【2022年ゆく年くる年】年末年始読み物企画「三浦綾子生誕100年~新たな100年へ」第2章:新たな100年へ(3)『細川ガラシャ夫人』連載開始から50年

事務局ブログ

あけましておめでとうございます レイです。
今年もよろしくお願いいたします。

前回のお話から少し時間が空いてしまいましたが、今年で連載開始50年となる『細川ガラシャ夫人』について紹介しながら、前回までにご紹介しきれなかった事柄にも少し触れていきます。

前回までのおはなしと過去の読み物はこちらからお読みになれます。

第2章:新たな100年へ(3)『細川ガラシャ夫人』連載開始から50年

初めての歴史小説

綾子にとって初めての歴史小説『細川ガラシャ夫人』は、「主婦の友」1973年1月号(主婦の友社)より連載が始まりました(~1975年5月号)。

のち、1975年8月1日に単行本『細川ガラシャ夫人』(主婦の友社)が刊行、1986年3月25日には、新潮文庫版『細川ガラシャ夫人』上・下(解説・水谷昭夫)が刊行されました。

三浦綾子記念文学館の企画展としては、これまで2回開催されています。

  • 2007(平成19)年:三浦綾子の初めての歴史小説-細川ガラシャ夫人-(6月13日~10月12日)
  • 2017(平成29)年:『細川ガラシャ夫人』 明智光秀の娘・玉子の「道ありき」(6月1日~10月29日)

2020年、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀が取り上げられたこともあり、ドラマを機に新潮文庫版や電子書籍をお読みになった方もいらっしゃるかと存じます。
その翌年2021年2月19日からはオーディオブック版『細川ガラシャ夫人』(制作=パンローリング株式会社)がAudible(オーディブル)等で配信され、朗読で楽しめるようになりました。

執筆当時のことを自伝『命ある限り』にもから紹介します。

 十一月になった。その頃主婦の友社から細川ガラシヤの取材に行くようにと、求められていた。細川ガラシヤを私が書くことは石川数雄社長の希望であった。社長は「ガラシヤの『道ありき』を書いて欲しい」ということだった。つまり細川ガラシヤがいかにしてキリスト信者になったかを書けというわけである。私はこれにも逡巡していた。第一、私はまだ歴史物を書いたことがない。細川ガラシヤなる人物の輪郭さえも知らない。主婦の友社側では、とにもかくにも私にスタートを切らせるべく、取材旅行のプランを立てた。
 しかし体の不調で、私は気が進まない。社長は「取材はまだかまだか」と編集長や係の者を急き立てる。彼らは歴史に強い優秀な記者であった。いっかな取材旅行に腰を上げない私に、社長はしびれを切らして、「取材は後まわしでいい。とりあえず一月号から書き始めて欲しい」と言い出した。
 これには呑気な私もさすがに参った。ヒロインが、いつの時代のいかなる生き様をした人物かわからぬまま、しかも取材はあとにしても連載を開始せよという。この社長の熱意が、私の心の琴線にふれた。私に対する信頼ともいうべき社長の姿勢が感じられた。私は遅まきながら、ガラシヤに関する平易な本を読み始めた。そして、一読してガラシヤ夫人の生涯に、言い様もない感動を与えられたのである。感動が沸けばしめたものである。

三浦綾子『命ある限り』[第十章4 弟の死]

歴史小説を書いたことのない綾子の不安や戸惑いは自然なことですが、「体の不調で、私は気が進まない」とあるように1970年~1972年の間は、検査入院[1]やのどの不調[2]、1971年8月に血小板減少症と診断された時期と重なります。また、1971年11月10日に、心優しい弟・堀田昭夫が交通事故で急死[3]、翌年4月10日には信仰の先輩・五十嵐健治[4]が死去し、大切な人が相次いで亡くなるという、精神的に非常に辛い中、仕事をせざるを得なかったというのも不調の原因としてあげられるでしょう。

次に三浦光世『三浦綾子創作秘話』から引用します。

では、なぜこの歴史小説を書く気になったのか。綾子にその動機を与えたのは、当時の主婦の友社社長石川数雄氏の言葉であった。「道ありき」「この土の器をも」は共に自伝で、「主婦の友」誌に連載された。「道ありき」は彼女の十三年の闘病生活を軸に、絶望から希望に立ち上がる経緯、そして結婚に至るまでが書かれている。連載中から大きな反響もあり、石川社長も注目しておられたのであろう。一九七一年頃であったか、二人で社長室を訪ねた時にお言葉があった。
「今度は三浦さんに、ぜひ細川ガラシャの伝記を書いてほしいのです。いわばガラシャの『道ありき』を書いてください」と言われたのである。

三浦光世『三浦綾子創作秘話』[七「細川ガラシャ夫人」――初めての歴史小説]

これまでの綾子の仕事ぶりに注目していた主婦の友社側にすれば「売れっ子作家・三浦綾子先生の原稿が欲しい」「三浦先生の歴史小説第一作は是非ともわが社から」と考えるのは自然なことです。しかし、再三再四の催促にも関わらず、一向に着手しない綾子をこう励まします。

「とにかく手を着けることですよ。資料などは、書いているうちに、いくらでも調べられます。先ずは書き始めてください」
 確かに仕事は、手をつけなければ話にならない。想を練っているだけでは、いつになっても事は実現しない。すべてに愚図な私は、いつも痛感している。どうしても、簡単な仕事、とっつきやすい仕事を先にする傾向がある。兄にも言われたことがあった。
「仕事は、むずかしいものを先に叩かなきゃならんぞ」と。

三浦光世『三浦綾子創作秘話』[七「細川ガラシャ夫人」――初めての歴史小説]

事実、訪問すべき城や寺院、研究者等に当たって資料を揃え、2回の取材旅行には歴史に詳しい二人の社員を同行させ、綾子をサポートします。編集長・藤田敬治(ふじたけいじ)と担当編集者・渡辺節(わたなべたかし)の二人です。綾子自身「私は歴小説の取材の仕方を、イロハから教えてもらったことになる」と記しているように、綾子の疑問にも丁寧に対応します。渡辺節とは、後年『三浦綾子全集』全20巻が主婦の友社から刊行されたときにも一緒に仕事をしています。こちらで紹介した幻の小説〈浦上四番崩れ〉のために高野斗志美と一緒に取材に行った人物でもあります。

第1回目の取材旅行は、1972(昭和47)年11月初旬のことでした。
玉子が幽閉された丹後半島の味土野、細川家の大坂屋敷があったカトリック玉造教会、京都大徳寺、大津、坂本などを精力的に取材します。

第2回目の取材旅行は、1973年4月6日より開始。

大阪、京都市内、宮津市内、長崎、熊本への取材旅行へ出かけます(~4月20日)。[5]
この二つの取材旅行の合間に、仕事をしながら映画「塩狩峠」のロケ地・大夕張まで長距離移動もしています。

体の弱い二人がよくぞここまで……という多忙な日々についてはこちらでお話したとおりです。

でもこんな失敗も

ところで、「初めての歴史小説あれこれ」[6]や光世『三浦綾子創作秘話』には、こんな失敗も記されています。

 単行本になった「細川ガラシャ夫人」の巻末には、参考文献として三十冊近い書名が並んでいる。これらを綾子は、実に忠実に読んでいた。当たり前のことながら、このためにかなりの時間をかけたように思う。
 この参考文献の中に、永井路子氏著「朱なる十字架」がある。これも綾子は大いに参照した。そのあまり、永井氏の著作の中に出てくる登場人物の名前を、本名と思いこみ、自分の小説の中に登場させたのである。
「朱なる十字架」の中に玉子の姉が二人出てくる。その名が「倫」と「菊」である。これを綾子は、てっきりの本名と思って、自分の小説に取り入れてしまったのだ。
 これをある時、永井路子氏に告げたところ、
「あれは、わたしのつけた名前ですよ。昔の女は名前などほとんど残っていないのですよ」 と言われて、愕然とする。

三浦光世『三浦綾子創作秘話』[七「細川ガラシャ夫人」――初めての歴史小説]

 光世は「もっと資料にも目を通して、協力できなかったかと思わぬでもないが、そんなゆとりも能力もなかった」と自身の力不足を記していますが、当の綾子は「『細川ガラシャ夫人』を書き終えて」(『私にとって書くということ』所収)でこう書いています。

「でもね、私の場合ありがたいことに、小説を書くにも相手がいるんです。たった一人で部屋の中にいるのとちがって、うなずいてくれる人がいる。私はいま手がきかないものですから、私が点や丸までつけてざーっとしゃべるのを、三浦が書いてくれるんです。ごらんになっておわかりかどうか、『塩狩峠』は全篇口述なんですよ。からだが弱い割にたくさんの連載をもてるのは、口述ができるからなんです。

(中略)

ですから、私は、三浦がいなくなったらもう小説は書けないんじゃないかしら。」

三浦綾子 『細川ガラシャ夫人』を書き終えて(『私にとって書くということ』所収)

思いこみによる間違いを知った時、もしかしたら綾子の顔面は青くなり、嫌な汗が出るのを感じたかもしれません。でも、綾子がそう思いこんだ気持ちもわからなくないのです。

永井路子と「近代説話」の同人たち

小説家・永井路子は、1925(大正14)年生まれなので、ちいろば先生こと榎本保郎と同年になります。

1964(昭和39)年10月に刊行された短編連作集『炎環』(光風社)により、第52回直木賞受賞したことは、第1章:(4)『氷点』入選で紹介したとおりです。が、三作品「悪禅師」「黒雪賦」「いもうと」が掲載された文芸雑誌「近代説話」は今から60年前、すなわち1963(昭和38)年の5月に終刊しました。第1章:(2)作家前夜その1では、終刊のみにとどめ、永井路子「いもうと」が掲載されたことは紹介しませんでした。

と、いうのもこの「近代説話」、すごいんです。

「近代説話」の存在が注目されたきっかけは、を同時受賞したことにあります。文芸評論家・尾崎秀樹の文章を読めば、「!」となる方も少なくないと思います。

なお『背徳のメス』とならんで、寺内大吉の『はぐれ念仏』が同時に受賞したことから、二人の所属する同人誌「近代説話」の存在が注目された。この同人誌からはすでに司馬遼太郎が出ていた。寺内大吉の受賞作も「近代説話」に掲載されたものであり、話題になるのは無理もなかった。「近代説話」は昭和三十二年五月に創刊され、三十八年五月までに十一号を出して休刊となった同人雑誌だ。六年間に十一冊というのはいかにものんびりしている。しかしこの雑誌からは、すでにふれた司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾のほかに、伊藤柱一、永井路子とつづいて直木賞受賞者を出しており、同人誌としては打率のいいグループだった。[7]

尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』(泰流社)

永井路子が「近代説話」の同人となったのは、この翌年1962(昭和37)年でした。

同人たちの中で最後だったとはいえ、直木賞を受賞した永井路子。しかも尾崎秀樹は「近代説話」の主な掲載作品について、このように書いています。

 司馬遼太郎の「戈壁ゴビ匈奴きょうど」「兜卒天とそつてんの巡礼」、寺内大吉の「梵唄ぼんばい鈔」「はぐれ念仏」、黒岩重吾「病葉わくらばの踊り」「新説信太しのだ狐」、伊藤桂一の「黄土の記憶」「蛍の河」、永井路子の連作「炎環」など、直木賞受賞作をふくむ作品は、いずれもりっぱに商品として通用するだけの内容と形式を備えており、「近代説話」の拠って立つところを明示するものだった。

(中略)

 「近代説話」に拠った書き手は、いずれも昭和四十年代を先取りした人々だったのではないだろうか。[8]

尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』(泰流社)

「近代説話」の同人たちは、すでに出版社の懸賞小説での入選を果たし、商業誌に複数の作品を発表している実力派ぞろいです。特に目を引くのが、今年生誕100年となる司馬遼太郎、数多くの古代史小説を発表した黒岩重吾の存在です。したがって、本稿では「近代説話」は同人誌というよりはむしろ文芸雑誌に近いと考えて、文芸雑誌という表記をとりました。

1961(昭和36)年、永井路子は「青苔記」が第45回直木賞候補となったのを機に小学館を退職していますが[9]、年譜を見るとその有能さがうかがえます。

入社したのは1949(昭和24)年11月。創刊準備中の「女学生の友」の編集に携わり、以後10年間従事します。前後しますが、同年5月に結婚。[10]仮に家事を手伝ってくれる存在が身近にいたとしても、「三種の神器」と呼ばれた家電製品が出てくるのはもう少し先のこと。仕事とプライベートの両立は相当大変だったと思います。

1960(昭和35)年に、雑誌「マドモアゼル」が創刊。永井路子は小学館で初の女性副編集長に就任したのです。[11]

綾子の小説やエッセイが「女学生の友」[12]や「マドモアゼル」[13]に掲載されたのは、永井路子の退職後のことですが、綾子を担当した編集者たちを通じて永井路子の有能さを聞いていたことは想像に難くありません。

また綾子が『朱なる十字架』を読み始めたころには、永井路子はすでに何作品もの歴史小説を発表していました。「倫」「菊」を本名だったと思いこんでも無理はない気がします。

最も、これは私の憶測にすぎないのではありますが……

色あざやかな思い出

文芸評論家・尾崎秀樹は、1928(昭和3)年11月29日、台湾で生まれました。綾子より6歳年下ですが、亡くなったのは綾子の死の直前、1999年9月21日でした。三浦綾子については『三浦綾子全集』第10巻の解説等を書いていますし[14]、一緒に講演活動も行っています。[15]

尾崎秀樹と同年の小説家には、原田康子や田辺聖子がおり、綾子の作品について多くの解説を書いた文芸評論家・水谷昭夫とも同年になります。

管見の限り、尾崎秀樹が評した三浦綾子に関する文章で最も古いものは1967年「朝日ジャーナル」2月26日号に掲載された「戦後ベストセラー物語〈70〉三浦綾子「氷点」 視聴覚時代の懸賞小説」[16]で、メディアミックス効果によって『氷点』がヒットしたことを指摘しています。この文章が収録された朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』(朝日選書108、朝日新聞社)には尾崎秀樹による「昭和41年~52年の出版界」という文章があり、当時の出版状況をこのように評しています。

 黄金の一九六〇年代は高度成長のばら色の幻想につつまれていた。(中略)

 そのゴールデン・シクスティーズを象徴するのは、三つの一千万物語だった。プロ野球の観客動員数が昭和三七年三月には一千万人を超え、東京都の人口も一千万人に達し、テレビの受信機台数も一千万の大台にのった。さらに活字の分野では、三浦綾子の『氷点』が、昭和三九年に朝日新聞社の創立八五周年を記念して企画された一千万円懸賞小説に当選し、翌年単行本にまとまった。また山岡荘八の『徳川家康』の発行部数が一千万部を超えたのは、昭和四〇年三月だった。全二六巻のうち、二二巻を出した段階で延べ部数一千万部を記録したのは破格的なケースだが、経営虎の巻として管理職クラスや中小企業の経営者にひろく読まれたことも、ベストセラーの条件となった。[17]

尾崎秀樹 昭和41年~52年の出版界(朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社))

 短いながらも1960年代の特色を端的にとらえ、当時の出版状況や時代の変化を踏まえた「『氷点』とその時代」評として優れた文章です。

 自伝『命ある限り』には、尾崎秀樹が旭川を訪れた1967年春のことが書かれています。ちょうど、口述筆記で『塩狩峠』をしていた頃です。「口述の文章は、センテンスが長くなり勝ちであるから注意するように」というアドバイス受けたことのみが記されています。が『三浦綾子作品集9』月報2には、尾崎秀樹の「『氷点』取材の思い出」が収録されており、この時の出来事だと思われることが記されています。

 三浦綾子さんの旭川のお宅をお訪ねしたのは、もう十数年前のことである。ちょうど「マドモアゼル」という雑誌に文学に現れた愛のかたちについて、取材をもとに執筆していた時だ。
 『氷点』の舞台である旭川やその周辺をぜひ歩いてみたいと思い、三浦さんに連絡した。すると、気軽に案内役まで買ってくれたのである。
 まず三浦家で落ち合い、光世氏もまじえて、『氷点』の舞台をまわった。旭川郊外の美瑛川のほとりにある見本林(旭川営林局管轄の国有林)、近文のアイヌ聚落の上にあるアイヌ墓地、高砂台のレストハウスなどだけでなく、最後には天人峡までも足をのばした。[18]

尾崎秀樹 『氷点』取材の思い出」 『三浦綾子作品集9』月報2

三浦夫妻との文学散歩が尾崎秀樹にとって色あざやかな思い出となったことは「『氷点』取材の思い出は、今もあざやかである。」という結びの文章からうかがえます。[19]

ところで「近代説話」の説明については、尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』(泰流社)から引用しました。引用文をよんで「何故黒岩重吾?」と思われた方がいらっしゃるかもしれませんので、「黒岩重吾年譜」(尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』所収)[20]を参照しながら補足致します。

黒岩重吾は大正13(1924)年2月25日に大阪で誕生、光世も同年4月4日に誕生したので、学年こそ違いますが二人は同い年となります。2003年3月7日に入院先の病院で死去、自らを「小説の鬼」と評したことは、入院中も連載小説の原稿を書き続け、二作とも完結させたことからうかがえます。『役小角仙道剣』(新潮社)と『闇の左大臣 石上朝臣麻呂』(集英社)です。[21]今年2023年は黒岩重吾没後20年となります。

1945(昭和20)年8月15日、終戦の日をソ連国境付近で迎えた黒岩重吾は、命からがらの逃避行の末帰国します。翌年2月、同志社大学法経学部法科へ復学、1947(昭和22)年9月に卒業します。このころのことは、『人間の宿舎』『裸の背徳者』『カオスの星屑』といった初期の自伝的小説に反映されています。

ところで、『ちいろば先生物語』を読まれた方ならあることに気づくかと思います。

「ちいろば先生と黒岩重吾って、もしかして同志社大学構内ですれちがっていた!?」ということです。[22]私も非常に気になっていますが、真相は神のみぞ知るというところでしょうか。

もう一つ看過できない出来事があります。それは黒岩重吾が全身麻痺により、1953(昭和28)年8月から1951(昭和31)年の三年にもわたる闘病生活を余儀なくされたことです。人生で最も辛かったと語る闘病生活のことはエッセイ『どぼらや人生』『どかんたれ人生』や小説『我が炎死なず』に詳しく書かれています。

 作家としてデビュウした昭和三十五年から六年頃、私の波乱万丈だった過去の生活が知られるにつれ、次のような質問を良く受けた。
「黒岩さんが、一番辛かった時代は何時ですか、軍隊時代、全身麻痺だった頃、それともキャバレー時代ですか、行商をしていた頃も辛かったでしょう」
 そんな質問に対して、私は闘病時代です、と即座に答えたものである。
 何といっても、身体が動かず、ベッドに横たわったきりで、しかも、治る可能性も少なく、その上、株で全財産を失い、あるのは借金だけ、という状態だから、地獄とは、ああいうものだと今でも思う。[23]

黒岩重吾 『どかんたれ人生』[ステッキの音]

黒岩重吾は「近代説話」の同人となり、尾崎秀樹と知り合った時のことを「豊潤な怨念の人」(尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』所収)でこう書いています。

 尾崎氏と知り合ったのは、昭和三十五年、第二次近代説話の同人になった時である。学生時代肺を患い、片肺を切除した氏は痩身で、私と同じく四十五、六キロの体重だった、と記憶している。私も病巣の中からやっと這い出て来た人間だから、氏と会った時、直ぐ通じ合うものを感じた。お互いの人生経験は異なるが、氏の中に燃えている怨念の炎を熱く感じたからである。[24]

黒岩重吾「豊潤な怨念の人」(尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』所収)

他にも「人間的に幅の広い豊潤さ」と「行動力のたくましさ」を持った人物だと評しています。[25]

さて、再び三浦綾子と尾崎秀樹とのことに話を戻します。
『三浦綾子全集』第10巻の解説で尾崎秀樹は自身の療養生活をこう回顧しています。

 私も昭和二十四年に発病し、七年の療養生活を送った経験がある。当時は結核は死に至る病であった。私は肺結核から腸結核、腎臓結核を併発し、医師から死期を宣告されたほどだった。さいわいに特効薬が出るようになり、それが死から生への転機ともなったが、昭和三十年代に療養所から出所したときは、すべてをゼロからはじめなくてはならなかった。[27]

尾崎秀樹 解説(『三浦綾子全集』第10巻所収)

黒岩重吾が尾崎秀樹の評について「時たま放つ氏の言葉には、氏の心田から生じた人生観、小説観が滲み出ておりおり、夾雑物がない、だからといって、氏は閉鎖的ではない。人間的に巾の広い豊潤さを内蔵している。」[26]と評していますが、この後に続く文章を読んでいくと、宋の通りだとうなづけます。

尾崎秀樹は、全集の解説でも、1967年春に三浦夫妻の案内で外国樹種見本林を散策したことをつづっています。「単なる案内役でなく、作者とともに歩くことによるいろいろな発見が、私には得がたい財産となったのである」[28]と述懐しています。

 三浦綾子がこの見本林を訪ねたのは、三浦光世と結婚して二年ほどたった昭和三十六年のことだったという。見本林は三浦光世の勤務する営林局から五、六百メートル離れたところにあって、彼はよく散歩に行っていたらしい。「いい所ですよ。あなたがなおったら連れて行ってあげますよ」と何度かいわれた。三浦光世は療養中の彼女を四年も待った。そしてこの見本林のなかで、ひそかに彼女の全快を祈っていたという。
 私はそのことを知って見本林が、三浦綾子にとって重要な精神的位置をしめることを教えられた。

(中略)

 啓造が陽子を連れてゆくアイヌ墓地にも行った。そしてさらに層雲峡や高砂台のレストハウスにも足をのばした。三浦夫妻とともに、それらの地をまわり、作家と作品のかかわりを、実際に確かめられたことは、私にとっては二重のよろこびであった。私はそのことを今でもあざやかに思い出すことがある。[29]

尾崎秀樹 解説(『三浦綾子全集』第10巻所収)

文芸評論家として、作者から直に話を聞きながら外国樹種見本林にいるという喜びは言うまでもありませんが、三浦夫妻と同様に結核による長い療養生活を余儀なくされた尾崎秀樹にとって、光世が祈り続けたその場所に、今、綾子と光世が二人で立っており、そこに自分もいる、そしてこの場所を舞台に『氷点』という作品が生まれたのだという、読者としての感動が押し寄せたことは想像に難くありません。私自身、初めて三浦綾子記念文学館を訪れた時に感じた「ついに来た!」という思いは忘れられないからです。

1998(平成10)年6月13日に開館した三浦綾子記念文学館は、尾崎秀樹の言葉を借りれば「三浦綾子にとって重要な精神的位置をしめる」外国樹種見本林であり、光世が綾子のために祈りをささげた場所にあります。

同時に私たち読者にとっても『氷点』の舞台となった大切な場所で、心のよりどころであったことは言うまでもありません。

開館から20年後の2018(平成)年9月29日、多くの作品が生まれた口述筆記部屋が移築復元され、分館として開館しました。

ご来館された折は、外国樹種見本林はもちろん、文学マップやスマホを片手に作品ゆかりの地にも足をのばしてみてください。その体験は尾崎秀樹と同様、いつまでもみなさんの心の中に色あざやかなよろこびとして残ることでしょう。(了)

(文責:岩男香織)

本稿は、当初刊行を予定していた『三浦綾子文学年譜』(仮)の草稿を読み物として書き直したものです。このため、文中の敬称はすべて省略いたしました。予めご了承をいただければ幸いです。

[1] 1970年1月、友人で薬剤師・阿部直枝の紹介で札幌市内の病院に検査入院。良性の腫瘍ができているとのことだったが、診察の外にでると、光世が本(榎本保郎『ちいろば』聖燈社)に夢中になっている姿に不満を感じる。

[2] 1970(昭和45)年10月30日に大阪で講演を行った際、のどを痛め、前癌状態の疑いと診断されて以来、喉の不調が二年ほどつづいたことを指します。1972年9月には再び出血があり、しばらく続いた。

[3] 弟・昭夫は綾子にとって一番世話になった弟といっても過言ではない。療養中にのれん事業を始めるために資金として35万円を工面し、休日を利用して道内各地にのれんを売り歩いてくれた。新婚当初住んでいた家は、弟・昭夫が以前から借りていた家。

[4] 五十嵐健治は、クリーニング会社・白洋舍を創業した人物で、綾子にとっては信仰の先輩。『続氷点』に登場する茅ケ崎の祖父のモデル、伝記小説『夕あり朝あり』の主人公でもある。

[5] 『細川ガラシャ夫人』の「取材旅行日程表」は、2017年度企画展として「『細川ガラシャ夫人』 明智光秀の娘・玉子の「道ありき」」にて展示された。

[6] 初めての歴史小説あれこれ 初出:「小説宝石」(光文社)1975年10月号。単行本未収録だが、村田和子 年譜(『三浦綾子全集第20巻』主婦の友社所収、p497)に一部が引用されている。このため、本稿では入手しやすい後述の三浦光世『三浦綾子創作秘話』から該当箇所を引用した。

[7] 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p35-36
1961(昭和36)年1月、黒岩重吾『背徳のメス』(中央公論社)と寺内大吉『はぐれ念仏』(近代説話)の二作が第44回直木賞を受賞した。

[8] 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p37

[9] 磯貝勝太郎編 年譜 永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』(中央公論社)所収、1996年2月7日、p479

[10] 磯貝勝太郎編 年譜 永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』(中央公論社)所収、1996年2月7日、p478

[11] 磯貝勝太郎編 年譜 永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』(中央公論社)所収、1996年2月7日、p479

[12] 管見の限り、以下3作品が掲載。

  • 雨はあした晴れるだろう 別冊「女学生の友」(小学館)1966年5月号
    のち、『雨はあした晴れるだろう』角川書店および『手から手へ 復刊シリーズ7 雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館に収録。
  • カッコウの鳴く丘 「女学生の友」1966年7月号
    小冊子 ジュニア小説『カッコウの鳴く丘』(三浦綾子記念文学館)『手から手へ 復刊シリーズ7 雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館に収録。
  • 「ごめんなさいね」 「女学生の友」(小学館)1966年5月号
    のち『遺された言葉』(講談社)に収録。
  • 『草のうた』 「女学生の友」(小学館)1967年4月号~1968年3月号 ※単行本未収録
  • 茨の陰に 「JOTOMO」、4月~12月、小学館 
    のち、『雨はあした晴れるだろう』角川書店および『手から手へ 復刊シリーズ7 雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館に収録。

[13] 管見の限り、以下3作品が掲載。

  • 「氷点」のモデル 15年の苦悩 事実は小説よりも感動的である 「マドモアゼル」1966年5月号
  • 雪の旭川・凍てつく地に生きる人々 「マドモアゼル」1968年11月号
    『あさっての風―あなたと共に考える人生論』所収、収録の際に、「雪の旭川」に改題

[14] 管見の限り、下記の通り。

  • 尾崎秀樹 戦後ベストセラー物語〈70〉三浦綾子「氷点」 視聴覚時代の懸賞小説 「朝日ジャーナル」第9巻第9号、通巻第418号、1967年2月26日、朝日新聞社 
    のち朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社、1978年6月20日
    『大衆文学の歴史(下)戦後編』(1989年3月、講談社)に収録。収録の際に、「三浦綾子と“原罪”」に改題。
  • 尾崎秀樹 昭和41年~52年の出版界 朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社、1978年6月20日
  • 三浦綾子の世界 「季刊創造」、1977年10月、聖文舎
  • 解説 朝日文庫『天北原野』下、1978年、9月20日、
  • 恋愛小説探訪―『天北原野』の貴乃 新潟日報夕刊、新潟日報社、1978年5月24日
  • 『氷点』取材の思い出 『三浦綾子作品集第九巻 月報2』朝日新聞社、1983年6月25日、)
  • 旭川市内と氷点の原点 『歴史と文学の回廊 第1巻 北海道・東北1』ぎょうせい、1992年8月10日
  • 「解説」(『三浦綾子全集 第十巻』、1992年8月12日、主婦の友社
  • 「三浦綾子文学の魅力」「国文学解釈と鑑賞」1998年11月号、至文堂、1998年11月1日、)

[15] 1990年9月20日、三浦綾子全集完結記念文化講演会がお茶の水スクエアA館カザルスホール にて開催。講師は文芸評論家・尾崎秀樹、文芸評論家・高野斗志美がそれぞれの立場から三浦文学を語った。「三浦綾子の文学世界」(尾崎)「三浦文学を通じた現代の祈り」(高野)、定員511名だったが、1,000人を超える聴衆がロビーにまであふれた。挨拶の予定は15分だったが、それをはるかに超え、会の最後には光世の讃美歌独唱 というハプニングもあり、大いに盛り上がった。光世と一緒に登壇した写真が撮影、直近では以下に掲載。田中綾「あたたかき日光-光世日記より 第40回 第十一章「母」の愛2 北海道新聞朝刊19面(サタデーどうしん)、2022年12月24日

[16] 尾崎秀樹 戦後ベストセラー物語〈70〉三浦綾子「氷点」 視聴覚時代の懸賞小説 初出「朝日ジャーナル」第9巻第9号、通巻第418号、1967年2月26日、朝日新聞社 
のち朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社、1978年6月20日
および『大衆文学の歴史(下)戦後編』(1989年3月、講談社)に収録。
収録の際に、「三浦綾子と“原罪”」に改題。

[17] 尾崎秀樹 昭和41年~52年の出版界 朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社、1978年6月20日、p328

[18] 尾崎秀樹 『氷点』取材の思い出 『三浦綾子作品集第九巻 月報2』、1983年6月25日、朝日新聞社、p1

[19] 尾崎秀樹 『氷点』取材の思い出 『三浦綾子作品集第九巻 月報2』、1983年6月25日、朝日新聞社、p2

[20] 尾崎秀樹 黒岩重吾年譜 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p-p参照。
同年譜では、1979(昭和54)年までのため、清原康正「黒岩重吾 著作年譜」(黒岩重吾『とっておきの手紙』たちばな出版、p314-p326)も参照した。

[21] 清原康正 編纂を終えて 黒岩重吾『とっておきの手紙』たちばな出版、2004年3月18日、p308

[22] ちいろば先生こと榎本保郎が同志社大学神学部の聴講生となったのは1947(昭和22)年1月

[23] 黒岩重吾 『どかんたれ人生』[ステッキの音] 『黒岩重吾長編小説全集 19 どかんたれ人生/我が炎死なず』光文社、1977年4月25日、p22

[24] 黒岩重吾 豊潤な怨念の人 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p290

[25] 黒岩重吾 豊潤な怨念の人 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p290

[26] 黒岩重吾 豊潤な怨念の人 尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月31日、p290

[27] 尾崎秀樹 解説 『三浦綾子全集 第十巻』主婦の友社、1992年8月12日、p534

[28] 尾崎秀樹 解説 『三浦綾子全集 第十巻』主婦の友社、1992年8月12日、p535

[29] 尾崎秀樹 解説 『三浦綾子全集 第十巻』主婦の友社、1992年8月12日、p535
三浦綾子記念文学館開館時にで綾子が言った通り、小学生の時に一度、女学生時代に一度、それぞれ遠足で見本林を訪れているので、「昭和三十六年」ではない。自伝等で「三浦と私が初めて」と書いたつもりが「三浦と」が抜けたのが原因と思われることが「あいさつ セレモニーにて」(『遺された言葉』所収)に書かれている。

底本

三浦綾子『三浦綾子全集』主婦の友社、全20巻

全集未収録の作品および光世の作品については以下を底本とした。

三浦綾子電子全集、小学館

三浦光世電子選集、小学館

主要参考文献(三浦綾子に関するもの)

著者名等の50音順、刊行年月が同一の場合は、刊行年月日順

研究書

小田島本有『三浦綾子論―その現代的意義―』柏艪舎、2022年4月
片山礼子『三浦綾子小論 『氷点』『道ありき』、短歌のことなど』蒼丘書林、2019年3月
上出恵子『三浦綾子研究』双文社出版、2001年3月
久保田暁一『三浦綾子の世界―その人と作品』和泉書院、1996年4月
久保田暁一『「お陰さまで」 三浦綾子さん一〇〇通の手紙』小学館、小学館文庫、2001年3月
黒古一夫『三浦綾子論――「愛」と「生きること」の意味』1994年6月、小学館
黒古一夫『黒古一夫 近現代作家論集 第6巻 三浦綾子論、灰谷健次郎論、井伏鱒二論』アーツアンドクラフツ、2019年12月
佐古純一郎『三浦綾子のこころ』朝文社、1989年10月
竹林一志『聖書で読み解く『氷点』『続氷点』』いのちのことば社フォレストブックス、2014年10月
竹林一志『三浦綾子文学の本質と諸相』新典社、2022年4月25日
水谷昭夫『燃える花なれど 三浦綾子の生涯と文芸』新教出版社、1986年4月
水谷昭夫『三浦綾子―愛と祈りの文芸』主婦の友社、1989年12月
森下辰衛『「氷点』解凍』小学館、2014年4月

書誌

東延江『三浦綾子随筆書誌(連載含む) 1964年7月~2001年3月』自家版、2001年(平成13)8月20日

岡野裕行『三浦綾子書誌』勉誠社、2003年4月

村田和子編 年譜・著作目録 『三浦綾子全集第二十巻』主婦の友社、1993年2月、

年譜 著作・参考文献目録 『三浦綾子作品集 第十八巻 孤独のとなり 光あるうちに 年譜 著作・参考文献目録』朝日新聞社、1984年7月

評伝

岡野裕行『日本の作家100人 三浦綾子――人と文学』勉誠社、2005年11月、
高野斗志美『評伝三浦綾子―ある魂の軌跡』旭川振興公社、2001年10月
宮嶋裕子『三浦家の居間で 三浦綾子――その生き方にふれて』いのちのことば社、2004年1月
宮嶋裕子『神さまに用いられた人 三浦綾子』教文館、2007年10月

文学アルバム等

後山一朗撮影『永遠に……三浦綾子写真集』北海道新聞社、1999年11月
金巻鎮雄『三浦綾子の世界 小説の舞台を写真で綴る』総北海、旭川文庫6、1984年(昭和59)11月
近藤多美子撮影『写真集 遥かなる三浦綾子』講談社出版サービスセンター、2000年10月
主婦の友社編『三浦綾子――文学アルバム』主婦の友社、1991年4月
菅聡子編 作家ガイド 三浦綾子(河野多惠子、大庭みな子、佐藤愛子、津村節子監修、『女性作家シリーズ13 三浦綾子/宮尾登美子』角川書店、1998年11月、p418-421)
北海道新聞社編『幼子のごとく 三浦綾子文学アルバム』北海道新聞社、1994年11月
北海道文学館編『三浦綾子―いのちへの愛』北海道新聞社、北海道文学ライブラリー、1998年5月
『三浦綾子記念文学館図録』三浦綾子記念文学館編集、三浦綾子記念文化財団、1998年6月
三浦綾子記念文学館編集『生きること ゆるすこと 三浦綾子 新文学アルバム』北海道新聞社、2007年6月
三浦綾子著、三浦綾子記念文化財団編集、上出惠子監修『三浦綾子生誕100年記念文学アルバム―ひかりと愛といのちの作家―』三浦綾子記念文化財団、2022年10月
『三浦綾子に出会う本』いのちのことば社、1999年(平成11)6月

三浦綾子文学マップ

「旭川 三浦綾子文学散歩」三浦綾子記念文学館発行、制作年月日不明

三浦綾子記念文学館「あさひかわの街で『氷点』を歩く」【氷点マップ】【見本林マップ】 制作協力 生駒組・企業メセナ委員会 2011年配布

主要参考文献(三浦綾子以外)

著者および編者の50音順、同一作者のものは刊行年月日順

単行本

朝田明子編『文藝別冊 瀬戸内寂聴〈増補新版〉愛と文学に生きた99年』KAWADEムック、河出書房新社、2012年7月

旭川六条教会 創立100周年記念事業委員会編『日本キリスト教団旭川六条教会100周年記念誌』日本キリスト教団旭川六条教会、2003年5月

旭川市史編集委員会編『旭川市史』全6巻 旭川市役所(1959年4月~1972年3月)

旭川市市史編集会議『新旭川市史 第四巻・通史四』旭川市、2009年3月

旭川市文芸編集員会編『旭川市民文芸 旭川文芸百年史』旭川川市文化団体協議会、2008年11月

朝日新聞社編『ベストセラー物語 下』朝日選書108、朝日新聞社、1978年6月

朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編 昭和20年(1945年) 昭和64年(1989年)』朝日新聞社、1994年

朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 資料編 明治12年(1879年)~昭和64年(1989年)』朝日新聞社、1995年1月

伊藤整著、伊藤礼編『伊藤整日記 6 一九六三-一九六五』平凡社、2022年3月25日

歌志内市史編さん委員会編『新歌志内市史』歌志内市、1994年3月

宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年3月

江藤茂博著『映画・テレビドラマ原作文芸データブック』勉誠出版、2005年7月

榎本保郎『ちいろば』聖燈社、1968年12月

遠藤周作『遠藤周作全日記 【下巻】 1962-1993』河出書房新社、2018年5月30日 初出:「三田文學」1997年夏季号(1997年8月)、のち1997年9月に単行本『『深い河』創作日記』(講談社)刊行。

遠藤順子『夫の宿題』PHP研究所、1998年7月

遠藤周作『遠藤周作全集 第十五巻 日記 年譜・著作目録』新潮社、2000年7月

尾崎秀樹『大衆文学』紀伊国屋新書、紀伊国屋書店、1964年4月(本年譜では、復刻版『大衆文学』紀伊国屋書店、2007年6月を使用)

尾崎秀樹『黒岩重吾の世界』泰流社、1980年5月

加藤迪男編『20世紀のことばの年表』東京堂出版、2001年5月

川西政明『リラ冷え伝説 渡辺淳一の世界』河出書房新社、1993年11月

木内綾『染め織りの記』北海道新聞社、1989年9月

北野宏明『強い国より優しい国 基旭川市長・元内閣官房長官 五十嵐広三伝』北海道新聞社、2022年10月

黒岩重吾『どぼらや人生』講談社文庫電子書籍、講談社、2020年3月(底本:講談社文庫版『どぼらや人生』1973年10月) 初出:「内外タイムス」1962年3月~5月、のち単行本が『どぼらや人生』(集英社)1963年1月に刊行。
※本来ならば全集版を使用すべきだが、参照が間に合わなかったため電子書籍版を使用した

黒岩重吾『黒岩重吾長編小説全集 19 どかんたれ人生/我が炎死なず』光文社、1977年4月 
『我が炎死なず』 初出「いんなあとりっぷ」(いんなあとりっぷ社)1973年3月号~1975年5月号、のち1975年6月に単行本『我が炎死なず』(いんなあとりっぷ社)より刊行。
※本来ならば全集を使用すべきだが、本稿では参照が間に合わず、長編全集版を使用した。

黒岩重吾『とっておきの手紙』たちばな出版、2004年3月

河野多惠子・大庭みな子・佐藤愛子・津村節子監修、与那覇恵子編集協力『女性作家シリーズ 8 杉本苑子/永井路子』角川書店、1998年4月

下川耿史・家庭総合研究会編『増補版 昭和・平成家庭史年表 1926-2000』増補新装、河出書房新社、2001年4月

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』日本経済新聞出版社、2008年4月 初出=日本経済新聞土曜日付日付2007年1月6日~2008年1月5日

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら 続』日本経済新聞出版社、2009年5月 初出=日本経済新聞土曜日付日付2008年1月12日~2008年12月28日、「円地文子」「萩原葉子」「島尾敏雄」は書下ろし。

瀬戸内寂聴『いのち』 初出「群像」(講談社)2016年4月号~2016年9月号、2016年11月号~2017年1月号、2017年3月号、2017年7月号。のち2017年12月に単行本『いのち』(講談社)、2020年10月に講談社文庫版『いのち』が同社から刊行。本年譜では、2022年5月に刊行された瀬戸内寂聴『瀬戸内寂聴全集 弐拾伍』(新潮社)を使用。

瀬戸内寂聴『瀬戸内寂聴全集 弐拾伍』新潮社、第25巻、2022年5月

田辺聖子 『しんこ細工の猿や雉』 ※本年譜では『田辺聖子全集 第1巻』版を参照した。

田辺聖子『田辺聖子全集 第1巻』集英社、2004年9月

田辺聖子著、浦西和彦・菅聡子・田辺聖子全集編集室編『田辺聖子全集 別巻1』集英社、2006年8月

田辺聖子『田辺聖子 十八歳の日の記録』文藝春秋、2021年12月 初出:月刊「文藝春秋」2021年7月号。本年譜では単行本を参照。

東後勝昭・原田博光・榎本恵『ちいろば牧師 榎本保郎を語る-主を背中にお乗せし、一途に歩んだその生涯』日本キリスト教団出版局、2011年11月

永井秀夫・大庭幸生編『北海道の百年』県民百年史1、山川出版社、1999年6月25日

永井路子『朱なる十字架』文藝春秋、1971年5月 初出=「淡交」1970年1月号~1970年12月号、淡交社

永井路子『永井路子歴史小説全集 第十五巻』中央公論社、1995年12月

永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』中央公論社、1996年2月

中島啓幸『塩狩峠、愛と死の記録』(いのちのことば社フォレストブックス、2007年7月

那須敦志『旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ―コロナ禍中の住民劇全記録―』中西出版、2021年7月

西井一夫編 毎日ムック『戦後50年』毎日新聞社、1995年3月

西山嘉喜『芥川賞・直木賞150回全記録』文春ムック、文藝春秋、2014年3月

ブルーガイド編集部編『地図と写真で見る東京オリンピック1964』実業之日本社、2015年2月

福田洋著、石川保昌編『図説 増補新版 現代殺人事件史』ふくろうの本、新潮社、2011年4月 増補新版初版刊行 ※1999年6月25日初版、2002年3月30日増補改訂版初版発行

町田忍『戦後新聞広告図鑑 戦後が見える、昭和が見える』東海大学出版部、2015年11月

『松本清張 昭和と生きた、最後の文豪』別冊太陽 日本のこころ No.141、平凡社、2006年6月

山田風太郎『人間臨終図巻』Ⅱ徳間書店、1996年11月

山本候充『日本銘菓事典』東京堂出版、2004年8月

和田義男著『札幌喫茶界昭和史』沖積舎、1982年12月

『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月

『文藝別冊 歿後一年総特集 渡辺淳一』KAWADE夢ムック、河出書房新社、2015年3月

渡辺淳一『渡辺淳一恋愛セレクション2 阿寒に果つ』集英社、2016年4月

月報、解説など

磯貝勝太郎編 年譜 永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』(中央公論社)所収、1996年2月、p477-494
大野由美子 【作家ガイド】永井路子 河野多惠子・大庭みな子・佐藤愛子・津村節子監修、与那覇恵子編集協力『女性作家シリーズ 8 杉本苑子/永井路子』(角川書店)所収、1998年4月、p488-491

大野由美子編 永井路子 略年譜 河野多惠子・大庭みな子・佐藤愛子・津村節子監修、与那覇恵子編集協力『女性作家シリーズ 8 杉本苑子/永井路子』(角川書店)所収、1998年4月、p492-495

尾崎秀樹 『氷点』取材の思い出 『三浦綾子作品集第九巻 月報2』朝日新聞社、1983年6月、p1-2

尾崎秀樹 解説 『三浦綾子全集 第十巻』主婦の友社、1992年8月、p533-p538

塩谷惇子 細川ガラシャの「問い」 永井路子歴史小説全集月報15、第15巻付録、中央公論社、1995年12月、p1-2(永井路子『永井路子歴史小説全集 第十五巻』中央公論社、1995年12月7日)

島崎京子 夢見る勇気(『田辺聖子全集 別巻1』集英社、2006年8月所収)p421-477

週刊朝日編『春も秋も本! 週刊図書館40年(昭和26年――44年)』1993年10月、朝日新聞社、p492-493

菅聡子 〈女手〉の謀反者(『田辺聖子全集 別巻1』集英社、2006年8月 所収)p357-420

田辺聖子 「くすしきご縁に感謝」 田辺聖子全集 別巻1 月報 2006年8月(『田辺聖子全集 別巻1』集英社、2006年8月)、p2-4

田辺聖子 年譜 田辺聖子『田辺聖子 十八歳の日の記録』文藝春秋、2021年12月、p263-269

縄田一男 救済者としての「西欧」、あるいは信、不信のドラマ 永井路子歴史小説全集月報15、第15巻付録、中央公論社、1995年12月、p3-4(永井路子『永井路子歴史小説全集 第十五巻』中央公論社、1995年12月7日)

丹羽文雄 新聞小説作法 『文章講座 第4巻 創作方法(1)』河出書房、1954年12月、p123-139 

山根道公編「年譜・著作目録」 遠藤周作『遠藤周作全集 第十五巻 日記 年譜・著作目録』新潮社、2000年7月

紙面・紀要等

「決断の時」1973年11月号、第70号、ビリーグラハム伝道教会、1973年11月1日 ※本年譜では2022年に復刻されたものを使用した。

三浦綾子さん〝幻の小説″ 長崎の隠れキリシタン弾圧教材に 病床で取材依頼、北海道新聞夕刊、13面、2003年12月3日

石戸暉久 豊田正子『綴方教室』の原風景―向島から葛飾への道― 町の文化と歴史をひもとく会編『木根川の歴史2~時の流れを超えて想う町の歴史~』町の文化と歴史をひもとく会、2010年7月、p134

『豊田雅子研究会紀要』VOL.1、豊田雅子研究会、2013年9月

寺島玄 『綴方教室』ななぜブレイクしたか 『豊田雅子研究会紀要』VOL.1、豊田雅子研究会、2013年9月、p3-22

田中綾 あたたかき日光ー光世日記より 北海道新聞朝刊土曜日版(サタデーどうしん)、2022年3月26日より連載中 ※本稿では2022年12月24日分までを参照

本田大次郎 氷点「初めから書き直した」 朝日新聞社内報に選考担当の記事 三浦綾子記念文学館で展示 朝日新聞朝刊13版20面(道内)、2022年8月18日

WEB

三浦綾子原作|名作「塩狩峠」「海嶺」のHDリマスター化にご支援を!(いのちのことば社 2022/04/13 公開) – クラウドファンディング READYFOR

広報わっさむ  令和3年4月号 2021年4月発行、NO.797 発行:和寒町 編集:総務課情報管理係、p24
※和寒町公式サイトからの閲覧は、下記から可能。
自然の恵み野 和寒/わっさむ町 (town.wassamu.hokkaido.jp)
和寒町役場ホームへ > 総務課ホームへ > 総務課情報管理係 >広報「わっさむ」お知らせ版

これまでの歩み – 日本近代文学館 (bungakukan.or.jp)

高橋製菓・特産品インデックス|社団法人旭川物産協会 (asahikawa-bussan.net)

共成製菓・特産品インデックス|社団法人旭川物産協会 (asahikawa-bussan.net)

札幌パークホテルについて
札幌パークホテルについて | 札幌パークホテル (park1964.com)

「塩狩峠」のモデル、長野政雄さんをしのぶ集い(動画):北海道新聞 どうしん電子版 (hokkaido-np.co.jp)
https://www.hokkaido-np.co.jp/movies/detail/5293089663001

新札幌市史第5巻上 (trc.co.jp)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/0110005100/0110005100100050/s595/?pagecode=69

その他適時インターネット、北海道新聞報道等を参照した。


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