こんにちは、レイです。
またお目にかかれてうれしいです。
もうすぐ2021年も終わりですね。皆さんにとって今年はどんな年でしたか?
本日12月31日は、三浦綾子が応募作『氷点』を書き終えてから58年がたった日です。
私にとって今年一番の出来事は、3月3日に秋本治先生の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(集英社、以下『こち亀』)の記事をご紹介できたことです。
一見何も接点がなさそうですが、主人公・両津勘吉さんのお誕生日に合わせて、三浦綾子との知られざる意外な接点をご紹介できたのがうれしかったです。
2000(平成12)年生まれの私にとって、自分が生まれるよりもはるか昔1922(大正11)年生まれの綾子の自伝や小説は、読んでもよくわからないことがいっぱいあります。でも、『こち亀』を読んで「綾子の頃はこんな時代だったのね!」とうなずく場面がいくつもありました。
この読み物では、前回の記事ではご紹介できなかった『こち亀』最新刊・第201巻の10話目の「お待たせ! 日暮の巻」を入口にして、両津の少年時代――1964(昭和39)年春から同年冬まで――の思い出が描かれた『こち亀』59巻の8話目「おばけ煙突が消えた日の巻」、そのお化け煙突を別の形で描いた『こち亀』141巻の9話目「希望の煙突の巻」とコミック未収録作品「希望の煙突―端島―」の三編をご紹介いたします!
(以下、紹介する『こち亀』作品の内容および結末に触れる記述があります。予めご了承をお願いいたします。)
1964(昭和39)年ってどんな年?
東京オリンピック開催
『こち亀』にとって5年ぶりの最新刊となる第201巻の10話目に「お待たせ! 日暮の巻」という話が収録されています。コミック詳細はこちらからご覧ください(新しいウィンドウが開き、集英社サイトに移動します)。
『こち亀』にはオリンピックイヤーに必ず登場する名物キャラクターがいます。日暮熟睡男(ひぐらし・ねるお)はその名の通り、普段は熟睡しており、4年に一度しか目覚めません。寝てばかりなのにクビにならないのは、特殊能力でいくつもの難事件を解決しているからです。
この話では、新たに時間移動能力を身に着け、過去へ移動した日暮を追って、両津と絵崎の二人は今から57年前――1964(昭和39)年10月10日、東京オリンピック開催日へとタイムトラベルします。
三浦綾子ファンにとって、1964(昭和39)年といえば……
三浦綾子『氷点』で作家デビュー!
三浦綾子ファンにとって、1964(昭和39)年と言えば、綾子が応募作『氷点』で作家デビューした年ですね!
7月10日、朝日新聞紙上で一千万円懸賞小説に『氷点』が入選したことが発表され、綾子は作家生活に入ります。新聞連載に合わせて応募作『氷点』は書き直され、同年12月9日から翌1965(昭和40)年11月14日まで朝日新聞朝刊にて連載されました。連載終了後の翌日、すなわち同年11月15日に単行本『氷点』が朝日新聞社より刊行されました。
綾子が受け取った賞金額が1千万円と高額だったことにも驚きますが(現在の貨幣価値だとおよそ1億円に相当すると言われています[1])、「氷点ブーム」と呼ばれた社会現象も強烈な印象を残します。ラジオドラマ化、テレビドラマ化、映画化、舞台化がされ、銘菓「氷点」も売り出されました。
中でも、1966(昭和41)年1月23日から放送されたテレビドラマ「氷点」(制作=NET・HBC)は、ヒロイン・陽子を内藤洋子、夏枝を新珠美千代が演じ、大きな話題を呼びました。最終回の視聴率は42.7%と驚異的な数字でした。[2]
その後も『氷点』は合計9回映像化され、陽子役は新人女優の登竜門とも言われています。いわば、今日でいうところのメディアミックスの走りではないでしょうか。
高額な懸賞金を両津が知ったらきっと前のめりになって小説を書き始めるはず。
案の定、『こち亀』57巻の1話目「文豪・両津勘吉先生の巻」[3]や173巻の4話目「ケータイ小説家の巻」[4]といったエピソードがありました。
前者に登場する「ワープロ」という単語に首を傾げた私でしたが、後者に登場する「ケータイ小説」や「ゲーム化」という語を聞くと、1999(平成11)年10月12日に亡くなった綾子が首をかしげることでしょう。このように40年間連載された『こち亀』には、様々な電子機器や携帯端末の変遷や当時流行したものが詳しく描かれているので、読み返してみて当時のことを懐かしく思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
綾子、東京へ
『氷点』入賞発表後の7月21日、授賞式と記念講演が朝日新聞社講堂で行われました。
前々日7月19日、綾子は母・キサ、末弟・秀夫と共に旭川から札幌を経由して東京へ向かいます。(当時、旭川空港はありませんでした。飛行機に乗るために札幌を経由する必要がありました。)
当時とはすっかり様変わりした東京ですが、なんと『こち亀』201巻の10話目に「お待たせ! 日暮の巻」には、有楽町にあった寿司屋横丁が背景に描かれています。[5]これは、当時有楽町にあった朝日新聞社の社屋(現・有楽町マリオン)付近の風景です。
もしかしたら、綾子たちもこの光景を見たのかしら……こう想像すると『こち亀』を通して綾子たちがぐっと身近に感じられます。
『こち亀』作中では、両津たちの頭上を新幹線が走る姿[6]も描かれていますが、残念ながら綾子たちはこの風景を見ていません。というのも、東海道新幹線が開通し、東京と大阪で出発式が開催されたのは、オリンピック開催9日前、10月1日のことだったからです。開催式直前に間に合ったのは、新幹線だけではありません。10月3日に日本武道館が開館し、すべてのオリンピック会場が完成したのは、なんと開会式の1週間前のことでした。
前述の通り、三浦夫妻は12月9日からの新聞連載に向けて大忙しの日々を送っていました。10月5日には、朝日新聞社学芸部の門馬義久が、日本画家・福田豊四郎とともに来旭。夫妻が緊張した面持ちで迎えたことが自伝『命ある限り』から読み取れます。
このころ、光世は職場の昼休みを利用して外国樹種見本林を見に行き、「秋日透き明るき胡桃林なり根方深々と笹生の茂り」という短歌を残しています。[7]
憧れのテレビがやってきた!
オリンピック開催のこの年について、『こち亀』59巻の8話目「おばけ煙突が消えた日の巻」では別の角度から描いています。この話では、両津たちにとって身近な存在だったおばけ煙突が、ある日突然取り壊されて跡形もなくなってしまうまでの時間の流れとともに教育実習生・佐伯との出会いと別れが描かれています。
題名となったおばけ煙突は、1926(大正15)年に東京電燈株式会社(のちの東京電力)が南足立郡千住町堤外西耕地(現・足立区千住桜木1丁目13番周辺)に稼働させた千住火力発電所の通称です。巨大な4本の煙突が、見る場所によってその数が異なることからこう呼ばれていました。
設計者は内藤多仲、1958(昭和33)年に東京タワーが完成するまで、東京都区部で最も高い構造物でした。[8]
当時日本最大の火力発電所でしたが、建物の老朽化や効率化のため1963(昭和38)年11月に閉鎖、翌1964(昭和39)年11月末には完全に姿を消します。[9]読者からの反響も大きく、秋本先生ご自身も、「手ごたえが感じられる話となりました」[10]とおっしゃっています。
このころ、一般家庭に普及した家電は何といってもテレビです。
総務省統計局の資料によると、当時、二人以上の勤労者世帯収入は月額58,217円(※農林漁家世帯を除く)。モノクロ・ブラウン管のテレビ1台の値段は55,000円[11]でした。ひと月分の収入とほぼ同額のテレビが憧れの家電だったことにうなずけます。
作中では、両津家にテレビがやってきて、母・よねが「オリンピックがわが家で見れるなんて夢みたいだね」[12]と開幕を楽しみにしている姿が描かれています。両津もとても楽しみにしていたに違いありません。
にもかかわらず、物語後半で両津はテレビそっちのけで自転車に乗っておばけ煙突へと向かいます。学校を去る佐伯のために、友人二人と大胆な行動に出た両津。電車内にいた佐伯同様、この光景を見ると熱いものがこみ上げてきます。
三浦家もやはりこの時期にテレビを買ったのでしょうか。
綾子がもらった賞金は一千万円ですから、10万円ほどのカラーテレビだって余裕で買えそうですね。[13]
気になる賞金の使い道ですが、まず450万円は税金で差し引かれました。光世は予め、自分たちのためには賞金を使わないと宣言しました。その通り、税金を差し引いた残りで父・鉄治が綾子の療養中にした借金を返済し、教会などへの献金やお世話になった方々へのお礼等をしました。綾子はテレビを欲しがりましたが、光世が首を縦に振りませんでした。その理由は、綾子が宿泊先では必ずテレビを見て夜更かしをしていたからでした。
光世著『綾子へ』によると、三浦家にテレビが来たのは旭川六条教会の会堂が新築された1974年のことでした。[14]
ようやく自宅でテレビが見られることになった綾子は大いに喜び、「恩赦ね」[15]と言います。
従って『氷点』がテレビドラマ化された時は、隣りの両親宅まで見に行っていました。テレビが来るまでは、もし大晦日の夜に紅白歌合戦が見たくなったら、両親宅まで見に行っていたのかもしれません。
長くなりましたので、この続きは後半で!
それでは、みなさま。
よいお年をお迎えくださいませ。
この読み物企画を公開するにあたり、秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』からの引用をご快諾いただきました集英社ご担当者の方に心よりお礼を申し上げます
(文責:岩男香織)
註
底本および参考文献は後半文末に記します。
[1] 東京オリンピックを迎えて -統計でみる いまと昔(2021年と1964年) 総務省統計局(閲覧日.2021-12-3)
http://www.stat.go.jp/info/pdf/2021hikaku.pdf
[2] 三浦夫妻は、お気に入りのテレビ番組「笑点」の番組名の由来が『氷点』であるとテレビ局関係者から聞いて、大変喜んでいた。事務局長・難波真実によると、光世本人からこのことを聞いたという。
[3] 文豪・両津勘吉先生の巻 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』57巻所収(ジャンプ・コミックス、集英社、1989年4月)、p18 ※両津が書いた小説がヒットし、署のイメージアップになると大喜びする署長や両津の上司で部長の大原が「現職で芥川賞を獲れば日本警察史にも載る可能性もありますね」と、大はしゃぎする様子が描かれている。
[4] ケータイ小説家の巻 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』173巻所収(ジャンプ・コミックス、集英社、2011年2月)、p73 ※幼稚園児の檸檬が書いた小説を両津がこっそりケータイ小説大賞に応募し、見事に入賞。両津は「大賞を取ったとたんに出版化 映画化 アニメ化 ゲーム化などの話が舞い込んできたよ!」と笑いが止まらない。
[5] お待たせ! 日暮の巻 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』201巻所収(ジャンプ・コミックス、集英社、2021年10月)、p145
[6] お待たせ! 日暮の巻 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』201巻所収(ジャンプ・コミックス、集英社、2021年10月)、p145-146
[7] 三浦光世 「妻を語る16」初出『三浦綾子全集 月報16』主婦の友社、1992年10月、p5、のち三浦光世『妻と共に生きる』(主婦の友社)に収録。
[8] 池亨ほか編『みる・よむ・あるく・東京の歴史8 地帯編5 足立区・葛飾区・荒川区・江戸川区』吉川弘文館、2020年3月、p34
[9] おばけ煙突|足立区 (city.adachi.tokyo.jp) (閲覧日.2021-12-3)
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-obakentotsu.html
[10] 秋本治『両さんと歩く下町-『こち亀』の扉絵で綴る東京情景』集英社新書(0265)、集英社、2004年11月、p56
[11] 東京オリンピックを迎えて -統計でみる いまと昔(2021年と1964年) 総務省統計局(閲覧日.2021-12-3)
http://www.stat.go.jp/info/pdf/2021hikaku.pdf
[12] おばけ煙突が消えた日の巻 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』57巻所収(ジャンプ・コミックス、集英社、1989年8月)、p151
[13] 町田忍『戦後新聞広告図鑑 戦後が見える、昭和が見える』東海大学出版部、2015年11月11日、p75には、昭和39年4月29日の朝日新聞に掲載された三菱製カラーテレビの広告が紹介されている。p62-p77を読むと、テレビの価格変遷がよくわかる。
[14] 略年表 旭川六条教会創立100周年記念事業委員会編『日本キリスト教団 旭川六条教会100周年記念誌』日本キリスト教団旭川六条教会、2003年5月、p505には新会堂の使用は、1974(昭和49)年12月1日の公同礼拝式からだったとある。
[15] 三浦光世『綾子へ』角川書店、2000年10月、p76