“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『雪のアルバム』について
連載 … エキスパート・ナース1985年5月〜1986年12月
出版 … 小学館1986年12月
現行 … 小学館文庫・小学館電子全集
自分の名前の「清」という字がおそろしいという清美。キリスト教の洗礼を受ける前に書いた〝信仰告白〟として語りが始まる。それは、誰にも言えない罪の告白だった。自分の人生に暗い影を落としてきたその暗部を、清美は思い切って打ち明ける。
「序章」
先生、今日礼拝が終ったあと、会堂を出ようとした私を、先生は呼びとめておっしゃいました。
「信仰告白を原稿用紙三枚ぐらいにまとめて持ってきてください」
牧師であられる先生は何でもないことのように、そうおっしゃいました。でも私はびっくりしてしまいました。なぜって、そうではありませんか。一人の人間が、なぜキリストを信ずるに至ったかということを、どうして原稿用紙三枚ぐらいにおさめることが出来るでしょう。多分、今まで洗礼を受ける人たちはそのようにしてきたのかも知れません。でも先生、私には出来ません。出来ませんというより、この際私は、自分のこれまでの心の生活を、神と人との前に書き綴らねばならないような気がいたします。私を救う神なんかこの世にいるものかと、思いつづけてきた私にとって、それは不可欠のことなのです。
先生、もしかしたら私は饒舌に過ぎるのでしょうか。そうかも知れません。私は近頃、大変な饒舌家になってしまったのかも知れません。でもね先生、それは私にとって喜ぶべきことなのです。ほめられるべきことなのです。
なぜならば、私は五、六歳の頃から自閉症児として、親や先生たちから厄介視されてきたからです。その私が、あふれるほどに語りたいことがある、いいえ、語ろうとしている、これは自分自身でも信じ難いほどの変りようなのです。先生、どうかこの私の饒舌を、しばらくの間忍んでお聞きくださいませんか。
先生は、月の光に草がぬれたように光っている夜の野道を、たった一人で歩かれたことがありますか。私は時々歩くのです。私の家の近くの、先生もご存じの、あの広い野原を歩くのです。月光にしっとりと光っている野道を歩く時、心の中までぬれて、自分自身でも思いがけないほど、やさしい思いになるのです。素直な気持にもなるのです。自分の足音だけがひたひたと聞こえて……。私は月の光を、自分もまたしっとりと浴びているような気持になって、月を仰ぐのです。
でも、先生。私はそうした素直な自分に帰ることが、とても恐ろしく思われました。それは、幼い時、私の心の扉がいやでも次々と閉ざされていった、いくつかのいやな思い出を、いつの間にか思い出しているからです。ふだんは歯を食いしばって、決して思い出すまいとしていたことが、月の光にぬれた野道に立つと、ごく自然に思い出されてくるのです。
先生、私は来月、つまり、七月が参りましたら二十三歳になります。先生は私の名前、浜野清美というこの名前を、どうお思いでしょうか。私は自分の名前が恥ずかしいのです。私はこの名をつけた私の両親を憎みさえいたします。私ならわが子に、清いとか、美しいとかいう字を決して用いないでしょう。仮に私が美しい娘であっても、その反対であっても、美しいという字は重荷です。いいえ、美しいという字だけなら、まだいいのです。私には清いという字が恐ろしいのです。なぜ、清いという字が恐ろしいのか、先生は私のこの生立ちをお読みくだされば、きっと納得してくださると思います。でも私の親たちは、そんな私の心を思ったことがあったでしょうか。親たち自身、清さにも美しさにも縁のない生き方をしながら、清美という名前に、恥ずかしさを感じなかったのでしょうか。
あ、私はここに親たちと書きました。けれども私は、父親の顔を知らずに育ったのです。父は死んだと聞かされて私は育ちました。私は母一人子一人の家庭に育ちました。母子家庭ではありましたけれども、父が残してくれたという家がありました。玄関、キッチン、トイレのほかに、十畳、八畳、六畳の三間しかない小さな平屋建ての家でした。
先生、私の母は、今年四十三歳になります。先生も確か一度お会いくださったはずです。色白で、肉づきのよい母は、人々から器量よしだと言われる顔立ちです。目がいつも燃えているようで、かすかに血走っていることがおおいのです。それが母のチャームポイントだと、人々は言います。いつも明るく笑っていて、楽しい人だと人々は言います。
でも、先生。私にとって母は、決して楽しい人ではありませんでした。四つ五つの頃から、私の心のどこかで、母がよその母親とどこかちがっているのを感じました。母の所には時々男の客がありました。ある時は背の高い、顔の青白い男だったり、ある時はあから顔の、いやに大きな声を出す男だったり、そんな人たちが五、六人いたようです。その男たちは、必ず一人で来ました。男が来ると、母は上機嫌で、
「清美、いい子だからね、母さんがいいっていうまで、外で遊んでいるんだよ」
といって、百円札を一枚私の手に握らせるのでした。男の来る日は、朝から母の様子がちがいました。母はいつもより早く起き、縁側の戸を開け放ち、いそいそと電気掃除機をかけました。ともすると一日中布団を敷いている母が、この日ばかりは別人のようにきびきびと働きました。
着る物もちがいました。大きな柄のワンピースを母は好んで着ました。そして鏡に向かって長い化粧が始まるのです。男は午前中に来ることもあり、午後に来ることもありました。けれどもなぜか、夜に来たことはありません。男の客と入れちがいに、私はもらった百円札を持って、外に出なければなりませんでした。
子供というものは、朝から晩まで外で遊んでいたいものです。でも、何時までは決して帰って来てはいけないと言われて外に出ると、不思議にちっとも楽しくないものなのです。友だちとかくれんぼをしてみても、砂遊びをしてみても、何か淋しいのです。そして急にのどが渇いて、家に水を飲みに帰りたくなったり、不意におなかが痛くなったり、トイレに駆け込みたくなったりするのです。
先生、私は百円札と引替えに、本当に他の子供の味わったことのない「死んでしまいたいような」淋しさ、辛さを幾度も味わいました。本当におなかが痛くなっても、家に駆け込むことが出来ない、トイレに駆け込むことが出来ない、足をばたばた踏みながら、私は唇を噛んで、どんなにその辛さに耐えたことでしょう。耐え切れなくなると、私は隣りの家に駆け込みました。
「小母さん、トイレ貸して」
半泣きになって私が駆け込むと、隣りの小母さんは、
「またかい、かわいそうにねえ」
と、眉根をよせました。この夫婦には、娘と息子の二人がおりましたけれど、二人とも家を離れて大学に行っていました。気のいい小母さんでした。しかし気のいい小母さんでも、私が初めてトイレを借りに飛び込んだ時は、
「自分の家のトイレに行けば?」
と、迷惑そうな顔をしました。私は、
「家に鍵がかかってるの。母さんが留守だから」
と、嘘を言いました。とても恥ずかしい嘘でした。そのうち事情がわかって、小母さんは、
「今日はどんな人が来ているの」
と、小声で尋ねるようになりました。それがどんなに私の心を傷つけているのかを、小母さんは気づかぬようでした。