「お母さん、何か着てる?」
「着てますよ。お父さんがかけてくれましたよ。で、ご主人がどうかしたの」
「旭川にいないのよ、今。研修で」
 夕起子はやはり、母にではあっても、口に出して兼介のことを告げることはできなかった。
「それは大変ねえ。でも、手術がうまくいけば、大事に至らないから……。ところで、あんたはまだ出来ないの?」
「お母さんったら……三年間は高原教授の所で働く約束でしょ」
「でも、子供を産むなら若い時ですよ。約束だったけど、出来てしまいましたと言えばいいでしょ。まさか高原先生怒りはしませんよ」
 それもそうだと、夕起子は苦笑した。
 電話を切ってから、夕起子はしかし、今、子供を産みたいとは思わなかった。子供を産むということは、その子の一生の責任を持つことであった。万一、自分が子供を産んだあと、寛の不貞に遭ったとしたら、果たしてそれに耐えて行けるかどうか、自信がなかった。どうしても寛を許せずに別れるような事態になった場合、子供は一体どうなるだろう。兼介のことを知った今、考えるだけで恐ろしい気がした。
(もし、なぎささんが、今夜の兼介さんのことを知ったとしたら……)
 なぎさは決して許すまいと、夕起子は思う。すると加菜子は、どちらに引きとられるにしても父か母か、その何れかを失うことになる。
(恐ろしいことだわ)
 寛という人間を、しっかりと見極めた上でなければ、子供を産んではならないような気がした。寛と自分の生活は、まだ小犬がじゃれ合っているような、体のふれあいの生活でしかない。ゆっくりと何かについて話し合うということなど、結婚以来今まで、まだ一度もなかったような気がする。出張の多いせいもあって、夜毎に求められ、激しく愛撫されているだけの生活とも言えた。夕起子は自分でも知らないうちに、自分の心の中に、かすかな隙間がひろがりつつあることに気づいた。
 夕起子は時計を見上げた。いつのまにか十時を過ぎている。
(まだ宿に戻らないのかしら)
 宿に戻り次第、電話をかけるようにと、熱海の宿に頼んでおいたのだ。兼介のかげりのない、いつも明るい表情を思って、夕起子は人間というものが、わからなくなったような気がした。
(あるいは、何かのまちがいかも知れないわ)
 兼介はどう見ても、人にかくれてこそこそと、ことをなす男には思えなかった。いつも堂々としていた。なぎさの激しさをも、がっしりと受けとめている男性に思われた。論理は常に明快であり、彼の思想は社会主義に根ざしていた。
 宿のフロントが、兼介と誰かをまちがえて、
「只今、奥さまとご一緒にお出かけになりました」
 と、告げたのではないかと思った。夕起子はもう一度熱海に電話をしてみようと思った。が、先程のメモを眺めながら、夕起子はためらった。気が進まなかった。
(帰ったら、連絡してくれる筈だわ)
 落ちつきなく夕起子はソファに座った。術後のなぎさの姿が、目に見えるようだった。
(おとうさんも遅いわ)
「ね、ドミー」
 ドミーはちょっと尾を動かした。
「ドミー。お前は今夜どこで寝るの。おとうさまと寝るの? わたしと寝るの?」
 ドミーは低く一声鳴いた。
「ドミー、あんただけ覚えていてね。兼介さんがなぎささんを裏切ったらしいのよ」
 ドミーは鳴かなかった。と、その時電話のベルが鳴った。夕起子は素早く受話器を取った。
「もしもし邦越様のお宅でしょうか。只今、佐山様がお戻りになりましたので、おつなぎいたします」
 先程の変に愛想のいい男の声だった。
「もしもし、なぎさかい」
 いつもと変わらぬ兼介の声音であった。
「いいえ、あの、夕起子です」
「ああ、お姉さん。なぎさは? 何か電話をするようにと言われたんですが」
 少し酒の入った声であった。
「え、あのう、実はなぎささんが、急に手術をなさって……」
「え!? 手術? それは一体……」
「子宮外妊娠なんです」
「子宮外妊娠? 何ですか、それ」
「ええ、大変な、恐ろしい病気なんですけど、でも一命は取りとめました」
「一命は取りとめた? そんな恐ろしい病気なんですか」
「手遅れになると、危険なのよ。で、急ですけど明後日のお帰りを明日にしていただけません?」
「明日ねえ」
 一呼吸あってから、
「しかし、危険は去ったんでしょう?」
 と、気の乗らぬ様子で兼介は言った。
「兼介さん、明日すぐにお帰りになってください。危険が完全に去ったかどうか、わたしにはわからないんです。加菜子ちゃんはわたしが預かっています。なぎささんがお待ちになっています。すぐにお帰りください」
 夕起子はおのずと切り口上になった。
「わかりました。帰りますよ、お姉さん。しかし、一緒に来た仲間に悪いな。……ま、明日中には帰ります。お父さん、お母さんによろしく言っておいてください」
 兼介は電話を切った。夕起子は受話器を戻しながら、確かに兼介の傍らには、誰かのいる気配があったと思った。声は聞こえなくても、兼介の声の中にそれが感じられた。
「しかし、危険は去ったのでしょう?」
 兼介の言った言葉を、夕起子は口に出して呟いてみた。この言葉だけで、兼介を許すことは出来ないと思った。
(男って、そんなものかしら)
 夫の寛も、もし妻の自分が何かで入院した時、
「しかし、危険は去ったのでしょう」
 と、自分の楽しみを優先させるような言葉を吐くのだろうかと思った。
 夕起子は、つと立って、病院にいる寛に電話をした。兼介への連絡がついたことを告げるためではあったが、無性に寛の声を聞きたかったからだ。先程会ったばかりなのに、俄に寛が遠くに行ってしまったような不安を感じたのである。

   四

 邦越康郎は、タクシーの背に深くもたれて、たかぶりをおさえるように目をつむっていた。三十年も前に死んだ緋紗子が、松村秋子との話の中で、鮮やかに康郎の胸によみがえったのだ。富久江と結婚してから、康郎は緋紗子についてほとんど語らなかった。職場でも、康郎が再婚者であることを知らぬ者が多かった。かなり親しい友人でも、いや、親戚の中にさえ康郎と緋紗子の結婚を知らぬ者があった。緋紗子は、空襲の最中さなかを、札幌から広島のすぐ近くの江田島まで、着替えを入れたリュックサック一つを背に、康郎の胸にとびこんで来た。松村秋子夫妻が仲人となり、二人は江田島の海軍官舎で、ささやかな結婚式を挙げ、披露宴をひらいてもらった。そしてその年の八月、緋紗子の乗った船が機雷に触れて、あっけなく死んでしまった。僅か四ヵ月のあまりにも短いこの結婚生活を知る者がなかったのは無理もない。結婚に至るまでの恋愛、そして婚約期間のほうが長かったことになる。
 今日はその緋紗子の思い出を、松村秋子と共に思う存分に語ることが出来た。そんな中で、いつしか康郎は、自分が海軍士官の服を着ていた二十代の若さに戻っていた。
 秋子と康郎が、寸分たがわず記憶していた緋紗子の言葉があった。それは、軍艦榛名が、目の前で沈むのを見た日から言いつづけた緋紗子の言葉であった。
「ねえ、誰がこんな戦争をしてもいいと許したの。戦争を許す権利が、人間にあるのかしら」
 秋子はこの言葉を、榛名の沈むのを共に見た日に聞いたと言った。榛名には秋子の夫が乗っていた。それだけに、秋子には緋紗子のその言葉が胸に刺さって、その後今日まで、幾度思い出したかわからないと秋子は言った。
「軍人の妻であるわたしには、緋紗子さんの言葉が、大胆不敵に聞こえました。もし憲兵けんぺいにでも聞かれたら、大変なことですもの。でもね、わたしたちがあの時代にあって、思うことも出来なかったことを、緋紗子さんは口に出すことが出来たのね。時が経つにつれて、緋紗子さんの偉さがわかって来たんです」
「緋紗子って、そんな奴でした。彼女は直感的に、人間にとって一番大事なものは何かを知っていました」
 そう答えた時、不覚にも康郎は涙がこぼれた。今も車の中で、康郎はその時のことを思っていた。そして、帰り際に聞いた秋子の言葉が、康郎の胸に重かった。秋子は言った。
「緋紗子さんの赤ちゃんも、一緒に死んだのねえ」
「え!? 緋紗子の赤ん坊が?」
「あら、ごぞんじなかった? 緋紗子さんはみごもっていらしたのよ」
 昼も夜もほとんど砲台に詰めていた康郎に、緋紗子は告げる機会を失ったのであろうか。康郎は、三十年を経て、初めて緋紗子の妊娠を知った。軍艦榛名が沈んで以来、美しいものを見たいと緋紗子が言い出したのは、胎教のためであったろうか。その美しいもの、夜光虫を見に行って、緋紗子は死んだのだ。
(そうか。緋紗子は、それで美しいものが見たかったのか)
 緋紗子の妊っていたのは、男の子だったろうか、女の子だったろうかと、康郎はひどく痛ましい思いがした。
「またいらしてくださいね」
 秋子の言葉に深くうなずいて、康郎は店を出て来た。
(富久江が待っているだろうな)
 康郎は車に揺られながら、何かうしろめたいような気がした。先程秋子の店で、家に電話をしようと思った。が、話し中で、康郎は秋子の待っている部屋に戻った。
 車は、明るい街の中を通り過ぎ、いつしか暗い神楽岡の坂にかかっていた。左手の広大な神社の境内は、自然林の深い森になっていて、森閑としている。まるで山の奥にでも入っていく心地だが数百メートル走って左に折れると、水銀灯の街灯が立ち並ぶニュータウンの通りに出る。車はなおも左手に暗い森を見ながら、しばらく走ってようやく両側に家の並ぶ緑が丘の団地に出た。アパートの高層ビルの灯が近づいて来た。康郎は、毎月十四日には、必ず秋子を訪ねて、緋紗子について語り合ってやりたいと思った。敗戦の前日、八月十四日が緋紗子の命日だからだ。そのぐらいのことをしてやらなければ、余りに緋紗子が哀れに思われた。もし緋紗子の乗った船が機雷にさえ触れなければ、自分と緋紗子は今も共に暮らしている筈なのだ。
(緋紗子との生活……)
 それは、活気に満ちた楽しいものであるような気がする。富久江との生活は、康郎には少し退屈であった。心の底で触れ合うような、胸に迫るいとしさを富久江には抱けない。と言って、格別富久江に不満があるわけではなかった。
(何れにせよ……)
 やっぱり緋紗子がいとしく思われる。
 車は間もなく康郎の家の前にとまった。
「やあ、ありがとう」
 康郎は少しチップをはずんで車を出た。そして、はっと息をのんだ。蛙の声が、丘のすぐ下の田んぼから、湧き上がるように聞こえて来た。康郎はふっと斎藤茂吉さいとうもきちの短歌を思い出した。
  死に近き母に添寝のしんしんと
   遠田のかはづ天に聞ゆる
 有名な茂吉の歌集『赤光しゃっこう』の中にある歌である。
(わが家には、死に近い者はいないが……)
 今夜の蛙は、天を圧するような大合唱であった。と、不意にぱたりと蛙の声が途絶えた。が、次の瞬間、再び蛙の声があたりを圧した。康郎は言い難い満足感を持って、玄関のブザーを鳴らした。
 夕起子が中からドアをあけ、
「お帰んなさい」
 と、声低く迎えた。
「やあ、遅くなってしまって……。実はね、高原教授に誘われてね、飲みに行ったんだ。『あつ』という店でね、酒も肴もうまかった。あそこのママはいいママだったなあ、清潔で」
 康郎はいつになく饒舌じょうぜつになっていた。その康郎を、夕起子は少し硬い表情で見守った。
「店から電話をしたんだけどね。家の電話が話し中でね。明日、高原教授に会ったら、君からもお礼を言っておいてほしいね」
 康郎はそう言って居間に入った。康郎は、高原に別れて秋子の店に寄ったことを言いそびれた。
 秋子のことを語ることは、緋紗子のことを語ることになる。それは、富久江にも寛にも語りたくないことであった。いや、語るべきことではないように思われた。夕起子は軽く唇を噛んだまま、黙ってうなずいた。夕起子の胸はなぎさの夫兼介のことで一杯になっていた。それはなぎさにはもちろんのこと、富久江にも寛にも語れないことであった。実家の母にさえ告げることがためらわれた。そんな思いの中にあって、康郎の帰宅の遅れたことにも、夕起子はこだわっていた。が、たった今、康郎は高原教授と街に出たことを夕起子に告げた。夕起子は康郎に裏切られなかったことを知って、深い安堵あんどを覚えた。研究室にいると思っていた康郎が、いつのまにか大学を脱け出ていた。その上に、兼介のことがあった。夕起子は、耐えていたものが一度にあふれて来そうな思いになった。
「どうしたんだね。富久江も寛もいないようだが……」
「お父さん……なぎささんが……」
 言いかけて、夕起子は涙ぐんだ。
「何、なぎさが? なぎさがどうした」
 車を運転するなぎさが、交通事故でも起こしたのかと、康郎は顔をこわばらせた。
「あのう……子宮外妊娠で、手術なさったんです」
 夕起子の目から涙が盛り上がった。
「えっ!? 手術? いつだね? どこの病院かね」
 康郎がソファから立ち上がった。
「夕方です。病院は、なぎささんのご近所の山部病院」
「で、経過は?」
「命はとりとめたそうです」
「命はとりとめた……」
 康郎はふっと蛙の声を思った。
「それは大変だった。悪かったねえ、わたしの行き先がわからなくて、夕起ちゃんはおろおろしていたんだろう」
 夕起子の涙を、康郎はそのように解釈した。
「ええ、研究室だとばかり思ったものですから」
「勉強などと言って、こっそり遊びに出かけたかと、さては腹を立てていたね」
「いいえ、そんな……」
「とにかく車を呼んでもらおうか」
 夕起子はいつも呼ぶハイヤー会社のダイヤルを廻した。
「兼介君は研修会だったね」
「はい」
 思いをこめて夕起子は康郎を見た。
「連絡はついたの」
「つきました。……でも……」
「でも? でも何だね」
「いいえ、何でもありません」
 再び夕起子の目から涙があふれた。夕起子は、康郎に何もかも言ってしまいたい衝動にかられた。男というものは、妻が病気でも、兼介のように平然としていられるものなのか、と聞きたかった。旅先で、妻にかくれた遊びをするのが男の常なのか、と尋ねたかった。信頼し合っているようなふりを見せて、実は裏切りながら、それで子供を産んでもよいのかと聞きたかった。康郎は学生に人気のある教授であり、夕起子自身、康郎に憧れを抱いていた。寛と結婚したのは、寛が康郎の息子であるという事実に、大きなウエイトが置かれていたような気がした。
「お父さん」
 夕起子は無性に、康郎に甘えたかった。康郎には何を言っても、心配がないような気がした。その激しい目の色に、康郎がはっとした時、家の前にタクシーの着いたらしい音がした。

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【動画】『銃口』『青い棘』登場人物の言葉(企画展2020)

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