『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』について

連載 … 幼児と保育1988年4月〜1989年7月
出版 … 小学館1989年12月
現行 … 小学館文庫・小学館電子全集
男児でなかったために、名前もつけられずにいた女児は、十歳の姉に「かつ」と名付けられた。嫁ぎ先でも苦労したかつは、兄の手伝いのため、子どもを手放し、九州を離れて東京に向かう。「力の限り生きぬこう」と心に決め、船中で「」と名を改めた。

「はじめに」

 本稿を書き起こすにあたって、私は明治時代のキリスト教主義の学校を調べてみた。昭和の時代の教育者にも、優れた人は多くいるかもしれないが、明治時代の教育者のなかには、実に魅力あふれる個性的な人物が少なからずいた。関西かんせい学院の創立者ランバス、同じ学院の吉岡二代目院長、札幌さっぽろ農学校のクラーク、同志社の新島にいじまじょう、日本女子大の創立に寄与した安井てつ等々、挙げればきりがない。
 そんななかでも、私の心をひいた一人の女性教育者がいた。矢嶋やじま楫子かじこである。この名を知っている人は、若い読者のなかには、おそらくいないのではないか。が、矢嶋楫子が初代の院長を務めた女子学院の名を知らぬ人は、ほとんどないであろう。
 さらに矢嶋楫子らが創立した日本キリスト教婦人矯風会きょうふうかいは今も活躍をつづけているので、この名をご存じの向きも多いことと思う。
 実は私も、矢嶋楫子の名前を知ってはいたが、どんな女性かは、まったく知らなかった。なんとはなしに、「偉い人」という堅苦しいイメージが、自分の側に勝手にあって、矢嶋楫子について知ろうという意欲はもてなかったのである。人間には、ともすれば自分の偏見によって人を嫌ったり、煙たがったりして、自分の世界を狭く生きる愚かなところがある。矢嶋楫子を調べながら、
(なぜ、この人をもっと早くに知ろうとしなかったのだろう)
 と、私は幾度も思ったことであった。六十も半ばを過ぎてから知るよりは、教師をしていたころの二十代に知っていたら、私はもっとちがった教師になっていたかもしれない。そして、自分の人生も大きく変わっていたかもしれない、とも思うのである。

つづきは、こちらで

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