『水なき雲』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『水なき雲』について

連載 … 婦人公論1981年5月〜1983年3月
出版 … 中央公論社1983年5月
現行 … 中公文庫・小学館電子全集
姉に並々ならぬライバル心を抱く亜由子。家も立地も、車も、子どもたちの進学先でさえ比較対象となるその姿は常軌を逸していた。夫は女を作り、外泊が続く。憎しみのあまり一睡もできず迎えた朝、事故は起きた。それを機に混迷はさらに深まる。 

「*」1

 縁側の戸をあける音に、純一は目を覚ました。母の亜由子あゆこは、毎朝、起きると直ちに、布団を片づける前に縁側の戸をあけ放つ。大風や豪雨でもない限り、それをおこたったことはない。今朝はその戸のあけ方が、ひどく乱暴に、純一の耳に響いた。
 庭で雀のさえずる声がする。三羽ほどの雀のようだ。純一は隣りの布団に寝ている弟の真二しんじを見た。真二は二つ年下で、五歳である。片頬を縫いぐるみの黄色い兎の枕に押しつけて眠っている。赤い兎の眼が、真二の頬の下でひしゃげていた。
 かすかにあいた真二の唇から、小さい歯がのぞいている。軽く閉じたまぶたの下で、目の玉がくるくる動いている。眠っていて目の玉が動く時は、夢を見ている時だと、父が言ったことがあった。
(何の夢を見ているのだろう?)
 純一は弟の真二がかわいい。まだ五歳だが、真二は純一に負けずにピアノを弾くし、将棋もできる。
 今年の正月、純一が父に将棋を習った。それまでは、純一は挟み将棋しかできなかったが、駒の動かし方を覚えると、時々父に相手をしてもらうようになった。そばで見ていた真二もいつのまにか将棋を指せるようになった。今では、純一と真二は、勝ったり負けたり、好敵手だ。
 母の亜由子は、教えられても駒の動かし方を覚えようとはしなかった。
「めんどうくさくて、そんなこと覚えられないわ。将棋なんて、男のするものよ」
 と、頭から無関心だった。だが、父の和朗が純一に教えるのを見ていて、駒の動かし方を覚えた真二に驚いて、亜由子は言ったものだ。
しんちゃんはいい頭ね。真ちゃんならきっと東大に行けるようになるわ」
 確かに真二はものおぼえがよかった。将棋の駒の字はもとより、純一の読む教科書も、すぐに読んだ。その上に、真二は誰にも好かれる性格だった。いや、誰をも嫌わぬ性格だった。
 遠野木佐貴子とおのぎさきこは、母の亜由子の姉で、則雄のりおはその夫であった。純一はこの伯父おじ伯母おばも嫌いだった。伯父はめったに笑顔を見せたことがない。亜由子に言わせると、遠野木の伯父は日本一の大学を出た頭のよい偉い人間だと言うが、純一には全く親しめなかった。
 佐貴子は目の大きい、子供心にも美しいと思われる伯母だが、この伯母もなぜか純一には好きにはなれなかった。どこかが恐ろしかった。笑顔ではなしかけられても、うつむきたくなった。この遠野木家は、同じ札幌市内の山鼻やまはなにあるので、純一たちは「山鼻のおじさん」「山鼻のおばさん」と呼んでいた。純一の好きになれないこの伯父伯母にも真二はなついた。二人の姿を見ると、飛んで行って抱きついた。真二がにこっと、人なつっこい笑顔を見せると、この伯父でさえ片頬をゆるめて、
「坊主、相変らず元気だな」
 と、その頭をぐりぐりとなでる。真二はまた、何をもらっても喜んだ。とりわけ愛らしいのは、純一のおさがりをもらう時だった。新品を与えられる以上に喜んで、
「これおにいちゃんのおふるだよ。かっこいいでしょ」
 と、服でもズボンでも見せて歩く。母の亜由子が、
「そんなことは言わないのよ」
 と、たしなめても、
「だって、ぼくおにいちゃんの服をもらうのうれしいんだもん」
 と、無邪気だった。
 純一は今、眠っている真二の瞼の下に動く目の玉を見ていて、不意にさわってみたくなった。そっと手を伸ばして、瞼の上から目の玉にふれようとした時、真二の濃い一文字の眉が動いて、ぽっかりと目があいた。
「あれ! パパは?」
 真二は首をめぐらせてあたりを見た。
「パパ? パパなんかいないよ」
「なあんだ、ゆめか。ぼくね、おにいちゃん、いまパパとうでずもうしていたの」
「ふーん、よかったね」
 純一はうらやましいような気がした。この十日ほど、父の和朗は家に帰ってはいない。
「パパかえってきたかな」
 真二が布団の上に起き上がった。グリーンの格子のパジャマのボタンが、二つ外れて小麦色の胸がのぞいている。
「帰っていないさ」
 昨夜眠る時、父はまだ帰っていなかった。父の和朗は、月に五日か一週間家を留守にする。純一や真二は、その度に出張だと母から聞かされてきた。夜の遅いことも多い。
 留守勝ちだが、純一も真二も父の和朗が好きだった。いつも家にいる母の亜由子よりも好きな気がする。亜由子は顔立ちは佐貴子とちがって、目の細い優しい感じだが、性格は似ていて、強かった。
 だが和朗は、いつも笑顔を絶やさなかった。家にいる限りは、純一と真二の遊び相手になる。トランプ、五目並べ、将棋、腕角力うでずもう、プラモデルなどなど、何でも二人の相手をする。
「よかったな真二、パパのゆめをみて、とくしたな」
「うん、とくしたよ、ぼく」
 パジャマのボタンを外しながら、真二がうなずいた。
 純一はふっと、昨日の妙な出来事を思い浮かべた。
(あのひと、パパにほんとによく似ていたなあ)
 昨日の日曜日、純一と真二は、亜由子につれられてMデパートに行った。食堂でお子さまランチを食べ、玩具売り場でプラモデルを買ってもらい、エスカレーターで三階の婦人物売り場に降りた。
 亜由子は夏物のブラウスを一心に選んでいた。純一と真二は退屈になってあたりを見まわしていた。と、その時、十メートル程離れた向うに、純一は父に似た男が歩いているのを見かけたのだ。ベレー帽をかぶり、パイプを口にくわえたその男は、青いワイシャツに、グレイの背広を着ていた。うす紫のブラウスを胸に当てて鏡をのぞきこんでいる亜由子の脇腹を突っついて、純一が、
「ママ! パパがいるよ」
 と、ベレー帽の男を指さした。亜由子はぎくりとして、純一の指さすほうを見たが、さっと顔をこわばらせて、
「パパじゃありません!」
 と、切り返すように答えた。真二が、
「パパだ、パパだ」
 と叫んで走り出そうとした。亜由子はその手をぐいと引いて、
「パパじゃないったら! パパはあんなお帽子を持っていないでしょう。あんな青いワイシャツも着ませんよ」
 と叱った。真二はその亜由子の顔を不思議そうに見上げ、
「でも、パパみたいだよね、おにいちゃん」
 と、口をとがらせた。純一は亜由子のこわばった顔を見ると、うなずくことができずに、
「ちがう人だとさ。パパしゅっちょうだもんね」
 と、人ごみの中に見失った男の姿を追った。
 その時のことを純一は今思い出したのだ。
「だけど、おにいちゃん」
 脱いだパジャマをくるくるとまるめながら、
「きっとパパ、かえっているとおもうよ。だってぼくの手、ぎっちりにぎって、うでずもうしたんだもん」
「馬鹿だな、真二、それはゆめじゃないか」
 だが真二の言うように、夜中に父が帰って来たのかも知れないと純一は思った。
「パパのへやにいってみようか、おにいちゃん」
「うん……帰ってないと思うけどな」
「かえっていたらどうする?」
「うん、将棋の駒をやってもいいよ」
「ほんと!? おにいちゃん」
「うん、ほんとだ」
 うれしそうに飛び上がった真二を見ると、本当に将棋の駒をやってもいいような気がした。真二は部屋を飛び出して、廊下を駆けて行った。

つづきは、こちらで

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