“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『嵐吹く時も』について
連載 … 主婦の友1984年1月〜1986年6月
出版 … 主婦の友社1986年8月
現行 … 新潮文庫・小学館電子全集
北海道苫幌村(苫前町がモデル)を舞台に描いた現代小説。村で大きな店を営む中津順平・ふじ乃夫妻。目のさめるような美しさのふじ乃と、娘の志津代を軸に物語は進む。ある夜、泥棒のような物音を聞いた志津代。しかしふじ乃は取り合わず……。
屋号について
※作品に登場する商店の屋号を、原作では下図のように記載していますが、当サイトでは カネナカ と表記していますのでご了承ください。
「眉毛島」
一
志津代は茶の間の畳の上で浴衣の膝を崩して、ひとりお弾きをして遊んでいる。血色のよい指が、薄青いガラスのお弾きを弾く時、母親似の黒目勝ちの目に、利かん気がちらりと走る。首を傾ける度に揺れるおかっぱ頭の髪の豊かさも、母のふじ乃に似ていた。
ひと間置いた台所のほうで、昼食の後始末をしている勝手働きのミネとサイの話し声が食器のふれ合う音にまじって、途切れ途切れに聞えてくるのも暑苦しい。
「宿屋のさあ、山形屋のさあ、お内儀さんが……」
「……へえ、あの人がねえ……」
少しきんきんと高い声は、今年十八歳のミネで、ややかすれた声は、一昨年の秋、漁に出た夫を嵐で失ったサイである。
この苫幌村で、唯一軒日用荒物雑貨、食料、衣料品を扱う志津代の家「かねなか」には、父中津順平、母ふじ乃、一人娘の志津代、そして大番頭、中番頭、小僧、女中のサイとミネ、合わせて常時十人はいる。その上、臨時の手伝いの男や女が、入れ替り立ち替り二、三人はいたから、食器の数も少なくない。しかも食事時にこの家を訪れる者は、役場の書紀であれ、網元の使い走りの者であれ、ふじ乃の、
「さ、遠慮は無用、食べたり食べたり」
の気さくな言葉につい誘われて、ぴかぴかに拭きこんだ板の間に並べられた箱膳の前に坐ってしまうから、尚のことだ。
ダシを充分に取ったこの家の味噌汁の味は格別で、どんぶりに山と盛られた胡瓜や茄子の糠味噌漬もうまかったが、何より秋田から直送の米がうまかった。ふだんは麦飯ばかりで、白米など盆か正月にしか食えぬ者もあったから、「かねなか」の食事は大ごっつぉうと喜ぶ者もいた。「鄙には稀」という言葉がある。しかしふじ乃は東京や京都に行ったとしても、尚稀と言える器量であった。特に黒目勝ちのその目はいつも情をふくんでややうるみ、じっと見つめられでもしようものなら、男たちはうろたえて、つい視線を外してしまうのだった。ふじ乃は立っても坐っても、体の線が美しく、すっきりと結い上げた丸髷姿で只店に立っているだけで、「まあ、絵姿みたい」と、女客たちも惚れ惚れするのだった。
飯時に毎日幾人かの客があるのは、このふじ乃と言葉を交わしたい者が多いためかも知れなかった。このふじ乃に、一人娘の志津代は「瓜二つ」と言われたが、志津代はどちらかと言えば、母親より父親の順平が好きだった。
中津順平はふじ乃より十四歳年上の四十四歳で、恰幅のよい男であった。目が細いというためだけでなく、順平は誰にも温厚な印象を与えた。順平は明治十一年十六歳で、唯一人郷里の佐渡、真野村を出、北海道に渡って呉服物の行商をした。その行商で資金を得、この日本海岸の、眉毛島と呼ばれる天売・焼尻の島の目近に見える苫幌に店を持った。嫁も娶らず働きつづけて、同じ郷里からふじ乃を迎えたのは、今から十二年前のことである。目のさめるような、しかも十四も年下のふじ乃をこの村に連れて来た時、人々は驚きのあまり、「狐に欺されたようだ」と言い合った。勤勉一途の、酒も煙草もたしなまぬ順平と、あでやかなふじ乃との取合わせは、村人には未だに得心がいかない。こんなにきれいな若い娘を蝦夷くんだりまで嫁に出す親が、この世にいるとは思えない。もしかしたら、どこかの芸者を落籍かせたのではないかと疑ぐる者もいたが、ふじ乃には芸者をしたらしいふうもない。ふじ乃は結構こまめに働いて順平を助け、今では間口七間、奥行五間の店舗を持ち、つづいてその裏に、間口同じく五間、奥行八間の住居を構え、更に裏庭に白壁の土蔵を三つも持つ大店に築き上げていた。沿岸でも有数の鰊の漁場を持つ苫幌に、いち早く目をつけた順平の慧眼と、骨身惜しまぬ実直さと、誰に対しても頭の低い温厚な人柄と、そしてふじ乃の協力と、それら一切が渾然としてこの成功を見たのであろう。
「その気になりゃあ、カネナカには苫幌の土地一坪残らず買い占める金がある筈だ」
村人たちが嫉妬ではなしに讃嘆してささやき合うほどの商いであった。事実、順平が苫幌に持つ土地は少なくなく、「カネナカの旦那は他人の土地を通らずに、どこへでも行けるんだから大したもんだ」とさえ言われた。また海産干場と言って、海の地主とも言える権利を幾箇所も持ってい、そこからの上りも大きかった。それでいて人々が、順平をほめこそすれ陰口を叩くことのないのは、その人柄の故であることはむろんだが、時に応じて惜しみなく、金も物も散らすからであった。苫幌の小学校に、この辺りでは見られぬ大きなオルガンを寄贈したのも、神社の改修に進んで多額の寄進をしたのも順平だった。歳末の景品には、どんな買物客にも白米一升を公平に贈って喜ばれた。
それに輪をかけたように気前のよいのがふじ乃で、白米一升の景品も実はふじ乃の発案だろうと噂をされた。ふじ乃は子供が親の使いで買物に来ると、必ず飴玉の一つや二つは駄賃に紙にくるんで持たせたし、客が貧乏の苦労話を始めると、「それは、それは……」とすぐに涙ぐみ、着ている羽織を持たせて帰すなどは朝飯前で、時には布団を背負わせて帰すことさえあった。
但し、ふじ乃は涙もろくもあったが、生来気性が激しく、一旦何か気に入らぬことがあると、
「生意気言うんじゃないよ。それなら、あの布団を返しなよ」
と責め立て、ちょっとやそっとの詫びには耳を傾けなかった。だがその叱られた者が布団を背負って、しょんぼりやって来たりすると、
「馬鹿だねえ。本気にして返しに来る者がいるものか」
と、伝法に言って、屈託なく笑うふじ乃でもあった。このように、時として人々はふじ乃にふりまわされることはあったが、それでも順平よりふじ乃に人気があった。順平は信頼され尊敬される対象だったが、冗談を叩く相手というわけにはいかなかった。ただ、一人娘の志津代が母より父になついて、その大きなあぐらの中に、数えて十一歳にもなった今でも、毎日すぽんと、そのかわいい尻を落した。が、母のふじ乃の膝に、志津代は絶えて坐ったことがない。
それでも、毎朝志津代の髪を梳いてくれるのはふじ乃で、肩までの豊かな髪を、ふじ乃はその日その日の気の向くままに、ある時はおかっぱ頭に、ある時は頭の上に饅頭ほどに小さな髷を結ってくれたりした。そして時には志津代の肩を抱いて、鏡台に映る志津代に、
「あのね、女という者はね、髪を乱してならんのよ。髪の乱れは、心の乱れと言うからね」
と、言って聞かせてくれるのだった。以前は志津代にはその言葉がよくわからなかった。そのうちに、髪の乱れという言葉はわかるようになった。が、心の乱れという言葉がわかったのは、十歳になった去年の頃からで、ふじ乃が大声で、
「あの上げた角巻をお返し! この恩知らずが!」
などと、漁師の女房を罵るのを見たりすると、
(あれが心の乱れというのじゃないかしらん)
と、志津代は心のうちに呟くようになった。父の順平は心の乱れなど見せたことがないのに、母の乱れはひと月に二、三度は見る。それでいてふじ乃は、
「髪の乱れは心の乱れと言うからねえ」
と、時折鏡の中でにっこりと笑いかけるのだ。その笑顔を、わが母ながら美しいと志津代は思う。だがこの頃は、ふじ乃は不意に淋しい目になって黙りこみ、志津代の髪をいつまでもいつまでも梳きつづけていたりする。そんな時、志津代自身もひどく淋しい気持になる。何かはわからぬが、妙に不安にかられてくる。実はそんな時こそ、ふじ乃の心に乱れるものがあるのだが、十一歳の志津代にはまだわからぬことであった。
髪と言えば、ふじ乃自身の丸髷は、何日かに一度髪結のおふみが、道具を入れた四角いブリキの箱を下げて来て結い上げる。そして次に結い上げるまでの毎日は、おふみが毎朝撫でつけに来るのだった。このふじ乃の、風呂場で髪を洗っている時の姿が、志津代は好きだ。志津代の髪よりも何倍も長いその黒髪を、平たい桶の湯の中に泳がせ、真っ白な二の腕を上げて洗っている姿は、全く見事な大人の女の姿であった。
「……山形屋の文治さんは、よう勉強が出来るとね」
「んだ……。顔ば見たらわかる。ありゃさかしい顔だもね」
九州出身のサイと、秋田出身のミネが、それぞれの国なまりで、まだ山形屋の噂をしている。
山形屋の次男西館文治は、鼻筋が通っていて眉が凛々しく、いかにも利発に見える。いや、山形屋で鼻筋が通って賢げに見えるのは、文治だけではない。長男の恭一、三男の哲三も、似た顔立ちだ。それぞれ数年前死んだ父親の長吉似なのだ。
上背のある長吉は、その立派な体格にふさわしい顔立ちをしていた。濃い一直線の眉、深みのある大きな目、きりりとしまった唇、それらが高い鼻に調和していた。今から十八年前の春、長吉は苫幌にぶらりとやって来た。紺の半纏姿に、風呂敷包みを一つぶら下げただけの、風来坊のような風体だったが、その顔には品格が滲み出ていて、武家の出ではないかと誰もが思った。長吉は、旅人宿の山形屋に投宿した。山形屋の客は旅商人がほとんどだった。網元に網を売る商人、越中富山の置薬屋、呉服小間物の行商人などが、一日二日と泊るのが常で、三日も滞在する客は珍しい。当然長吉も一日二日で立ち去るものと思われたが、長吉は幾日経っても苫幌を出て行く様子がなかった。一日中部屋に閉じこもって酒を飲んでいるかと思うと、浜に出て、半日も腰をおろしたまま海を眺めていたりもした。風体から言って、そんなに金を持っているとは思えない。人々は山形屋がひどい目に遭わねばよいと危ぶんだのも無理はない。
ところがこの長吉に、亭主の竜造が惚れこんだ。もともと竜造夫婦には子供がなかった。今いる跡取り娘のキワは、五歳の時にもらった養女である。キワは秋田の貧しい農家に生れたが、貧しさに耐えかねた親が、キワを置き去りにして北海道に逃げた。哀れに思った近所の者が、旅の序にキワを連れて、その親を探しに来てくれた。が、広い北海道のこととて両親の行方は皆目つかめない。キワはこの山形屋に、連れの者と共に泊り、子供のない竜造夫婦の情を得て、養女に迎えられた。人の良い竜造夫婦に可愛がられたキワは、控え目な気立てのよい娘に育った。
このキワと長吉が、突如夫婦の盃を交わしたのは、長吉が現れてひと月経つか経たぬ頃だった。
「山形屋の人のいいのにも程がある」
村人たちは驚き呆れた。
「なあに、今に出て行くさ」
「身代根こそぎ持って行かれるかも知れんぞ」
人々は、ハラハラと長吉の挙動に注目した。婿となっても、長吉は格別働くふうはなかった。さすがに朝から酒を飲むことはやめたが、海べで半日ぼんやりと過す長吉の姿を人々は見た。だが、今に逃げると見ていた村人たちを裏切って、長吉は山形屋にとどまっていた。
「あれじゃ、まるで飲み食いは只、その上娘も只だ。とんだ奴に山形屋も取りつかれたものだ」
長嘆息をする人々に、突如思いがけぬことが起きた。それは貧弱な山形屋の玄関の改造が始まり、広いがっしりとした風呂場の別棟を建てて、見た目にも、ちょっとした町の宿屋のように変えてしまったことである。しかも、その金を出したのは、何と長吉だという話であった。人々の長吉に対するまなざしが変った頃、長吉には漢文の素養があることが知られ、
「エゲレス語まで出来るんだとよ」
という噂さえ立った。いつの間にか村の若者たちが山形屋に集まって、政治の話などを長吉から聞く頃には、「山形屋の若旦那」と、誰もが、一目置くようになっていた。気立てのよいキワとの夫婦仲もよく、恭一、文治、哲三と、男ばかり三人の子をあげた。志津代の父中津順平とも、長吉は親しく行き来して、碁や将棋の友でもあった。将棋の腕は長吉のほうが上だが、碁は順平が強かった。一時期は兄弟のように親しかったが、その二人の間にこんなことがあった。
順平は毎年、盆には生れ故郷の佐渡に帰る。その年も順平は佐渡の土産を数々持って苫幌に戻って来た。佐渡は真野の生れである順平の誇りは、家紋であった。順平の家紋は順徳天皇拝領の丸に橘の紋である。順平の実家は桶屋で、父は桶造りの名人と言われた。その先の先祖のことはわからないが、天皇から紋をもらっているくらいだから、何か功があったにちがいない。京都から、あるいは順徳天皇に従って来た供の一人かも知れぬと想像された。何れにせよ、順平にとって順徳天皇は只の天皇ではなかった。故郷の真野宮には順徳天皇が祀られており、また同じ真野の中に陵があり、天皇が植えたという梅の古木もあった。幼い時からそんな中に育った順平にとって、それらはすべて大いなる誇りであった。
ふだんは口数の少ない順平だったが、その日は佐渡から戻った喜びもあって、訪ねて来た長吉や、妻のふじ乃や、大番頭の片山嘉助に楽しげに土産話をしていた。そして、真野の寺の僧が書いてくれたという短冊を取り出して見せた。
いざさらば磯打つ波にこと問はむ
沖の方には何事かある
この御製を真野の村人は知らぬ者がない。後鳥羽上皇が隠岐に移されたと聞いて、佐渡に流された順徳天皇が案じて詠んだ歌である。「沖の方」は「隠岐の方」にかけた言葉だ。長吉は短冊を受け取って、その達筆をすらすらと読み下し、
「ああ、後鳥羽上皇が隠岐に流された時のあの歌だな」
と呟いた。
「さすがは山形屋の若旦那だ。これは、ちょっとやそっとで読める字ではない」
順平は感嘆して言い、
「住職が二枚書いてくれた。一枚は山形屋さん、あんたに上げよう」
と、満面に笑みを浮かべて言った。が、長吉は、
「ありがたいが……山形屋なんぞにはもったいないからねえ」
そっけなく短冊を順平の手に返した。いや、単にそっけないだけではなかった。その時、長吉が鼻先で笑ったように、順平にもふじ乃にも見えた。あとで番頭の嘉助も同じことを言っていたから、これは気のせいではなかった。「仏のカネナカ」と言われる順平だが、この時ばかりはむっとした。順平としては、事自分のことではない。村人が誇りとしている順徳天皇に関わることである。長吉はその順平の表情に目を注めて、帰って行った。
長吉が帰ったあと、順平はふじ乃に言った。
「あの男の正体は何だろうな」
徳川幕府が三百年つづいて、明治維新となった。それからまだ四十年と経ってはいない。依然として徳川方に心を寄せている者たちも少なくはない。空知集治監や樺戸集治監には自由民権の国事犯も数多く繋がれていた。
「何れにせよ、危険な男だ」
順平は呟いた。
そんなことがあって、いつとはなしに長吉と順平の間に溝が出来、行き来も間遠になった頃、長吉は突如一夜の腹痛で死んだ。食中毒とも、腸捻転ともわからぬが、激しい痛みであった。ころげまわりながら、長吉は、
「キワ、キワ」
と呼んだ。何か言いたげであった。キワが長吉の肩をおさえて唇に耳を寄せると、
「わしの名は……長吉ではない……」
と、辛うじて言った。思いがけぬ言葉だった。
「わしは……山形の佐藤文……」
と、尚も口を動かしたが、またしても襲った激痛にころげまわり、やがてこと切れた。その場に居合わせた、その時十歳の恭一は、「佐藤軍之進」と言ったと言い、二歳年下の文治は「文之助」と聞いたと言い張った。これが村人の口から口に伝わり、
「山形屋のキワは、名前も知らぬ男に、三人も子供を生まされて」
と笑う者もい、同情する者もあった。
長吉の死後意外なことがわかった。長吉はキワの婿となって盃は交わしたが、入籍はしていなかったのである。恭一、文治、哲三の三人は、何れもキワの私生児として届けられていた。式は挙げても、直ちに入籍する者などほとんどない時代で、わが子が生れても、三カ月や半年遅れて届け出ることなど珍しくなかった。とは言っても、長吉の場合、何か理由があったにちがいないと、竜造夫婦は気がついた。頼母しい男ではあったが影があった。本名をいまわの際まで、妻にも子にも知らせることの出来ない深い理由があったにちがいないと、竜造夫婦はそのことが心にかかって鬱々としていた。悪いことはつづくもので、竜造夫婦は長吉の死んだ翌年、二カ月置きにこの世を去った。
二
以来、キワは三人の子を抱えて、山形屋を守って来たが、山形屋とカネナカの間に出来た溝は長吉が死んでも何とはなしに残っていて、カネナカの使用人たちは、表立って山形屋の噂をすることさえ憚かった。中には、山形屋の子供たちを見ると、露骨にいやな顔を見せる小僧もいた。
「どこの馬の骨かわからぬ者の子供」
との侮蔑感が、つい顔に出るらしかった。が、キワも子供たちもカネナカに買物に行かぬわけにはいかない。日用雑貨、荒物、食料品等を一手に扱う店が、苫幌村には他になかったからである。
苫幌村の集落は、海岸の漁師たちがつくる浜べの家並と、山の手の市街から成っていた。山の手には小学校、寺、神社、役場、医院、風呂屋、床屋、畳屋などがあり、教師や吏員、産婆、大工などが住んでいた。山形屋もこの市街地にあり、後に鉄道が敷かれた時、駅もこの山の手に置かれた。
志津代の家カネナカは浜にあった。山の手の台地からゆるやかな崖を斜めに道を下りて来ると、すぐ崖下にカネナカの白壁の蔵が三つ並んでいた。この蔵を見ると苫幌の人々は、「蔵の三つもあるでっかい店のある村」に住んでいる幸せに似た感情を覚えた。カネナカはそんな頼母しさを感じさせる店だった。
間口七間、奥行五間の店の、半分は土間で、半分は畳敷になってい、この一段高い畳敷に、子供以外の客たちは腰をかけて、世間話をしながら、ゆっくりと買物をする。土間には塩、醬油、酒、油、黒砂糖などの樽や叺が置いてあり、酒や醬油や油は升売りをしていた。下駄、地下足袋、座敷箒、庭箒、はたき、桶、ざる、赤、白、黄、黒などの縫糸などが、あるいは吊るされ、あるいは立てかけられてある。更に畳の上に造られた棚には反物、布地、半纏などが整然と置かれ、鉛筆、ノート、煎餅、飴玉、駄菓子、マッチ、石鹸などの所狭しと並べられた一角もある。とにかくどこを見ても品物があふれていて、この店に入っただけで、子供も大人も心楽しくなるのだった。
だが、カネナカの一人娘志津代だけは、買物の楽しさを知らなかった。それだけに志津代は、買物に来る子供たちを見ると、羨望のまなざしになる。志津代は、買いに行かずとも欲しい物は何でも自分の店で手に入る。但し、客たちのように時間をかけて、品物を物色する余裕は、志津代には許されていなかった。
「さ、邪魔になるから」
と、早々に追い立てられ、何が店にあるのかさえ、ゆっくり眺める暇がない。で、志津代は時折そっと店をのぞくことがある。家屋の左手には一間幅の土間の廊下が、表から裏まで突きぬけている。今日のような暑い日には、この細長い廊下の両端の出入口の戸を開けると、浜風が吹きぬけて、ひんやりと肌に快い。今も、お弾き遊びに飽きた志津代は、お弾きを小箱に入れて、紫檀の茶ダンスの上に置くと、廊下の土間に下り立った。風が素足の足もとに心地よくふれる。サイとミネは、昼食の後始末を終えて、裏の畠にでも出かけたのか、台所はひっそりとしている。山の上から筧で引いて来る水の、水桶に流れ落ちる音がひそやかに聞えてくるだけだ。
志津代は赤い緒の草履を突っかけて、店のほうに歩いて行った。この土間の廊下と店の間を仕切る板戸がある。その板戸を志津代はそっと開けた。客の姿はなかった。帳場には父の順平が坐って算盤を弾いてい、母のふじ乃と番頭の嘉助は、呉服棚の前で浴衣地を広げて、何か話し合っていた。中番頭の久作は、大あぐらをかいて、そのあぐらの中に置いた下駄に、鼻緒を器用にすげている。三人の小僧はその傍らで久作の手もとを眺めていたが、一番古参の勘太が大きく口をあけて欠伸をした。と、その時、
「やれ、暑いなあ、今日も」
と、店にひと足足を入れたのは、風呂屋のお内儀だった。お内儀は太り肉の体をゆするようにして、外股で歩く。あけっぴろげな性格が苫幌の誰にも親しまれていた。
「ま、いらっしゃい。ほんとに暑いこと」
ふじ乃は広げていた浴衣地を片寄せて、愛想のよい笑顔を風呂屋のお内儀に向け、
「誰か冷たい麦茶を持っておいで」
と、命ずる言葉はきびきびと歯切れがよかった。勘太は素早く傍らの小僧の肩を指で突つき、
「へーい」
と、返事だけは大きかった。店の戸口に下げた紺ののれんにカネナカの字が白く染めぬかれ、ひと吹き吹いた浜からの風に、よじれて踊った。風呂屋のお内儀が畳の上にその大きな腰をおろした時、男の子や女の子たちが五、六人固まって入って来た。山の手の子供たちで、七つ八つから、十三、四の小学生たちだった。
志津代は思わず、自分の肩幅ほどに板戸を開けた。医師の娘や寺の息子にまじって、山形屋の文治の顔もあったからだ。文治は志津代より三歳年上の高等科三年生だった。山形屋の兄弟は、どれも頭がよいと評判だったが、わけても文治は光っていた。読み書きはむろんのこと、唱歌もうまく、その上いつの間に覚えたのか、オルガンは教師たちより巧みであった。人がうたうと、楽譜はなくともその歌に合わせて弾くことが出来た。濃い眉と通った鼻は整い過ぎていたが、笑うと、ぐっと親しみのある顔になった。去年の学芸会で、文治は「荒城の月」の独唱をした。澄んだその声が志津代の胸に沁みこむようであった。志津代は思わず涙をこぼした。それ以来、他の男子には感じないひとつの感情が志津代の胸に生れた。もし志津代が「ほのかなあこがれ」という言葉を知っていたら、そう言ったかも知れぬ淡いが持続した感情であった。
今も志津代の視線は、つい文治に注がれ勝ちであった。千代紙を選ぶ者、飴玉を買う者、煎餅を求める者など様々で、小僧たちも活気づいて、子供たちを相手に冗談口を叩いた。文治が一番年嵩だった。少し短い浴衣の裾から、すんなりと伸びた足に少年らしさがあった。文治が何を買うかと志津代は興味があった。廊下に立っている自分に気づいてほしいと思う一方、気づかれたくないという思いもあった。が、誰も、半分板戸に体を隠してのぞいている志津代に気づく者はいない。
文治は鉛筆を二本買った。そして小僧の勘太に金を渡した。鉛筆は二本で五厘である。その鉛筆を手に持った時、文治はうれしそうにその匂いを嗅いだ。どんな金持の子でも、五本も鉛筆を持って学校に来る子はいない。たいていは一本だった。真新しい鉛筆が二本もあれば、みんなが羨ましそうな顔をする。今、文治のうれしそうな横顔を、志津代もうれしそうに見つめていた。
子供たちは店の中をうろうろと眺めて歩いて、なかなか買う物が定まらない。子供たちはふだん、滅多に自分の買物をしない。親の使いで、酒やマッチや味噌などを買いに来る。が、今日は山の手で小さな祭りがあるのだ。祭りと言っても、小料理屋「あかね」の庭にあるお稲荷さんの祭りなのだ。親からもらった一銭か二銭の小遣いがうれしくて仕方がない。うっかり買物は出来ないのだ。もし買う物が決まっていても、文治のようにさっさと買ってしまっては、楽しみがなくなる。だから店の中をうろついてまわるのだ。弓張提灯があり、鉄鍋がある。鉄瓶があり、大ざる小ざるがある。炭俵がある。二分ランプ、五分ランプ、番傘、蛇の目傘、マッチ、団扇、などがある。あるものは棚に、あるものは天井から吊り下げられ、あるものは土間に置かれている。わけても駄菓子の入った猫瓶の前には幾度も行って見る。見るもの見るもの、ちょっとさわったり、突ついたり、手に取ったりして楽しんでみる。小僧たちはそんな子供たちの相手を三十分もしているうちに、いら立ってくる。が、順平は、
「いいことだよ」
と、店の者たちに言い聞かせる。店の中に、子供でもとにかく客がいることはいい。その買物を楽しむことはいい。この店にいることが楽しいのはいい。店に何があるか、記憶して帰るのはいい。いいことずくめだと順平は言う。そして、
「たとえ買物をしない子供でも、楽しませてやりなさい。その日は客でなくてもいつかは客になる」
と言って、決して邪険にはしない。
「さ、みんな、帰ろう」
ひと通り買物をすませたのを見て、文治は連れの子供たちに声をかけた。年嵩らしい語調だ。
「うん」
真っ先にうなずいて、にこっと文治を見上げたのは、医者の娘の八重だった。が、他の子供たちは、
「もう少し……」
と、甘えるように言った。その時勘太が、
「文治、その鉛筆の銭、払ったか」
と、咎める顔になった。
「払ったよ、すぐにさ」
順平やふじ乃は、風呂屋のお内儀と何か話しこんでいて気づかない。
「払った? 誰に?」
「お前にさ」
「冗談じゃない。もらっちゃいないよ」
勘太が前垂れのポケットに手を入れて言った。
「上げたったら」
「もらわんたら。な、もらわんよな」
勘太は二人の小僧たちに言った。二人は首をかしげた。
「上げたと言ったら上げたよ」
文治が濃い眉をきりりと上げて勘太を睨んだ。志津代は激しく動悸した。思わず志津代はその場に飛び出して行って、
「勘太! もらったじゃないの?」
と、食ってかかった。
「もらった?」
勘太は自信のない顔をした。
「そうさ。文治さんが鉛筆二本買って、お金を勘太に上げたの、わたしちゃんと見ていたんだもん」
志津代はきっぱりと言った。
「ふん、こんなどこの馬の骨かわからん者にひいきして……」
言いかけると文治の顔色がさっと変った。何か言おうとして文治は口を開きかけたが、そのまま店を飛び出した。これが、志津代が文治と関わりを持った初めであった。学校の夏休みが始まって、三日目のことであった。
八月に入って幾日か経った頃、順平は故郷の佐渡に今年も帰って行った。墓参を兼ねての仕入れの旅であった。年に一度は、順平は律儀に問屋に顔を出す。呉服問屋、醬油、味噌、酒の醸造屋、それらにいちいち顔を出す。ふだん仕入れのほとんどは、能登半島からの月に二回の定期船でこと足りた。定期船は日本海岸の主な港にやって来て、苫幌村の沖にも碇泊した。船が来ると、順平が先に立ち、若い者を連れて艀で荷を受け取りに行く。それで仕入れは事済むのだが、順平は自分の目で、年に一度は東京や京阪に足を延ばして、世の商いの様を学ぶことを怠らなかった。順平は馬車にガタガタ揺られて、旅立って行った。その順平の馬車が遠ざかるのを見送りながら、ふじ乃はふだんより上機嫌で、一緒に見送っている志津代の細い体を、息がとまるほど、力一杯抱きしめた。
順平が旅立った翌日、呉服物の行商人増野録郎がやって来た。順平がその昔、呉服の行商をしていた頃の仲間であった。